第27話 愛すべき

 乾いた血の落ちにくさに苦労したけれど、お風呂を出ると待ち構えていた二人の看護士さんに髪の毛を乾かしてもらって、さっきの言葉を思い出した。


「ん、出てきたか。もう少しで点滴も終わるところだから丁度いいな」


 待合室のソファーで雑誌のクロスワードを解いていた老人はこちらに気が付いて手を止めた。


「あの、先程の話ですが……今のうちの買い出しがお勧め、とは?」


「言葉通りだ。昨夜のことだが、君らがうちを訪れる前後のこと、地鳴りが続いていたことを知っているか?」


「ええ、まぁ……」


 地鳴りというか、ドラゴンというか。


「どうやらニュースなどでは自衛隊の市街地演習ということになっているが、真実は違う。未確認の生物――こちら側ではドラゴンなどと呼んでいるが、その生物と自衛隊及び警察が夜通しやり合っていたらしい。しかし、今は沈黙している。だから、買い出しに行くのなら次のパニックが起こる前だ、と」


「なる……ほど」


 言葉の理由はわかったけれど、私の視線は自然に隣に座っているイリアちゃんへと向かっていった。


「でだ。ここからがワシの疑問であり、確信している部分でもあるのだが、当麻翔を含む君たちはその未確認生物と関係があるね? というか、おそらくは当事者だ」


 鋭い眼光で見詰められると、イリアちゃんの手が私の腕を掴んだ。


「……どうして、そう思うんですか?」


「思っているのではない。こちらにも優秀な職員があるのでな。そうでなければ、こんな都内で闇医者家業など長続きするはずがない。それで――その娘が核ということか。まさかだが、実に興味深い」


 翔の命を繋ぎとめてもらった恩がある。けれど、それはそれ、これはこれだ。


「イリアちゃんに何かしようとしたら、私が相手になります。あなたや、そちらの二人にも感謝はしていますが手加減などしませんよ」


「……ふっ。さすがは当麻翔の姉か。似たような反応をするものだな」


「……?」


「いやなに、こっちの話だ。それに安心していい。手を出すつもりは無いし、むしろその逆だな。ワシだけでなく裏側にいる者の中には少なからず当麻翔に恩義を感じている者がいる。本人は頑としてビジネスの関係を貫きたいようだがな。ともかく、ワシは味方だ。君らがどんな決断をしようとも当麻翔の姉と、当麻翔が守り抜いた少女のためならば一肌でも二肌でも脱ぐ覚悟がある。それだけは知っておいてくれ」


 翔――私の愛すべき弟。あなたはいったいどんな世界を生きてきたの? 知らないことが多過ぎて、わからないことが多過ぎて、お姉ちゃんはパンク寸前ですよ。だけど、一つだけわかるのは、どんな世界にいようとも人助けだけは忘れていなかったということ。その繋がりのおかげで今があるということ。それだけで、お姉ちゃんはすごく誇らしく、嬉しく思うよ。


「とりあえず……翔に、会えますか?」


「ああ、もうそろそろいいだろう。そっちの部屋だ」


 指されたほうに視線をやると、看護士さんの一人が部屋のドアを開けた。一つ深呼吸をして立ち上がると、腕に絡みついたようにイリアちゃんも立ち上がった。


 思った以上に足取りは軽い。決意も何も無いせいかもしれない。


「…………」


 機械に繋がれているわけでもない。あるのは点滴の管が一本通っているだけ。顔色も良いし、衰弱している様子も無い。なのに――それなのに、わかってしまう。闇医者であっても言っていることが事実なのだと確信できてしまう。明確な何かがあるわけではないのに、その顔を見て、手に触れて感じる鼓動から――命の灯火が消えかけているのがわかる。


「……かみ、さま……」


 両親が死んだ時でさえ神に祈ったことはない。願ったこともなければ、懇願したことも無い。だけど――それでも、神の奇跡でもいい、悪魔との契約でもいい――頼れるものなら、縋れるものならなんだっていい。


「お願いします。どうか……どうにか、弟を……翔を。死神だって、構わないから……」


 枯れ果てたと思っていた涙が、もう一度溢れ出てきた。


 ――これ以上は耐えられないかもしれない。


 そんな考えが脳裏に浮かんだ瞬間に、ベッドの脇で崩れ落ちる様に座り込んでしまった。全身に力が入らない。涙を拭うための腕すら上がらない。さっきまでの言葉を振り払って、まだダメだと、私が諦めるわけにはいかないと、そう思って力を込めても、酷い頭痛で起き上がれない。


 気合でも感情でも体が動かないのは初めてだ。


 ……それはそうだ。だって、すでに心が打ちのめされてしまっているんだから。


「一つだけ……方法が、無いことも……ない」


 背後から私の肩に手を置いたイリアちゃんのほうに振り返ると、真っ直ぐにこちらを見詰めてくる瞳の中に、何故だか悲しそうで苦しそうな色が見えた。


「……どういうこと? 何か、翔を救える方法があるの?」


 もう形振り構ってはいられない。可能性があるのなら、私はどんなことでも誰の話でも聞く。


「あると言えば……ある。でもあんまり……どうだろう。わからない、けど……」


「どんなことでもいいよ。翔のためになることがあるのなら、教えて。わからなくても、現実的でなくとも構わないから」


 新たな希望に涙を拭い、その手を取ると、イリアちゃんは同じようにベッドの傍らに座り込んで、小さく息を吐いた。


「パパが……パパなら、どうにか出来るかもしれない。わからないけど、お願いするくらいならできる――かも、しれない」


 尻すぼみになっていく言葉を聞いて、首を傾げた。至極当然で、シンプルな疑問が思い浮かんだからだ。


「パパって、お父さんってことだよね? その、お父さんっていうのは……」


 思い浮かぶ一つの可能性。高卒でお世辞にも勉強ができるとは言えない私だけれど、馬鹿ではない。


「想像通り、だと思う。イリアのパパは……うん。空を飛んでいたドラゴンがパパ、なんだ」


「……そっか」


 それはまさしく小学生や中学生の頃、友達に親を紹介するのが気恥ずかしいときに見せるような可愛らしい仕草だった。そのせいか、何故だかこちらまで気恥ずかしくなってしまって素っ気ない返事しかできなかったけれど、イリアちゃんは途端に目尻に皺ができるくらいに瞼を閉じて、擦り寄るように両手で私の服を握り締めた。


「ホントはね――言ったらダメって、言われていたんだけど……でも、イリアも助けたいから――生きていてほしい、からっ」


 震える声が私の感情と重なった。


「うん。私も、生きていてほしいって思ってる。だから、ね? その救える方法を教えてくれる?」


 自然とあやすような声色になって、気が付いたら二人の腕が絡み合うように握り合っていた。


「パパは、ドラゴンで……一度だけ教えてくれた。パパの血を飲んだ人間は、大きな代償を得て何かを失う代わりに、どんな傷でも……死んでいたとしても生き返らせることができる。但し、体があれば。そして――覚悟があれば」


「覚悟……覚悟、か。それがどんな覚悟なのかは、わからないんだよね?」


 問い掛けると、苦々しくも頷いて見せた。


 その覚悟の代償が、できれば私に向いてくれればいいのだけれど、こればかりは確認のしようが無い。そもそもがドラゴンだ。もはやファンタジーといってもいい状況を信じてしまっている時点で――信じたいと思ってしまっている時点で、私に選択肢などない。


「イリアちゃん。行こう。その、パパに会いに行こう。それで翔を治してもらおう」


「でも……パパは、もうイリアに帰ってくるなって……」


「親子なんでしょ? だったら大丈夫。私の保証なんかじゃ安心できないかもしれないけど、でも、大丈夫。何かあったとしても私が絶対に守るから。もうこれ以上は絶対に――何も、失わせないから」


 ギュッと、その小さな体を抱き締めると、一瞬だけは戸惑ったような間が合ったものの、私の背中側に回った手を感じて、ようやく心が通じ合ったような気がした。しかし、直後に頭に感じたのは別の安心感だった。


「なん、だ……姉貴もイリアも、床に座り込んで……どうした?」


 翔の目が覚めた。喜びで震えそうになる体と、現状を伝えなければならない不安で泣きそうになる涙腺を無理矢理に抑え込んで、頭に乗せられた手を払い退けた。


「あ、姉の頭に手を乗せるとは、随分と不躾な弟だな。両親の顔が見て見たいよ」


「……同じ親だろ? それに俺を育てたって意味では、姉貴が親代わりだ。鏡を見て見ろよ」


「鏡を見たってそこに映る、のは、絶世の美女、で……」


 ダメだ。辛うじて涙は出てこないけれど、代わりに言葉が出てこない。まるで、溺れているような感覚だ。喉が絞まって、自分の呼吸で窒息しそうになる。


「っ……はっ。翔、話がある。大切な話だから、私から聞くか先生から聞くか好きなほうを選んで」


 私は弱いから、自分では決められない。……ここまで来て、ここまで決心しておいて大事な部分を他人に投げる? そんなの、違うだろう。私は、これ以上に後悔の傷口を広げるつまりなのか。


「いや、やっぱり私の口から言わせてもらいたい。翔、あんたは――」


「ああ、大丈夫だ、姉貴。自分のことは自分でよくわかっている。それに、さっきの話も聞こえていた。行くんだろ? そのパパってドラゴンのところに。イリア、どこに居るかはわかるのか?」


「わかる。感覚で、繋がっているから。今は家にいる」


「つまり、富士の樹海ってことか。遠いな……ドクター!」


 ベッドで上半身を起き上がらせたまま、老人を呼んだ翔は今にも死にかけている人間には見えない。


「あいよ。おお、まさかもう起きていたのか。調子はどうだ?」


「すこぶる快調ってわけでも無さそうだが、そのことについて訊きたいんだ。教えてくれ。俺の残り時間はどれくらいで、どれくらいの無茶なら許される?」


「そうさな……残り時間は二日から三日。二回までの無茶なら許すが、一回の度に残り時間が一日分減ると考えておけ」


「充分だ。ここに来て正解だったな。金は生きて帰ってきたら必ず払う」


「……ああ、そうしてくれ。諸々の準備はしてある。行くなら早いほうが良いんだろう?」


「何から何まで、助かる」


「本当にな。報酬は五割増しで頼むよ」


「はっ、そんなセコイ真似はしねぇよ。二倍にして払ってやる」


 勝手に話が進んでいくけれど、そこに私の名前は無い。それもそうか。私がどれだけ強いといっても銃で撃たれれば死ぬし、こういう闇医者や裏の世界とも通じていない。ただの道場の師範というだけだ。ここから先は、間違いなく足手纏いに――


「姉貴? 何してんだ、準備しないのか?」


 床にへたり込んで頭を垂れている間に、いつの間にかベッドを出て軍服に近いようなミリタリーに着替えていた翔が、不思議そうに私の顔を覗き込んできた。


「え……だって、私は……」


「一緒に来てくれると思ったんだけど……そうか。じゃあ、少しプランを変更しないとな。まずイリアをどうするかな……」


「待って! 勝手に話を進めるなっ」


 立ち上がって詰め寄ると、翔は困ったように胸の前に両手を挙げてお手上げポーズをした。


「私は……邪魔じゃないのか? 迷惑になるのなら、行かないという選択肢も無いじゃあないと思っていたんだけれど」


「邪魔? 万全で本気の俺でも勝てない姉貴が? むしろその逆だろ。姉貴がいれば多少の無理が出来る。そうすれば、まだ俺が生きられる可能性もあるんだろ? イリアのためにも、それが最善だと思っているし、最高の結果を得るためにはそれしかないとも思っている。だから――一緒に来てもらいたい。お願いだ」


 この弟はいつの間にか……いや、ずっと前からか。随分と、一丁前にカッコイイ男になりやがって。姉弟じゃなければ惚れているところだ。


「わかった。私も付いていく。でも、これは私の意志だ。あんたからお願いされたからじゃない。私が行きたいから行くんだ。イリアちゃんを守るために行くんだ。わかった?」


「ああ、わかっている。ありがとう」


 お礼を言われた直後、私もまた老人が用意してくれた動き易い服に着替えようとしたときに、翔が一瞬だけ見せた表情を見逃さなかった。


 悲しみと苦しみと安堵と清々しさが混じった顔。


 あれは、全てを知っている顔だ。その全てとは――私が乗り込んだ部屋で起きたことについて。つまりは、私が倒した一人を除いて、翔とイリアちゃん以外に助けられる人がいなかったことを。


 そっちの世界のことは私にはわからない。だから、訊かないなら言わないよ。それが私の立ち位置の役目だと思うから。


「……姉貴、準備できたか?」


「ん。動き易い服には着替えた」


「イリアは?」


「イリアちゃんも、ちゃんと着替えさせたから大丈夫」


「よし。じゃあ、世話になったなドクター。ついでに車も借りていいか?」


「いいや、断る。ワシの愛車を壊されて溜まるものか。その代わりにちゃんと別の車を用意してる。好きに使え」


「……オマケか?」


「オマケだ。くれてやる」


 そのやり取りだけで仲の良さが窺える。私の知らない翔の顔だ。


 横を見れば、イリアちゃんが私の手を握っている。これは多分、信頼などではない別物の感情だ。私が今の翔に触れられないように、イリアちゃんも触れられない。明確に言われているわけではないけれど、まるで壊れやすいガラス細工に触れてしまうようで怖いのだ。そういう感情だけは、同じものを共有していると思うと安心する。


 けれど、私にとってのイリアちゃんはそんなに安っぽい存在じゃない。家族ではないけれど、他人だとは割り切れない。だって、私と翔を繋げてくれた子なんだから。どうしたって特別で、どこまでいっても大切なんだ。

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