第4話 隣の部屋

 泣き声は耳に刺さるかのようで。窓がドアがしまっていることを確認した。

 涙と鼻水でぐちゃぐちゃにしながら顔を力一杯に歪めて娘は何かに抗議する。小さな手で当たるものみな突っぱねて、身体を反らし手当たり次第に蹴り飛ばす。私の手すら拒否するように身をよじって泣きわめく。全てを拒絶し、ただただ何かを欲し。欲する何かが何であるかすら、彼女は判っていないのかも知れない。

 そういうものだと、知識はあった。

「どう?」

「全然ダメ」

 徹が差し出すカップを受け取る。とってから温かさが伝わってくる。

 泣きたい気持ちを熱いココアと一緒に呑み込む。一口。二口。熱い液体がのどを通って落ちていく。柔らかい甘さに息が漏れる。身体がふいと熱を持つ。空調は完璧の筈だったけど。緊張していたとようやく気付く。

 見上げると、仕方無いねと諦め笑顔が返ってきた。

 アルコールの香りが湯気と一緒にここまで届く。先に寝ていた筈だったのだと、そして気付いた。

「起こしちゃったね」

「まどかだって、寝てないでしょ」

 グラスを置くとベッドを殴り始めた娘の手を取る。振り切られた私と違い、殴られてもけられても背を逸らして避けられても、大きな手で娘を掴む。抱き上げる。

 叫びような声にもめげず、背中を叩き軽く揺すり。

 それでようやく、収まってきた。

「夜泣きは放置するって国もあるみたいだけどね」

「勇気が要るわね」

「防音は完璧な筈、なんだけどね」

 防音がそれほど良く無かった時代は、夜泣きがご近所問題に発展したこともあったと聞く。壁一枚を隔てただけの隣の部屋。この泣き声が丸聞こえならたまらないだろう。

「ん」

「どうかした?」

 徹の目が何かを探していたから、娘用のガーゼのタオルを取り渡す。徹はぐちゃぐちゃだった娘の顔を丁寧に拭っていく。

「ちょっと温(ぬく)いかなぁ」

 おでこに手をやる。自分のおでこと比べてみる。お酒飲んでて判るはずがないでしょう。体温計を耳に当てる。ピ。

「予防接種ね」

 三七度四分。微熱。

「そっか」

 娘は昼間、インフルエンザの予防接種を受けていた。毒性はなくとも異物を体内に入れるのだ。微熱は正常な反応だ。

「夜泣きの原因?」

「とは、限らないけどね」

 あむあむとしゃぶっていた指が離れていた。気がつけば寝息が聞こえてくる。

「疲れたかな」

 徹は娘をそっとベッドに横たえる。起きないことを確かめて、二人一緒に部屋を出た。


 *


 かららんと氷がグラスで音を立てる。空調のノイズすら聞こえる静寂で、ブランデーを啜る音すら聞こえてくる。

「徹も受けてね」

「受けないと拙いよな」

「今は徹が一番拾って来やすいんだから」

「まぁねぇ」

 グラスを回す。氷が軽やかに音を立てる。私の手の中でも琥珀の液体がちゃぷりちゃぷりと音を立てる。

 徹は地上の隣町まで電車通勤をしていた。在宅で仕事をすることも少なくないが、週に一度はオフィスへと出掛けていく。今年もまたもう幾分か季節が進めば流行だなんだとニュースで聞くことになるだろう。そうなれば、電車もオフィスも安心できる場所ではなくなる。

「ここから出ないと、どこで流行ってるんだって気になるけど」

「みんなそんな感じみたい。実感がないって」

 エレベーターの中を赤外線カメラで見張っているとか、地上のエントランスホールで食い止めているとか、実は空調に消毒剤を混ぜているとか、流通している食料品に予防効果が仕込まれているとか、ありそうな話からあり得ないと判るデマまで、噂話は出回っている。

 予防接種に並んだ中で、散歩に訪れた公園の片隅で、予防接種の是か非かから、副作用の恐ろしさから、外国の衛生環境の悪口から、地下都市にいれば大丈夫という神話まで。子供を抱えたご婦人達は寄って集ってはそんな話題で盛り上がる。

 ――あのこ、アトピーでしょう? 何を食べさせたのかしら。

 ――アレルギーって、親がジャンクばっかり食べるからなるんだって聞いたけど。

「まどかはその辺、しっかりしてるよな」

 怖い顔してる。言われて私は眉間を揉む。

 ついでに嫌なことを思い出してしまったから。

「公衆衛生を何年たたき込まれたと思ってるの」

 月という閉鎖環境で、短くとも半年、長ければ年単位の生活を一度は憧れ覚悟したのだ。虫歯は何があっても作らない。予防接種はきちんと受ける。定期検診は欠かさない。海外渡航の後には念のために医者に行く。

 そういう生活を何年も続けてきたのだ。

 ――地下都市は、病気の意味でも、安定した気温管理に、湿度の管理に、何もかもが完璧で。

 そういう頼り切った人々もまた少なくないのが本当で。

「怖い顔するなって」

「してた?」

「してたよ」

 徹は空になったグラスをとる。シンクへ置いて、放置せずにすぐに洗う。

 気晴らし、しようか。

 ふと、言われた。

「気晴らし?」

「明日、地上(そと)行こうか」

 振り向き指で上を差す。天井を――地上を。

「明日害虫燻蒸日でしょ? いっそ、ピクニックでも」

 ついでに娘を疲れさせる。疲れさせれば寝付きが良くなる。私の気分転換にも。

 害虫駆除を目的として、区画を丸ごとを燻蒸する日。ドアを閉め切れば、家にいることも可能だけれど。

「いいわね」

 きまり。徹は早速、休みを告げるメールを打つ。

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