春子

 その夜、荷造りを終えた私は、母校である中学校へと来ていた。日付が変わるほどの時間にもなると、夜風はまだまだ肌寒い。首を竦めて腕を抱いたまま裏門から入り、体育館脇を抜け、非常階段を2階まで登る。


「まだ開いてるかな」


 校舎へと続く扉に手をかけて力を入れると、拍子抜けするほど簡単に開いた。あの頃と同じままだ。靴を脱いで持ったまま廊下へ入り、そのまま進んで理科室へと侵入する。


 何年ぶりかの夜の理科室は、相変わらず綺麗だった。校舎の2階の一番端。整然と流し付きのテーブルが並んでいた。街灯と誘蛾灯に一番近い教室は、窓からほの蒼い光を受け、幻想的に照らし出されている。ばね測りに天秤、ビーカー、フラスコ、ガスバーナー。棚の中の実験器具たち。窓際に寄って外を見下ろすと、月明かりに照らされたグラウンドとプールが見える。水を張っていないプールは、暗くて、深くて、少し寂しい。


「夏に来たかったな」


 夏、という言葉がぽろりと漏れて、夏男の事を思い返す。中学生の頃、夏男とここで良く会っていた。何をするわけでもなく、明け方になるまで喋っていた。時には黒板を使って授業の真似事も。夏男が適当に書いた事に、赤チョークで訂正を入れるのが、なんだか先生みたいで楽しかった。最後には、じゃんけんをして負けた方が消して帰るのだ。夏男はよく忘れ物をして、朝のHRが始まる前に、もう一度来る羽目になっていたっけ。


 私は当時、あまり家にいたくなかっただけだったのだが、夏男もそうだったのかはわからない。ひとつ言えるのは、私の、私にとっての思い出の教室はここだということだ。思えば、私が物理学関係の進路を選んだのも、この「理科室」の印象が強かったからなのかもしれない。少しだけ反抗した気分になれて、明かりがあって、安全なこの教室が。そして、夏男も同じ進路を選んだ。


 私はずるい。ずるくて、意気地なしだ。なぜ夏男が同じ高校を選んだのか、なぜ同じ部活に入ったのか。私はその理由を知っている。なぜ、夏男が今日まで私に告白をしなかったのか。その理由も知っている。私がそういう空気を出していたからだ。関係が変わるのが怖い、だから言わないでいてね、という空気を。


 それなのに今日、私はそのことを夏男のせいにしてしまった。練習したセリフだけを言って帰ろうと思ったのに、あまりにも真っすぐに好きと言われて、舞い上がってしまったのだ。思い出すだけで頬が熱い。なんとか諦めてもらわなくてはと焦るあまりに、酷いことを言ってしまった。でも。


――でも、これで良かったのかもしれない。


 あれで、夏男もふっきれてくれるだろう。嫌われるのは、正直言って辛い。だけど、それくらいで丁度いい。実際、私は嫌な奴だ。無力で意気地なしの私には、家族から逃げることなどできない。進路は引っ越し先の近くの大学に決められている。もしかしたら私は、同じ意気地なしのくせに、いざとなったら好きなことを好きなように行動に移す夏男に嫉妬していたのだろうか。それで、咄嗟に酷いことを言ってしまったのかもしれない。いや、もう夏男の事を考えるのはやめよう。


 幸いなことに、入学する大学には、物理学の世界では、ちょっとした有名人である名物教授のゼミがある。色んなことを忘れて勉強に打ち込むには、いい環境だ。


 よし。私は声に出す。よし、吹っ切った。一人で頷く。そして、首を振って苦笑いする。吹っ切った人間は、深夜に一人、リスクを冒してまで想い出の教室に侵入なんて事はしない。嘘つきな私でも、自分にだけは嘘は付けない。いっそ、このむしゃくしゃした気持ちを、黒板にでも書き散らしてしまおうか。そう考えて黒板に向かった私は、しかし、動けなくなってしまった。


 目の前一面には、先客が書き散らしたメッセージが広がっていた。

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