第12話 渡来の魔神と六つの銃

 夕日は残照を残すのみで、ほんの少しだけ欠けた満月がうっすらと空に浮かんでいる。

 しかし音の無い結界の中、誰も空を見上げる余裕は無い。

 辛うじてでも顔を上げられる者は、突如現れた外法様と呼ばれた尼僧に視線を奪われていた。

 外法様は現れた場所から一歩たりとも動いていない。

 その必要すらないかのように、周囲に平伏ひれふす者達を悠然ゆうぜんと見下ろしている。


「迎えに……?」


 外法様を見上げる血姑けつこの声はわずかに震えている。

 それが畏敬の念によるものか、それとも恐怖によるものかは血姑自身も分からなかった。

 与えられた力を封じられ、不覚を取った身を恥じる気持ちもある。

 そんな血姑の思いをむように尼僧の言葉は柔らかかった。


「余の手勢で誰よりも足が速いのは、余だったと言うだけです。灰河童はいがっぱの目を連れ添わせていて助かりました」


 周囲が結界に包まれてから、身じろぎ一つしなかった鴉が大きく翼を羽ばたかせると外法様の肩にとまった。

 鴉の目が赤く輝き、じっと血姑を見やった。

 その視線に血姑は内心で歯噛はがみする。


 監視のために同行していたのは分かっているが、まさか外法様にも失態を見られていようとは思わなかった。

 灰河童達は今でこそ外法様に仕えていても、腹に一物あるのは誰の目にも明らかだ。それなのに自らが手に入れた情報を、そのまま伝えるとは思わなかった。

 自分の失態は、ひいては自分に術を施して無情の傀儡くぐつとした、外法様の立場や能力を疑うものとなりかねない。

 白姑はくこに続いて血姑まで敗れたとなれば、残る青姑せいこの立場も弱くなるだろう。


「そ、それよりもあなた様が動かれては――」

「いいのですよ。余が創りし無情の傀儡、それが一つでも欠けては困ります。それにこの姿はこだま……此岸しがんを震わせる余の影です。本来の余はあの座より動いていません」


 耳に心地よい声音はゆっくりと染みこんでくるように響く。

 しかし肌に感じるのは安らぎよりも込められた恐怖が先に立つ。


「ふん、君が首魁しゅかいか。分身を差し向けるとは随分と臆病な話じゃないか」


 一縷いちるは食いしばった歯の間から、押し出すように声を上げた。

 周囲に放った糸を体に絡めて無理に体を起こそうとするが、体の方は外法様の言葉に従おうとする。

 蜘蛛の変化である一縷の膂力は見かけを大きく上回る。しかしその膂力が今は自分の体を押さえ込んでいた。

 あらがう姿を見下ろす尼僧は楽しげに目を細めて口角を上げる。


「青姑から聞いていますよ、淨見きよみ一縷いちる。ごく親しい者以外はあまり評価しない青姑がとても褒めていました。是非とも余の手勢に加えるべきと、あの子が強く進言してくるなど初めての事です」

「僕は誰ぞの風下につくつもりは無い。それが君のような何かも分からぬ者の下など願い下げだね」


 一縷自身、強がりだと分かっている。

 目の前の尼僧――外法様はこれまで遭遇した相手の中でも格段に危険だ。

 怨みをつのらせた祟り神や、欧州ヨーロッパの古き魔神をも凌駕しかねない力量を持つのは肌で分かる。

 これが分身だと言うのだから、力の底が知れぬにも程がある。


「……何か、誤解しているのでは?」


 外法様は眉をひそめて僅かに首を傾げる。

 抑えもせずに放つ気配にはそぐわない所作しょさは、浮世離れしているとも取れなくはない。


「余は、手勢でもない者に選択肢を与えたつもりはありません。余の元につきなさい。悪いようにはしません」


 言いながら一歩だけ歩を進める。

 足元に淀んだ漆黒の影が地面を焼きながら主に付き従う。

 ほんのわずかな影の濃淡が幾つもの異形の顔を形作り、今にも影の中から湧き出しそうだった。

 一縷の返答次第では、今すぐにでもそうなるだろう。


「断る。君らの所業も目的も、一から十まで気にくわない」

「それでこそ、それでこそ青姑が余に推すだけの事はあります」


 冷や汗をかきながらも口の端を上げ、表情だけでも余裕を見せようとする。

 その強がりを眺め、外法様は楽しそうに口元を袖で隠す。抑えていても小さな笑い声が漏れる。

 だが地を踏みしめる音がその声を止めた。

 【刀】を支えにして立ち上がった武雄たけおは、震える足に力を込める。


「先生はお前なんかの手駒になりはしない。人間も、お前の望み通りになんてならないぞ」

「坊ちゃんっ、口を挟んでは――」


 青眼に【刀】を構える武雄に、十蔵じゅうぞうは辛うじて動く手を伸ばすが外套マントの裾にも届かない。

 その姿を認めると外法様は目を細める。


「ああ、とても良い。その刀を携え、振るう資格もある。少々混ざり物はあれど、人の身、人のわざ、人の心で余に抗う姿……どこまで抗しえるか試してみたくなってきます」

「逃げるんだ坊ちゃん! 早くっ!」


 外法様は武雄に一歩二歩と近づく。

 構えた【刀】の切っ先は抑えようもない畏怖に小さく震える。

 十蔵の言う通り、逃げられるものなら逃げたい。しかし逃げられる間合いではなく震える足は満足に動かない。

 呪符を展開するにしても、どこまで通用するかも分からない。


「最後まで抗ってやる」

「それでこそ人間です。素晴らしい」


 武雄の言葉に外法様は満面の笑みを返す。

 だがその眼前に幾重もの蜘蛛の巣が張り巡らされ、不可侵であった歩みを止めさせる。


「その子に近づくんじゃあない……!」


 地の底から響くような声で、一縷は唸った。

 怒りに突き動かされる体が糸を繰り出し、外法様の放つ気配による重しのような畏怖をもはね除ける。


「楽しい。素晴らしい。余に近づいてこれほど動ける者はそういません。青姑の眼鏡にかなうだけあります。ほんの少し、余としてもあなたが欲しくなりました」


 周囲をぐるりと蜘蛛の巣に囲まれながら、外法様は全く意に介さない。

 事実、蜘蛛の糸は足元に広がる影の間合いには一本たりとも入り込んでいない。


「今のうちに下がれ、武雄。そこでは僕の糸に巻き込まれる!」

「はい、先生っ!」


 縮地の術で糸を手繰って、一瞬のうちに武雄は一縷の傍に並び立つ。その後ろでは何とか十蔵が身を起こし、周囲に狐火を灯していく。


「坊ちゃん巻き込むのはやめましょうや。あっしが代わりに――」

「全員だ。全員でかからねば傷一つつけられんぞ」

「余を傷つける? それは過ぎた望みでは? ……血姑、余の後ろに下がりなさい」


 命を受けて血姑は慌てて走り出す。

 その顔は恐怖に引きつっている。

 これから外法様が何をするか、この中で血姑だけが分かっているからだ。


「余の力の鱗片、少しだけ見せて差し上げましょう」


 肩に止まっていた鴉が逃げるように飛び立つと、影が渦巻き広がる。

 その中から耳をろうさんばかりの絶叫、雄叫び、しゅうしゅうと何かが噴き出す音、何かが擦れ壊れるような音が鳴り響く。

 一つや二つではない。十や二十ですらない。百を超える怒号が混ざり合って周囲を激しく震わせる。

 外法様の左右で影が立ち上がり、形を成していく。

 その数も大きさも禍々しさも、青姑が喚んだ百鬼夜行とは文字通りに桁が違う。

 ゆっくりと右手を挙げると三人を人差し指で指す。


「ああ、青姑辺りと比べないでください。あれは余の力をわずかに貸し与えただけですので……さあ、千五百ちいほの――」

「そこまでにしましょうよ」


 一触即発の気配が満ちる中、どこか気怠げな声が響く。


「例え谺であっても、あなたの術はこんなちゃちな結界の中じゃ使えるものじゃない。結界諸共、ここら一帯が真っ平らになってしまう。今の段階では目立ちすぎてはいけないんだろう?」


 口を挟んだのは、瞬き一つもない間に外法様の背後に現れた男。

 少し着崩した三つ揃いに身を包んだ、年の頃は三十がらみといった金髪碧眼の西洋人だ。野性味の溢れた彫りの深い顔立ちを、冷笑的に歪めている。

 外法様は表情を消して肩越しに振りかえった。


「余のする事に口出しを?」

「度が過ぎればしますとも。俺とあなたの関係はそういうものでしょうに。違いましたっけ?」


 気勢を削がれたのか、外法様は上げていた右手を下ろすと息をついた。同時に形を成していた影も崩れて、足元に淀む影の中に沈んでしまう。


しかしかり。久しく忘れていた気持ちに、危うくこれまで巡らせた策を台無しにするところでした。感謝します、マモン卿」


 マモンと呼ばれた男はいかにも楽しげに笑った。冷笑はなりを潜め、人好きのする笑顔ですらある。

 両手を大げさに広げると、快活な声を響かせる。


「あなたは人間が大好きだからなあ。俺も灰河童の目を通して見ていたけれど、そこの少年は中々に筋が良いようだ。昔を思い出したんでしょう?」

「それも然り。今日のところは血姑の迎えだけするとしましょう。ですが――」

「こっちの筋としては、ただ帰るだけでは子供の使いも同じ。それは分かりますよ。だから」


 マモンが両手を下ろすと、右手を軽く握りこむ。その親指が僅かに動き、一瞬の煌めきが走る。

 一縷は即座に糸を繰り出すが、それをかいくぐった何かは一縷の右肘にめり込んだ。

 途端に肘が内側から弾け飛ぶ。

 傷口から溢れるのは、鮮血とそれに濡れた数十枚もの金貨だ。


「腕の一本は貰っていかないとね」

「貴様っ!」


 【刀】を構えて斬りかかろうとする武雄を、一縷の糸が絡み止める。


「腕一本のお代としちゃあ大盤振る舞いな事だ。だが僕の腕はこんな端金はしたがねで買えるほど安くないぞ?」


 一縷は傷口を糸で包みながら、足元に散らばる金貨へ僅かに目を落とした。

 確かに当たったのは一発のみ。

 金貨は体の中で増えたとしか思えないが、にわかには信じられない能力だ。西洋の錬金術が見たら悶死しかねない。

 それも親指で弾くだけで金貨を銃弾並みの威力で叩き込める。その威力だけでも十分に脅威だ。


「ははっ、たかが歳経た蜘蛛如きが偉そうな口をきくものだ。しかし、このまま俺が相手をしては、何のために止めにきたか分からないな」

「然り。血姑はこちらに戻ったのです。刀一本と腕一本。引き換えにするには数の上では同じ。楽しい催しではありました」


 外法様の言葉に驚いたのは血姑だ。

 血の気の引いた顔であわあわと口を開くが、驚きのあまり言葉をつづる事が出来ない。


「いいのですよ。筋書きを少しばかり書き換える事で、最後は何事もなく余の思う様になるでしょう」


 敬愛する存在にこうも言われては、血姑は何も言う事が出来ない。

 項垂うなだれたまま、小さく首を縦に振る。

 対して顔をほころばせた外法様も応えるように小さく頷いた。


「今はこちらが退きましょう。次に相見あいまみえる時を楽しみにしています」


 きびすを返すと、足元の影は染みるように広がっていく。

 その中に外法様と血姑が沈み込む。

 最後に残ったマモンは三人に手を振ると、二人に続いて影の中に沈んで消えた。残った影もすぐに地面へ染みこんで消えて無くなる。

 血姑がいなくなった為か、音の無い結界は霧散し、一縷達は元から展開していた十蔵の結界の中に取り残された。


 途端に、どっかと十蔵は地面に座り込み、武雄も体の力を抜いて膝を突く。

 一縷だけが三人の消えた地面を強く睨み付けていた。


「こうもしてやられては、腹の虫が治まらんね」

「それよりも傷は……」

「止血はした。こういう時には自分が蜘蛛の変化である事に感謝だ」


 心配そうに顔を覗き込む武雄に、一縷は表情を崩して答えながらそっと頭を撫でた。

 喜色を浮かべる武雄に見透かされないよう、一縷は痛みをこらえて微笑みを維持する。

 その様子を見上げる十蔵は、地面に胡座あぐらをかきながら息をつく。


「ほんとに今回ばっかりは命の危機にも程がありましたぜ。何ですかあれは。そんじゃそこらの祟り神なんかじゃないですぜ。渡来とらいの魔神にしたって、あそこまでのもんは滅多なことでこの世に出てくるもんじゃない。地獄の奥底から出てきたって言っても納得出来ますぜ」

「確かに。あれはちょっと僕も出会った事がない……並外れなんてものじゃないな。マモンってのに心当たりはあるかい?」


 その疑問には横から口を挟んだ武雄が答える。


「あれがそうとは限りませんが、基督キリスト教における罪の一つで強欲を司る悪魔がそんな名前だったと記憶しています」

「いやはや、こちらは本当に渡来の魔神か。事件はどんどん大きくなっていくな」


 蜘蛛の巣を回収しながら、一縷は取り落としていたステッキを左手に握った。石突きで地面を突きながら、つぃと視線を動かす。

 いつの間にか外法様の肩に止まっていた鴉も消えている。

 まだ十蔵の結界は健在であり、どうやったか外法様達が回収したのだろう。

 一縷に釣られて周囲を見回していた十蔵は小さく舌打ちする。


「くそっ。やられた」


 十蔵が睨む先には小さな血痕。

 ほんの数分前まで田山が倒れていた場所だ。十蔵の鼻でも結界の中に匂いは残っていない。

 外法様に視線を奪われている間に連れ去られたのだ。


「う、む……何が……」


 目を覚ました典治てんじは呻きながら、頭を振って身を起こす。

 意識がはっきりしてくるにつれ、何が起こったのかが思い出されてくる。だが周囲を見回しても、自分を襲った二人は見当たらない。

 その代わりに一縷と見覚えのない少年がいた。


「一縷さん、この様子だと追い払えたんですかい?」

「なんとかと言うところさ。この帝都でもちょっとお目にかかれないような奴まで出てきたぞ。君にも見せたかったよ」


 苦笑交じりの片笑みを浮かべた一縷は大きく肩をすくめた。






「んっ、あうっ! んお……あっ! いっ、いぁっ、んんんっ!」


 百合坂ビルヂング三号館三階、一縷が私室として借りている部屋では石油洋燈ランプだけが灯った薄暗い中、喘ぎにも似た女の声が響き渡る。

 柱時計の時刻は午後の八時を過ぎ、振り子の奏でる律動リズムを圧して、止むことのない声は獣の吠え声じみている。

 その声の主、一縷は洋風な寝台ベッドの上で裸になり、自らの皮を脱ぎ捨てようとしていた。


 蜘蛛は脱皮によって成長するが、それは主に幼体や亜成体の間だけ行われ、成体となってから行う種は一握りだ。

 一縷の元となった絡新婦じょろうぐもはその例に漏れず、幼体や亜成体の間だけ脱皮を行い、その時に欠損した手足を同時に再生させる。

 本来は成体が歳経て妖怪となった一縷は脱皮を行わない。

 だが妖怪となって後はかなりの体力と引き換えに無理矢理脱皮を行って、肉体的な欠損を再生させる術を会得した。


 勿論弱点も多い。

 脱皮は古い皮を脱ぎ捨てる間無防備になり、妖怪である一縷でも糸を操ることすら出来なくなる。それに脱皮後しばらくは、膂力も肌の頑健さも大きく落ちる。


 その間、一縷がおのれの身を守るために呼んだのが、寝台横の椅子に腰掛ける武雄だ。

 寝台の周囲には呪符を配して結界を張り、不埒者が襲ってきても時が稼げるようにしてある。

 しかし当の武雄と言えば、頬を紅く染めながら両目を固く瞑り手で耳を塞いでいた。護衛として外を警戒するよりも一縷の声に心奪われ、振り向かないようにするのが精一杯のていであった。


 一縷が脱皮を初めて三十分も過ぎた頃、武雄の耳に漏れ聞こえる一縷の声が段々と小さくなって、ついには聞こえなくなる。

 耳を押さえていた手の力を緩めると、激しく脈打つ鼓動を抑えるために大きく息を吸い込んでから口を開く。


「もう終わりましたか……?」

「うむ。もうこっちを向いて良いぞ」


 その言葉を信じて後ろを向いた武雄が見たのは、文字通りに一糸まとわぬ一縷の裸体であった。

 顔を赤面させ慌てて背を向ける武雄を見ながら、一縷は小さく笑った。


「むかーし君がまだ歯も生えそろわぬ頃、僕がお風呂に入れてやった事もあるのだぞ。僕の裸なんて今更の事だろうに」

「済みませんっ。光栄の至りではありますが、皆目かいもく覚えておりませんもので……」


 縮こまってさも申し訳なさそうに呟く背中は、昨夜と違って年頃のうぶな少年のものだった。

 一縷は枕元に置いてあった下着――洋装の乳房バンドやドロワーズではなく、昔ながらのさらし・・・畚褌もっこふんどしだ――を生え替わった右手も使って器用に身に付けると、男物のワイシャツに袖を通す。

 いつもなら蜘蛛糸を巻いて下着代わりにするのが常だが、脱皮したてではまだ糸を繰り出せる体調ではない。

 あと一日程度は既成のもので我慢するしかなかった。


「ところで、伊崎さんからも続報はなく……?」

「今のところは何もない。武雄も知っての通りの事だけ――もしかすれば、最初からこうするつもりで警官である田山をそそのかしたのだろう」


 スラックスを履きながら一縷は洋卓に乗った新聞に目をやった。

 外法様との遭遇から丸一日経った今、ある事件に世間は大騒ぎであった。

 現役警官が割腹自殺した事と、その警官が三ヶ月ほど前から一時期世を騒がせた殺傷事件の犯人であると、新聞は各社一面で報じている。


 割腹自殺をした某警官――田山一心は、腹を切って世に詫びる前に幾つかの新聞社に、自室におかれていたのと同じ遺書を送っていた。

 共産主義者コミュニスト無政府主義者アナキスト、怪しげな新興宗教に耽溺たんできする者。

 国を憂う余りに彼等を刃にてちゅうしたものの、その罪深さに耐えきれず、腹を切って無用に世を騒がせた詫びるものなり――遺書の概要はそんなところだ。


 遺書の確度を高めたのは、一般には公開されておらず捜査本部にしか分からない事も書かれていた点だ。

 勿論、刑事でも無く所轄も違う田山には、到底知り得ない情報である。

 それが新聞社へ直に届けられた為に、警察もこの遺書を無視する事も握りつぶす事も出来なかった。

 下手をすれれば何人も警視庁の幹部が首になるだろう。


「世を騒がせる事が目的と?」

「だろうね。帝都の治安を守る警官が、尻に火が付いた牛の如く暴走して数十人を手に掛けたのだ。きな臭いと噂の特別高等課の事もあるし、警察への不信感は当分の間続くだろう……でもこれは、恐らく第一歩か二歩だ」


 推測ではなく確証を持って言い切った。

 青姑が語った目的は、こんな事だけでは達成出来ない。

 次の手、もしくは別の手が今も一縷や帝都の住民が知らない所で動いているだろう。


「まあ、僕としてはこれからに向けて荒事に長けて、しかも貸しがある友人が一人出来たのは喜ぶべき事だ。僕とて腕っ節には自信はあるが、腕力に限れば鬼に敵うものではないからね」


 ジャケットを羽織りながら、一縷は典治の顔を思い出していた。

 半ば自力とは言え腕を取り返した典治は、いたく一縷達に感謝して今後も何かあれば協力する事を約束した。

 その際に十蔵の目が少々冷ややかだったのは、早めに忘れようと思っている。


 身支度を調えた一縷は寝台に横たわる抜け殻を手早く丸めて、拳大に握りつぶすとごみ箱に投げ入れる。

 放っておいても朝を待たずに塵になってしまうが、寝台を汚すのは好きでは無い。

 武雄は一縷をじっと見つめ、おずおずと口を開いた。


「先生はやはり……あれと敵対するおつもりですよね」

「弱気な事を言うじゃないか。あんな者を放置していてはこの帝都が、ひいてはこの国がどうなる事か想像もつかん。知ってしまった以上は、出来る事はせねばならんだろう。それに――」


 一縷は棚の上に無造作に置かれた、抜き身の【刀】に目をやった。

 試しにと何度か一縷が糸を巻き付けてみたが、その刃を封じるどころか触れた端から一縷の糸は切断され、刀身に張り付く事すら出来ていない。

 何もしておらずとも結露したように濡れた刀身は、それでいて水滴を滴らせる事もなく洋燈の明かりに輝いている。


「あれがこちらの手にある上に、相手が退く事はなかろう」


 寝台に腰掛けながら細い顎に指を添えて考え込む。

 洋燈の暖かみのある光に照らされる顔は、見慣れている武雄ですら目を離せなくなるほど妖艶だった。

 一縷は武雄の視線に気がつくと、淡く笑む。

 蠱惑的な気配を纏った一縷を見ていると、武雄は先ほどの声を思い出してしまい頬を染めて顔を伏せた。


「何だね何だね。外法様とやらにも楯突いた昨日の威勢はどうした。あのお爺様が手塩にかけた陰陽師ともあろう君が、これじゃあまるで――」

「先生」


 武雄は声を落として、まだ幼さの残る顔を引き締めた。

 周囲に視線を走らせ耳を澄ませる。

 今は一縷の糸による警戒は機能していない。時間が経てば糸を繋ぎ直して元のようになるが、脱皮直後ではそうもいかない。

 その代わりに武雄が周辺に張った呪符が、近づく者を探知する。それに引っかかった者達が複数、足音も忍ばせずにビルヂングに入り込もうとしていた。


 どう動くか視線で問いかける武雄に、一縷は寝台から腰を浮かせる事すらしない。

 小さく笑みを浮かべたまま、ぴんと立てた人差し指を自分の唇に当てて見せる。

 張り巡らせた糸とは繋がっていないが、一縷は何らかの確証をもって武雄を止めていた。


 それを裏付ける様に、階段を上ってくる幾人もの足音が聞こえても、一縷は余裕を崩さない。

 扉が荒々しく開くと、部屋になだれ込んできたのは六人の男達。荒事に長じた気配を漂わせ、何かしらの訓練を受けた者なのは統率された動きで分かる。

 しかし外見は目立つ所がなく、全員が地味な三つ揃いスリーピースに身を包み、手にた揃いの自動拳銃が異彩を放つ。

 六つの銃口は武雄を無視して一縷に向けられた。

 気色けしきばみ体を強ばらせる武雄の指には、いつの間にか六枚の呪符が挟まれていた。椅子に座ったままでも、男達が銃爪ひきがねに引くより早く術を繰り出せる。

 一縷は六つの銃口に睨まれながらも、敢えて明るく言い放った。


「やあ、初めまして。依頼なら一つ下の階に来てくれると嬉しいのだが。なに、僕は宵っ張りなたちだ。夜中でも正統な依頼であれば受け付けるよ」


 冗談めかした一縷に対し、男達は眉をひそめる事もない。

 だが男達の一人、ロイド眼鏡をかけた面長の男は、仲間から一歩進み出ながら低い声で告げた。


「我々は帝国陸軍だ。淨見一縷及び百合坂武雄。お前達に聞きたい事がある。同行してもらおう」


 憲兵のように高圧的ではないが、静かな口調の下には有無を言わせぬ態度がありありと見えた。

 その証左しょうさとばかりに、銃爪にかかった指にほんの僅かだが力が入る。

 軍服を着ておらず身分証でもある軍隊手帳の所持すら分からず、男達の言い分を裏付ける物は何もない。

 強いて言えば男達の漂わせる気配や立ち振る舞い、揃いの自動拳銃が軍隊組織の一員であると言えなくもない程度だ。


 一縷は立ち上がると、椅子の背にかけてあった二重回しに袖を通した。

 脱皮直後では拳銃弾を肌で止める事も出来ない。

 それでも一縷は不敵な笑みを浮かべ、傍らの武雄に声を掛ける。


「依頼料は弾んでもらうぞ――さあ、行くよ武雄。新しい依頼だ」

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