第15話 綺麗なお姉さんは好きですか(2)

 靴をはき、家を出るため玄関を開けた、そのときです。

 若い女性のようなシルエットが、森の中をすうっと横ぎっていきました。


 ……珍しい、と思いました。うちの近くには、若い女の人は住んでいません。いるのは、わたしたち家族と、森の仲間たちくらいです。しかも、こんな森の中をさまようように歩いているなんて……どう考えても、迷っているとしか考えられません。今までにも、何度か道に迷った人を駅まで案内したことがありました。家に泊めたこともあります。このあたりはそれほどまでに複雑に入り組んでいて、慣れている人でなければすぐに迷子になってしまうのです。


「さっきの女性も、きっと困っています……。だったら、わたしが助けてあげないと……!」


 玄関の鍵を締め、急いで森の中へと入っていきます。女の人は確か、こっちの方角へ行ったはずです。早く追いかけなければ、もっと森の奥へ行ってしまい、わたしも見失ってしまうかもしれません。

 道なりに歩いて、きょろきょろとあたりを見回します。すると、数十メートル先に人影が見えました。いた、いました。きっとあれですね。走ってその影を追います。


 近くへ行き、声を掛けました。


「あのっ、すみません」

「はい?」


 振り返った女の人は――息をのむほどの美しさでした。

 容姿端麗で、眉目秀麗で、男女関係なく引き込むような魅力がありました。

 女性的な艶やかさに溢れていて、その中には獣的な色気も感じられて。

 目を奪われ、声も出ません。とても、とても、綺麗な人。焦げ茶色の瞳に吸い込まれてしまいそう……。


「あら、かわいらしい女の子だこと。どうしたのかしら?」


 声までとってもセクシーです。腰を屈め、こちらの視線に合わせてくれました。思わず、どきりと心臓が跳ねます。あれ、わたしったらどうしたのでしょう。相手は女の人ですよ。どうしてこんな……ドキドキしているのでしょう。


「あ、す、すみません、突然。……あの、このあたりで人を見かけることってなかなかないので、もしかしたら困っているのではと思って声を掛けました。わたし、このあたりに住んでいるんです。だから、なにか力になれればと思って……」

「そう、そうなのね。わざわざありがとう、お嬢さん。あなたの言うとおり、確かにちょっと困っていたのよね。……あなた、このあたりで細身の若い男の人を見なかった? 追いかけていたら見失ってしまって、気がついたらこんなところまで来ていたの」


 細身の男の人? ……お姉さんの彼氏さんでしょうか。


「いえ、わたしは見ていませんが……。一緒に探しましょうか?」

「そうなのね、残念だわ。でも構わないわ、一人で探せるもの」

「そう、ですか。……でも、このあたりは危険かも、しれないです。だって……」


 だって。


 以前、誰かさんから聞いたお話を思い出します。


 そう。わたしは、確かに言われました。

 まだ出逢ったことはないですが、このあたりには……。


「このあたりには、狼さんが出るそうです。……人を襲う、とても怖い狼さんが」


 低い声で、真面目に、真剣に。危険だということを伝えようと、わたしは強い気持ちを持ってそう言いました。


 ……なのに、なぜでしょうか。


「……ぷ、くく」

「へ?」

「あは、あははっ!」


 ……笑われてしまいました。理由なんて知りません。わたし、そんなに変な顔をしてましたかね。


「……あのう」

「ああ、ごめんなさいね。悪気はないのよ。ふふ、でも、あなた、ずいぶんと真剣な顔でおかしなことを言うものだから。なんだかおかしくて」


 そんな。わたしは至って本気だったのに。

 笑った顔もすごく素敵なお姉さんではありますが、……なんだかちょっと失礼です。人の話はきちんと真面目に聞くべきですよ。こんなに真剣に話しているのに。

 頬をふくらませ、お姉さんからふいと目をそらせます。


「そりゃあ、わたしだって信じられませんでしたよ。実際に見たこともないし、いまだに信じられない話だとは思っていますけど。でも、ですけど、……知り合いが言っていたんです。さっきのわたしみたいに、とっても真剣な目つきで、『このあたりには狼が出る』と」

「へえ、”知り合い”がねえ……?」


 お姉さんは、どこか意味ありげな笑みを見せます。


「奇遇ね。私の知り合いにもいるわよ。『このあたりには狼が出るんだ』と騒ぎ立てている人が、一人ね」

「え? そうなのですか?」


 わたしは思わず目を丸くさせました。結構、唱えている人っているものなのですね。狼いる説。


 ……ということは、大神さんの話も少しは信じられるかもしれません。信じられない話ではあるけれど、信じるに値しない話ではありません。大神さん以外にもそんなことを言っている人がいるということは、やっぱりそれなりに……意味や理由はあるのであって。そう考えると、今ではとっても恐ろしいです。こうしているあいだにも、すぐそこの草陰から飛び出してくるかもしれませんし。嫌です、わたしはまだ食べられたくありません。


「そんな何人もの人が狼さんの存在を認めているのなら……本当に、いるってことですよね、狼さん。怖いです、恐ろしいです」

「そうね、恐ろしいわね。……でも、こうも考えられない? あなたに狼の噂を流した人物と、私に狼の噂を流した人物。……もしかしたら同じ人かもしれない、って」


 きょとん、と目を丸くします。


「……え。どうしてです?」

「ふふ。だって、ねえ。そんなの当たり前じゃない」


 お姉さんは、口もとに手を当て、くすくすと笑います。長い爪に、赤いネイル。それこそまるで狼さんのようだと……失礼にも、そんなことを思ってしまって。

 わたしの目を覗き込むように、至近距離で真正面からじっと見つめてきます。焦げ茶色の透き通った瞳で、ただただ、じいっと。……そして、艶かしい声で言ったのです。


「――そんなことを言うのは、しかいないからよ」


 あの男。名前は出さずとも、わたしには不思議と、それが誰だかわかります。

 そして、その言葉を聞いて、確信してしまいました。


 この人は、きっと大神さんと面識があるのだと。


 心臓がどくどくと跳ね上がるような感覚に、制服の上から胸をぎゅっと押さえました。なんでしょう。……なんなんでしょう。不思議な、感覚です。


 年齢的には……このお姉さんは、大神さんと同じくらいか、または少し上。けれど年が近いことには変わりありません。なんとなく、そうなんじゃないかという予想ですけど。


 うん、あとは、そうですね。だから、たぶん。わたしなんかより、よっぽど、ずっと……大神さんと親しい仲であることも、自然とわかっちゃうんです。


 だって、わたし、気づいてしまったのです。

 先ほどお姉さんがわたしに顔を近づけたとき……彼が淹れてくれるのとおんなじ、レモンティーの匂いがするということを。


 どういうご関係でしょうか。訊きたいですが訊けません。一言だけ……たった一言だけ、「大神さんというかたをご存知ですか」と言えばいいだけなのに。どうしてなのかは、わたしにもわかりません。ただ、それを聞いたらきっと……わたしは、かなりのショックを受けてしまうんじゃないかと、思ったのです。……気になるのに。すごく、気になるのに。


 視線を落とし、頭の中でいろいろと考えてしまいます。ぐるぐる、ぐるぐる。答えの出ない問いかけを、自分にしては振り払って。言いたい、言えない。聞きたい、聞けない。やっぱりわたしは、弱虫で、臆病です。


 お姉さんはそんなわたしの胸の内を知ってか知らずか、笑みを浮かべました。にっこりと、形のいい真っ赤なくちびるに弧が描くようにして。……ですが、わたしは笑えません。愛想笑いでもすればいいのに、今はなぜかできなくて。……それは、たぶん、この女性がきっと、大神さんの……。


「それで、あなたはこの森に狼はいると思う?」


 突然の質問です。わたしは落としていた視線を上げました。

 目が合います。本当なら、今すぐそらしたい。だって、こんな綺麗なお顔、ずっと見ていられません。綺麗、とても綺麗なんだけど、……少し怖くて。

 ……それでもわたしは、目をそらさずに。できるだけ長く、その瞳を見据えて。


「……わかりません。信じられないし……信じたくないお話です。わたしは幼い頃からずっとここに住んでいますが、まだ一度も見たことがないですし……この穏やかな森に、そんな恐ろしい動物がいるなんて考えられない。……けれど、いるかもしれません。いえ、きっといるんです。……そう言っている人が、一人でもいるならば」

「あら、そう。でも、あなたは見たことがないのでしょう? なら、信じなくてもいいじゃない。私は単なる噂にすぎないと思う。いいのよ、べつに。見たくないものから目をそらしても。怖いなら逃げても。それで誰も責めやしない。あなたの人生だもの」


 それは……そうです。そう、だけど。すべてわたしの見てきたものだけが正しいとは言えません。


 たとえばあの日、彼氏さんと会っていれば。

 たとえばあの日、母におつかいを頼まれていなければ。

 たとえばあの日、強い風が吹いて帽子が飛ばされていなければ。

 

 ――きっとわたしは、今も大神さんと出逢えていませんでした。だから。


「……わたしにはまだ、知らないことが多すぎます」


 この世界に、大神さんという素敵な男の人がいることすら知らなかったわたしです。だったら、この森に狼さんがいるのかも、彼氏さんにわたし以外の彼女がいるのかも、ひなたがなぜそこまでわたしを愛してくれるのかも、このお姉さんがいったい何者なのかも、それから、それから。――わたしが大神さんへ抱く想いも、全部、なおさら。

 わたしは、まだ、なんにも知りません。だけど、知らないままでいいとは思わない。思えないんです。……だって、知りたいじゃないですか。わたしは赤井沙雫なんです。臆病で弱虫だけど、好奇心だけは人一倍強い女の子、なんですから。


「……もし、もしですよ、仮に、万が一にでも、わたしが狼さんと出逢ってしまったら」

「……出逢ってしまったら?」

「わたしは、逃げません」


 ぽかん、と口を開けるお姉さん。

 なんだ、ちゃんとそういう顔できるんですね。


「逃げないで、真正面から向き合います」

「……そんなことしていたら、食べられちゃうかも。鋭い牙で、がぶーって、一飲み。ああ死んじゃいました残念でしたで物語は終了」

「それは……怖いですけど。まだ食べられたくないですけど。……でも仕方ないです、そうなったときは、もう。でもわたしは、物語をそこで終わらせたくない」

「そう。じゃあ、どうするの?」


 どうしましょう。

 物語を、続ける方法。


 わたしは顎に手を当て、うーんとひとつ唸ってから、言いました。


「お友達になります」


 はあ、お友達。……とお姉さんが言いました。

 そうです、お友達です。わたしが思うに、たぶん狼さんは人恋しいだけなんです。お腹がすいているなら、ごはんをあげればいいんです。一緒に食べよう、だからおうちにおいでって、そう言えばいいだけの話なんです。

 そうすればきっと、誰もがハッピーエンドになるはずだから。


「……なるほどね、わかったわ」


 ぼそりと、お姉さんが呟きます。

 それから、ふわりと微笑んで、それはもう、見間違いなんじゃないかってくらいにやわらかい笑みを浮かべて、

 ……わたしの頭を、そっと優しく撫でました。


「あなたはとてもいい子ね。そして、優しい。……ほんと、あの人が手を出すのは、もったいないくらい」


 え? ええと……ごめんなさい、言っていることが理解できません。いったいどういうことなのでしょう?


「あ、あの」

「大丈夫。心配しなくても平気よ」


 そう言って、お姉さんは赤いくちびるに人差し指を当てました。


「じつはね、私、この森の奥に住んでいるのよ。だから、森にはなかなか詳しいの。このあたりには、まだ来たことがなかったけれど。ね、だから心配しないで。……狼なんて、いやしないから」


 言い終えると、お姉さんは再び森の奥をじっと見据えます。それは、まるで獲物を狙う獣のように……くちびるを舌でぺろりと舐めました。


「人を追っているの。私は先を急ぐわね」

「え、あ、待ってください……!」


 わたしの声なんて届いてないみたいに、お姉さんは歩き出しました。しかし、数歩ほど進んだのちに、ぴたりとその足を止めます。それから肩ごしにわたしを振り返り、こんなことを言いました。


「ああ、そうそう。せっかく仲良くなれたのだし、ひとつだけ警告してあげる。この森に本物の狼はいないけれど、もしかしたらあなたは“オオカミ”に狙われているかもしれないわ。気をつけてね。……赤ずきんちゃん」


 ……そう言い残し、今度こそお姉さんは足早に道の先へと歩いていってしまいました。あっという間にその姿は木々の中へと消えていきます。わたしはもう、追うことはしませんでした。


 赤ずきんちゃん。小さい頃によく言われた記憶があります。

 赤ずきんちゃんは、わたしが憧れていた童話のひとつ。大好きなお話。だからわたしは、本の中の彼女を真似て、いつも赤い服を着ていたのです。いまだにそれは続いていて、新しく買う服もほとんどが真っ赤なものだったりします。母には、いい加減違う色のものも買ったら? と呆れ気味に言われますが。


 ……しかし、なんだか意味ありげな怪しいせりふを言われてしまいました。

 わたし、狙われているのでしょうか。

 あのお姉さんいわく、本物の狼さんはいないとのこと。でも別の狼さんはいるらしいです。わけがわかりません。別の狼っていったいなんでしょう。動物? 人間? それとも、それ以外のなにか? ……わかりません。謎です。ミステリーです。

 お姉さんはわたしのことを「赤ずきんちゃん」と呼びましたが、なにかの暗号でしょうか。わたしの知っている赤ずきんの物語には推理要素はなかったはずですが。


 ふと、足もとに視線を落とします。

 黒いローファー。紺色のスカート。赤いスカーフに、金色のボタン。

 手には学生鞄を持っていて……どこからどう見ても、制服を身にまとった普通の女子高生です。


 ……おやおや。なんか変です、おかしいです。


 だって、今日は平日で、学校があって、わたしは制服を着ていて。わたしは赤が大好きなので、私服だったら赤の帽子やポンチョを身につけるのでまだわかりますが、でも今はそうじゃありません。それでも、あのお姉さんはわたしのことを「赤ずきんちゃん」と、確かにそう呼びました。わたしと彼女は初対面なのに、ですよ。今のわたしには、赤ずきんの要素なんてひとつもないはずなのに。


 ……ああ、やっぱり、この世界は呆れるほどに、想像以上に、目まぐるしいくらいに、

 ――わたしの知らないことばかりで溢れています。

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