第四章 おそらく少女は命の天秤の上にいる

第20話 逃亡

 馬鹿な真似をしたという自覚はある。おそらくすでにコード・グレーが伝えられ行動し始める頃だと思う。


 政府は少女を軍事利用するために人殺しを許可した。それを許されないことだと思う俺は偽善者か? いや、たとえ一人の少女を保護することで日本に住む一億人以上に恩恵があるとしても、そのために一人の罪の無い者が死ぬのはおかしい。その考え自体は変わらない。


「試合中に――何、考え事してんのよっ!」


「うおっ、や――ばっ!」


 一気に距離を詰められて拳と肘の四連撃を受けて後ろへ倒れ込んだ。


「弱い弱い! せめてもうちょっとマシになって戻ってくると思っていたんだけどね。翔……何か迷いがあるのか?」


 無いと言えば嘘になるが、それを差し引いても姉貴に勝てるわけがない。


 生まれたときから両親は近接格闘CQCの師範で道場を経営しており、当然ながら俺たち姉弟も教え込まれながら育った。体格や筋力は俺のほうが上だが、技術や姉という立場、それに躊躇の無さから実力は姉貴のほうがずっと上だった。俺は中学に入学した頃から、この力を使うなら自衛隊か警察だろうと思っていたから、結果的に夢が叶っていることになる。だが姉貴は――。


 姉貴を高校を卒業する少し前のこと、両親が夫婦水入らずで食事をした結婚記念日の帰りに、交通事故に遭って帰らぬ人となった。それが起因となったのか、元から考えていたのかはわからないが、姉貴は高校を卒業と同時に道場を受け継いだ。ちなみに俺が亡霊部隊に配属されたのは、両親がおらず血縁が姉しかいないというのも理由の一つだったりするらしい。しかも、その姉が俺よりも強いとなれば、諸々の心配も必要ないからね。


「迷いがあるのかとは訊いたけれど……まぁ、あるわよね。そりゃあ」


 姉貴には、すでに何が起きたのかを話してある。そうしなければ少女を連れている理由を説明できなかったし、隠してもいずれは知られることになったと思うから。何より、姉貴なら手を貸してくれると思ったから。


 あとは少女の目が覚めたときに、目の前にいるのが男よりも女のほうがいいだろうという打算もあった。その読みが当たったのかどうかはわからないが、うちの道場兼姉の家で目が覚めたとき、驚きこそすれ怯える仕草も無く、当然泣くことも無く、ただ周囲を見回して悟ったように瞳を伏せただけだった。大人びているというよりは達観している、悟っているとでも言えるような表情を見て――何故だか無性に胸が締め付けられた。


 あれから二日が経ち、少女の様子はと言うと……普通に姉が作った料理を食べ、テレビを見て、夜になれば寝る。それは逆に心配になるほど普通で日常で、何かを諦めているようにすら見えるのが、怖いのだ。おそらくこの感情を抱くのは、本当の意味で死と隣り合わせの世界を生きてきた俺だからこそなのだろうが、この理解できぬはずの状況で、勇気を振り絞るでもなく恐怖に震えるでもなく、ただそこにある日常を過ごしていることがどれほどの――いったいどれほどの精神状態なのかがわからない。


 それは多分、永遠に本人以外の誰にだってわかりはしない。……もしかしたら本人にすらわからないのかもしれないが。


 本音を言えば、もう少し時間を掛けて少女と触れ合ってその心を解き明かすことをしたいのだが、すでに二日が経っているのにも拘らず動きのない部隊が気に掛かる。殺気立っていたことを考えれば、その日の内にというのも警戒していたのだが、そんなこともなく。もしも部隊に俺が残っていたのであれば、相手の逃げた先を偵察・監視して、準備を整え万全な状態で動く。要する時間は……およそ七十二時間。三日と考えれば今日か明日だろう。


 だからこそ、まだ猶予のある今日に姉貴が組み手を申し込んできたわけだが――勝てるわけがない。


「あのね、翔。私はあんたの判断が間違っているとは思わない。結果としては女の子を助けているわけだし悪いことでもないんでしょう。でもね、正しいことなのかはわからないの。何が正解で、何が良い事なのか――私にそれを判断する権利はないし、考える立場にもいない。それでも、これだけは言える。あんたは間違っていない。あんたのことを一番に信じている私が言うんだ。だから、あんたも自分自身を信じなさい」


「……無茶苦茶というか、姉貴は常に世界の中心に立っているんだな」


「違うわよ。私がいるのは世界の中心なんてちっぽけなところじゃない。もっと壮大で、もっと大胆な――あんたの心の中心よ。もし迷うことがあるのなら、もう一度、問い掛けなさい。あんたはいったい、何のために強くなったのか。何を目標にして今、そこに立っているのかを」


「…………」


 見透かされているか。さすがは姉弟というべきなのか、それとも傍若無人で適当なことを言っているだけなのか……どちらでも構わない。少なくともこれで俺の心は決まった。


 俺は、俺のやりたいようにやる。但し、極力誰も傷付けない。誰も殺さない。力を使わなければ解決できないこともあるだろうが、絶対に殺すことだけはしない。そうしなければ、ぶれてしまうから。だから――。


「ありがとうな、姉貴。今日中にはここを出るから。感謝しているよ」


「感謝はいらないからさ、今度、男紹介して。私、そろそろ結婚したいんだよね」


「ん、ん~……別に結婚は構わないけど、できれば俺の知らない人で頼むよ」


「……ああ、そりゃあそうか」


 これ以上、複雑な人間関係はやめてほしい。


 上座に座る姉貴に頭を下げてから道場を出た。汗を拭きつつ廊下を進めば、リビングで流れるテレビの音が聞こえ、そちらに足を向けた。


 俗に言う女の子座りをして一メートル先のテレビ画面を見つめる少女――イリア=フィニクスは謎が多い。問い掛ければ基本的な質問には答えるし、わかりにくいながらも意思表示もする。しかし、生い立ちや洞窟のことを訊けば口を閉ざすし視線を逸らす。そういう年頃と言ってしまえばそれまでだが、やはり元来の性格だろう。そこを打ち崩すのは、俺には無理だ。


 だからこそ、どうするのかを悩んだこの二日間……最終的に解決策は見つからなかった。剣呑とした焦燥の中、今のところ唯一の安全圏であるこの場所から去るのは少女にとってもあまり良い事とは言えないが、ここを戦場にすることのほうがもっと厄介なことになる。単純な話だが、厄介事に厄介な人間が加われば、もはやそれは厄介とかいう次元の話ではなくなってしまうわけで。


 詰まる所は姉貴を巻き込まないため、ひいては姉貴に掻き回されないために家を出ていくんだが、一先ずは国内にいる協力者と情報屋に安全な隠れ家を提供させ、その中から精査して次の行動が決まるまでの待機場所にする。


「……イリア」


 名を呼ぶと、視線を送っていたテレビ画面のアニメが切りの良いところまで進んでから、ゆっくりとこちらに振り向いた。


「イリアって呼ぶんでいいか?」


 問い掛けると不思議そうに眼を見開いて頷いて見せた。


「そうか。じゃあ、イリア。今の状況はわかっているな? 実はこれからまた移動しなきゃならない。忙しなくて申し訳ないが、そうしなければ危険なんだ。わかってくれるか?」


「……んっ」


「よし。とりあえずはここから一番近い隠れ家に行くから準備をしてくれ。それから、いくつかのルールを言っておく。まず、俺から離れて勝手な行動はするな。守れなくなるからな。次に、お前のことは可能な限り俺が守るつもりだが、もしも俺のことが信用できなくなったり、他に正しいと思う者が現れたら言ってくれ。その時点で、俺は手を退く」


 少女を救い出したのは、あくまでも少女の意志がわからなかったからだ。部隊に保護されれば、どうなるのかは目に見えている。だが、その先からは俺のエゴだ。俺が、俺自身を証明するための戦いに――仮にこの少女が発端だとしても――本人の意思を無視するわけにはいかない。


 少女はテレビを消すとバックパックの中身の確認を始めた。その中には着てきたワンピースも入っているのだろうが、今は姉貴に買って来てもらったパンツを履いてもらっている。スカートよりかはマシだろう。それに、俺もいつまでも軍服というわけにもいかず、着慣れたミリタリーのジャケットではあるが街中を歩いても違和感の無い服に着替えた。


 目下の問題は装備だな。持っている武器でも相手を殺さないように加減することはできるが、気遣いながらでは少女を守りながら誰も殺さないことは難しい。……調達しなければ。


「……んっ」


 引っ張られたほうに視線を下ろすと、バックパックを背負った少女が準備万端といった格好で待っていた。覚悟はできている、って顔だな。


「じゃあ――行くか」


 イリアに子供用のヘルメットを被せて、俺はフルフェイスのヘルメットを装着した。荷物の量から考えても車移動のほうがいいかとも思ったのだが、もしも移動中に襲撃されたとして、小回りが利き、常に密着状態で居られるバイクのほうが安全だと思い、昔使っていた中型バイクを倉庫から掘り出してきた。


 さすがに防弾ではないが整備はしたしガソリンも満タンに入れてきたから、次の家までは持つはずだ。


「バイクは初めてか? まぁ、とりあえずはしっかりと掴まっていれば大丈夫だから」


 微かに震えていた少女にそう告げると、腹部に回された腕に苦しいくらいに力が入れられた。


「お~、翔。もう行くのか。気を付けろよ。何か困ったことがあれば、連絡くれればすぐに駆けつけるから」


「ああ。よろしく頼むよ、姉貴」


 まるで、一度倒した敵が次の瞬間には仲間になっているような心強さだ。姉貴に勝ったことなど一度も無いのだが。


「あと、あれだ。男の紹介も――」


 言い終わる前にバイクのエンジンを蒸かして軽く敬礼をしてから走り出した。


 俺と意見を違えている奴らを姉貴に紹介するはずは無い。軍の身内関係以外での知り合いといえば裏社会のちょっと普通じゃない奴らばかりだからな……誰も釣り合いそうにないし、尻に敷かれるのが目に見えている。


「……なぁ、イリア。誰か大人の男の知り合いいねぇか?」


 軽く振り返ってみると、少女はこちらを見上げながら小首を傾げて疑問符を浮かべていた。


「ま、そりゃあいないよな」


 俺も人のことは言えないが、まずは姉貴に身を固めてもらわないとね。もしも俺のほうが先に結婚しようものなら何を言われるかわかったものではない。


「あ~……どっかに落ちていないもんかね。良い男は」


 そんなものが落ちているはずもなく、先に続くのは不穏な道のみ。それなのに、何故だか俺の心は充実していた。俺は――俺にしか出来ないことやる。


 その決意だけが、今の俺を決定付ける全てであった。

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