第4話 少女達

 自宅を出て一時間後、田山は東京府岩淵町にある、通りからも外れた小さな神社へと到着していた。

 腹は減っているが、それを忘れそうなほどに胸が高鳴っているのが自分でも分かる。

 鳥居をくぐると参道の両側に生えた榊の木は手入れもされておらず、境内を人家の明かりからも月明かりからも遮っている。

 枝葉の隙間から差し込む月明かりを頼りに、田山は参道をゆっくりと歩く。

 拝殿も社務所もないこの小さな神社に、何が祀られているのか田山は知らない。

 これから会う相手が指定したのがここだというだけだ。

 当然拝むつもりもなく、無作法にも本殿に設えられた階段にどっかと腰を下ろした。


 いつもの癖で、懐に忍ばせた回転式拳銃リボルバーの重さを確かめる。

 自分にはこれがある。

 何があっても、これさえあれば身を守る事は出来ると、鉄塊の重さが語りかけてくるようだ。

 剣術を学んでいる田山は、武器というものの強さを幼い頃から分かっている。木刀一本ですら、その長さと遠心力からくる威力は骨を砕くほどだ。

 それが火薬で弾丸を撃ち出す拳銃ともなれば、小指の先ほどの金属塊が人の命を容易く奪う。

 それが懐にあるのだから、どう話がこじれても負ける事はない。


 警官とは思えぬ獰猛な笑みを浮かべた途端、周囲の空気が変わった。

 気温が下がった訳でも風が吹いた訳でもない。

 虫の音や遠くから響く音が一切しなくなり、心細くなるような静寂が境内に満ちる。


「こんばんは、田山様」


 背後からかけられた声に、思わず腰を浮かせて振りかえる。

 そこにいたのは花をあしらったかすりの着物に女袴、狐の面で顔を隠した束髪シニヨンの女学生だった。

 夜目にも映える白いリボンを揺らしながら、少女は一歩だけ階段を降りる。


「お早いお着きで何より」


 楽しそうな声音とは対照的に、田山は懐から手を出さずに女学生を見据える。

 いかめしい顔の田山の視線を受け、女学生は口元に手をやり――笑った。


「田山様。わたくしをそう睨まれましても困りますわ。わたくしは今の日本をうれうあなた様の味方でしてよ」


 身長百八十センチ、体重九十キロを超える田山からすれば、頭一つ以上小さな少女など容易く制圧出来る。

 体格や武器という優位を得ていても、彼女を前にすると今の・・田山は気持ちが畏縮してしまう。それが強ばった体や懐の回転式拳銃を握る手に現れているのを、狐面の女学生は見抜いている。

 拳銃を持った一回り以上体格の大きな男を前にしても、自分の優位を疑っておらず、それが事実である事は田山も狐面の女学生も分かっていた。

 しかしここで臆する訳にはいかぬと、少し唇を噛みながら昨日の事を思い出して自らをたかぶらせる。


 水面越しのように揺らぐ赤みがかった景色と、鬼の腕に刃が食い込みそれを断ち切る手応えは、つい先ほどの事のように思い出せる。

 途中で邪魔こそ入ったが、化け物を斬る手応えは共産主義者や無政府主義者、愚にもつかない宗教にうつつを抜かす奴らを斬るより――楽しい。




 三ヶ月ほど前から、昨日のように世界が赤く揺らいで見える事があった。それとほぼ同時に今日のように差出人不明の紙片が、毎日のように家の中に置かれるようになった。

 最初は手の込んだ悪戯かと思っていたが、寝ずの番をしていてもいつの間にかちゃぶ台の上に置かれていた紙片に、不気味さを感じながら興味も引かれた。

 紙片が置かれるようになって一週間ほど経ち、警戒心よりも好奇心が勝った田山は、書かれていた場所へ――この神社へと足を運び、狐面の女学生達と出会った。

 そしてその日から、田山は辻斬りへと変じた。


 最初は共産主義者コミュニスト無政府主義者アナキストのような、害悪にしかならない人間達を殺した。人を誅する時は手近な包丁などを使い、死体は狐面の女学生がどこかへと運び去った。

 何回か人を殺した後、束髪の女学生は一本の刀を田山に渡してきた。

 これを使って、化け物を討てと。

 田山は化け物の存在など信じてはいなかったが、女学生達は帝都へ潜んだ化け物の居場所へと田山を導いた。

 世界が赤く揺らいでいる最中は、例え相手が数人がかりだろうと化け物であろうと負けなかった。

 道場で木刀を振るっていた時とは比べものにならないほど機敏に、そして的確に相手の急所を狙って刃を振るえた。

 手に残るその感触は、今や田山を虜にしていた。




「それで……今日は何をすればいい? またあれを使っていいんだろう? 昨日の続きか? 鬼を討つか、それとも邪魔をした奴の正体が分かったのか?」


 田山は昂ぶる気持ちを隠す事はせず、早口でまくしたてる。

 昨日の事を思い出すだけで、背筋が震えてくるほど興奮が抑えきれなくなっている。その興奮をもって、奇矯ききょうないでたちをした女学生をしっかりと見据える。


「あやつらを、帝都を脅かす化け物共を討ち漏らしていては、この国は駄目になる。早く誅せねば――」

「慌ててはいけませんわ。その前に……血姑けつこ、余計な糸を切りなさい」


 田山の言葉を遮った女学生は、不意に調子を変えて命を下した。

 どこに隠れていたのか、その命令に応じて宙からふわりとお下げ髪をひるがえして狐面の女学生――血姑と呼ばれた少女――が落ちてくる。

 体をくるりと回して、お下げ髪と共に手にした薙刀なぎなたを空中で大きく振ると、田山の背後で小さく弾けるような音が鳴った。

 落ちてきた血姑が着地するのに少し遅れて、細くしなやかな糸が石畳に落ちる。

 束髪の女学生は突然の事に硬直する田山の横を通って、落ちた糸のかたわらにしゃがみ込んだ。


「田山様。つけられましたわね」


 一縷が昼間放った糸は、神田から埼玉にほど近いこの神社まで、田山の足取りを追っていた。

 その道行きが徒歩だろうと路面電車だろうと、十数キロも途切れることなく気づかれることなく、切断されるまで伸び続けていたのだ。


「なっ……どういうことだ!?」

「どこかで、この糸をつけられたのです。心当たりはありますか?」


 興奮から一転してひどく狼狽する田山に、束髪の女学生は責めるでもなく尋ねる。

 だが田山は首を横に振る。一本の蜘蛛の糸をつけられた事も、それがいつ誰につけられたのかも見当が付かなかった。


白姑はくこ。糸が残ってるうちに出所を探りなさい」

「もう向かっているようです。あの子は思い立ったが最後、まるで機関車のように一直線です。やりすぎなければ良いのですが」


 かつり、と薙刀の石突きで石畳を軽く突き、お下げ髪を胸元に回しながら血姑が答える。

 その視線が注がれている事に気づいた田山は、それを振り払うように激しく首を横に振った。


「俺は何もしていないぞっ! 今の今まで、そんな物がついてる事なんて知らなかったんだ!」


 言葉はなくとも面越しの視線は、責めるような調子を含んでいる。

 しかし束髪の女学生は取りなそうとしているのか、それとも別の意図があるのか首を横に振った。


今の・・田山様に、これを感づけという方が酷な話。わたくし達とは違うのですから――ですが血姑。これは昨日、あなたが見た相手の手管と同じと考えて良いですか?」

「切った手応えは同じです。これを偶然と片付けるのは、私には出来かねます」


 もし事実であっても、見下されるのは看過できるものではない。

 先ほどまでの興奮はどこへやら、血の気が引いた田山は半ば混乱した意識の中で、すぅっと何かが潜り込んでくる感覚に囚われた。

 田山の視界が波打つように歪んでいく。

 境内を覆うように茂った榊の枝葉から、かろうじて差し込んでくる月明かりがより鮮明に、より赤く見えてくる。


 歪み、色彩が変じていく中で、狐面の女学生達の姿もおぼろげになっていく。

 そして彼女たちが、今すぐ誅さねばならぬ相手――共産主義者などより余程危険な化け物であると、田山の中での認識も変わっていく。

 それに伴って、うっすらと田山の顔を青白い光が覆っていく。光は大きく目を見開いた老人じみた形を取って、大きく口角を上げて笑う。


 田山は懐の中で回転式拳銃を握り直すと、外套の内側で素早く抜いた。

 二匹の化け物は、どちらも田山を見ていない。血姑と呼ばれたお下げ髪も束髪の化け物もお互いを見つめ合い、まるで田山などいないかのように振る舞っている。

 腹立たしい化け物に天誅を下す――身勝手な思考を大義として、抜き放った回転式拳銃の銃口をお下げ髪の頭へ向ける。

 小さな破裂音と金属音が続けて境内に響いた。


「田山様。おたわむれが過ぎましてよ」


 お下げ髪の頭に食い込むはずだった九ミリの弾頭は、束髪の女学生が横合いから突き出した刀に弾かれていた。

 月明かりに濡れたように輝く刃は、至近距離の弾丸を受けても傷一つ無い。

 田山の中のまだ冷静な部分は、歪んで見える世界を正しく認識し、構えた拳銃を下げようとする。だが身勝手な大義に憑き動かされる体は、躊躇せず銃爪ひきがねを引く。


 放たれた二発の銃弾はどちらも刀に弾かれて火花を散らす。

 しかし田山が出来たのはそこまでだった。

 三発目を放つより早く、血姑は薙刀をぐるりと回して田山の手首を切り飛ばした。そのまま石突きで田山の鳩尾みぞおちを強く突き、前屈みになった体を更に柄で打ち据えた。


 青白い光に憑かれた田山は、それでもまだ左手を伸ばして血姑を捕まえようとする。手首がなくなり、血を流していてもお構いなしだ。

 だが田山の凶行も束髪の少女が喉元に切っ先を突きつけると、ぴたりと止まった。


「通り悪魔。田山様を惑わすのはそこらにしなさい。これで切られては、お前も困るでしょう? それに血姑、あなたも引きなさい。こんなところで田山様を開きにするおつもり?」


 束髪の少女は右手で田山に刀を向けながら、左手で銃身を切り落としたソウドオフ上下二連散弾銃を構えて血姑にその狙いを定めていた。

 血姑は先ほどまでとは薙刀の持ち方を変えて、柄で打つのでは無く刃を用いようとしていた。


青姑せいこ、やはりこれは危険です。私とやりあえる技量を与えられても、ひとたび手綱の取り方を間違えれば、私達への……あの方への害悪となり得ます。何度もこれまでの所業を見てきた私は、そう断言出来ます」

「それを判断するのはわたくし達ではなくてよ。命ぜられた仕事を必ずこなす事があの方のお心にかなうのだと、わたくしもあなたも分かっているでしょう?」


 青姑と呼ばれた束髪の女学生は、散弾銃を袖の中にしまいながら、血姑の抱いた懸念をやんわりといさめた。

 そして切っ先と視線を向けたままの田山と、田山に取り憑いた通り悪魔に向けて提案をする。


「田山様は、お前好みの憂いと怒りを抱えているのは分かっています。わたくし達に従うのであれば、より血を見られる場所と機会を与えられます。今日は元々、その為に田山様をここへお呼びしたのですわ」


 それを聞いた田山、そして田山に取り憑いた通り悪魔は、振り上げていた手を下ろすと切り落とされた腕の傷を押さえた。


「分かった。我等・・の本懐は、お前達を誅する事ではない。だがこの有様では満足に刀を構える事も出来ん」


 田山の顔に張り付いた、青白く光る老人の顔――通り悪魔と呼ばれる、人に憑依する妖怪は血姑をじろりとめつける。

 先に拳銃を抜いておきながら、ふてぶてしい態度だ。

 だが血姑は通り悪魔の視線もどこ吹く風と、何事もなかったかのように袖の中から布包みを取り出した。


「順序が逆になりましたが、どちらにしても田山様の右腕は切り落とさねばならなかったのです。これを繋げるために」


 青姑は刀を袖にしまうと血姑から布包みを受け取った。

 そして田山に見せつけるように包みを解く。そこには昨夜切り落とした鬼の腕があった。

 切り口は包帯で縛られているが、赤銅色の肌はまるで生きているような精気に満ちていて、今にも動き出しそうなほどだ。


「私が殺す気だったら、初手で股から頭まで二つにしているところです。そうすれば良かったと、今は思っていますけれど」


 口を挟んだ血姑は武器こそ構えていないが、納得してないのを隠しもしない。

 それでも口だけで済ませているのは、青姑の言う事に理があるのを分かっているからだ。


「鬼の腕がどれほどの力を持っているかは、相対した田山様にはお分かりかと存じます。それが自分の物になるとすれば、断る手はないと思いますわ」


 二人の女学生を見据えながら、田山と通り悪魔はその思考を混ぜ合って青姑の提案を吟味した。

 今この場で戦って勝てる道理は無い。

 となれば、しばらくは言う通りにしておき、刀を手にした時に隙を突けばよい。失った手の代わりに、鬼の力を与えてくれるのなら、奇怪な力を振るう少女であってもやりあえるだろう。

 短絡的で身勝手な思案の末、田山は一つ頷いた。


「承知した。だが、人前に出られぬ姿になるのは御免だ。仕事が出来ん」

「この腕の主は、初め人の姿を取っていらしたのでしょう? 腕だけ人に化けるなど、田山様なら造作も無き事ですわ」


 見え透いた世辞だが、何故か悪い気はしなかった。


「新しい力を存分に振るえる場所も機会も、わたくし達がご用意致しますわ。さあ、右腕をお出しになってくださいませ」


 青姑の声音は蠱惑的ともいえる響きを持っていた。そして誘われるままに腕を前に出した田山に、血姑は手にした薙刀を振り下ろす。

 物の怪を狩る辻斬りは、外界から隔てられた境内で、更なる異形の力をその身に宿した。

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