第1話 しょうゆアブセント

 ――そして、クラスの男子に泣き顔を見られた日の翌朝、私は、心ひとつ分の後悔の念に、涙を浮かべていました。


 それは昨晩のこと、私は某検索サイトにて「熱を出す 方法」で調べていました。そこで私は、危険だけれど確実な熱の出し方を見つけたのです。


 それは、「コップ一杯のしょうゆを一気に飲む」という方法。


 ちなみに、分量しだいでは最悪の場合死んでしまいます。考えればわかりますね。身体が急激なナトリウム濃度の上昇に耐えられないのです。

 そのとき、こうなったら死んでもいいや! と、やけになっていた私は、その方法を実践したのでした。


 すると、どうなったことか。


 確かに熱は出ました。熱は出ましたが、それよりもとにかく吐き気が止まらないのです。朝方にもなろうとする夜中、私は、ずっとトイレにこもっては、吐いて、吐いて、吐いて……を繰り返すだけの生き恥になりました。

 我が身に起こった異変に、いくら泣きたくなかろうとも泣いてしまいます。いや、今は別に泣いてもいいタイミングなんだけど。

 さっきから心臓がバクバクするし、胃は痛いし、苦しいし、やらなきゃよかったと悔やんでもどうしようもありません。

 ある程度落ち着くまで吐き終えた私は、洗面所でうがいをして、よろよろと台所へ向かいました。

 そこでコップに水を汲み、ちびちび飲んでいるところ、朝になってしまったのでしょう、起き出したお母さんが怪訝そうな顔つきで現れ、言いました。


「一体こんな時間にどうしたの? ……吐いた? 何か変なものでも食べた?」

「しょうゆ……」


 図星を突くその質問に、私は弱々しい声を上げることしかできません。弱りきった私には嘘をつく余裕なんて小指の先ほどもないのです。


「はぁ、しょうゆ……?」


 お母さんはあきれ返った様子で、倒れ込むように椅子に腰掛けた私を、しばらく眺めていました。


「……ええと、何があったのかはわからないけど、とにかく学校には休むって連絡するからね? 今日は休んでなるべく早く行けるようにしなさい。あと部屋に洗面器を……」

「は……、はぁい」


 そしてお母さんはぶつぶつ言いながら新聞紙を被せた洗面器を用意し、私はそれを持ってよろよろと自室に戻ります。

 自室のベッドの枕元に洗面器を置き、ベッドに仰向けに寝転がれば、先刻のアレで体力も擦り切れて、すこーんと真っ逆さまに眠りに落ちました。


 次に気が付いたときには、すでに夕方、いいえ、あるいは、それも通り越して夜とも言える時間帯でしょうか。気分も少しはマシになったかなと身体を起こすと、部屋の外からお母さんの声が飛んできました。


「お友達が来てるわよ」

「ひぇ、友達……?」


 頭がぼんやりしている私は、何も考えずにふらふらと立ち上がり部屋のドアを開けました。ドアを開けると心配そうな顔つきでお母さんが立っていました。


「出てこれそう?」

「……うん」


 寝起きの頭で玄関へ出ることを承諾した私は、玄関へ寝間着のまま向かい、ドアをゆっくり開いて外を覗きました。


「あ、神崎さん。学校で配られたプリントとか、宿題とか持ってきたんだけど……その、調子はどう?」


 ――何であんたが来たの!? 空っぽだった頭の中が、一瞬のうちに疑問符で埋め尽くされて口の端が固くなるのを、どうにか動かして私は答えました。


「そ、それはどうも……。ええと、気分は朝よりはマシになったと思う……よ?」


 まさか、自分が私を休ませるにいたった原因だとは毛の先ほども思わないのでしょう。それを聞いた彼はのんきそうに「それは良かった」と胸を撫で下ろすのです。


「それじゃあお休みなさい――!」


 私はそう言って半ば無理やりドアを内側に引っ張りました。いつまでも顔を合わせてられなくて、さっさとお帰り願いたかったのです。


「――え!? 待って待って」


 止められました。


「神崎さん、プリント!」


 あー、受け取るのをすっかり忘れていました。


「ごめんなさい、ぼんやりしてた。わざわざ持ってきてくれたのに……」

「いやいや! 大丈夫。疲れてるとそういうときもあるから」


 彼はそう言って、私にクリアファイルに入ったプリントを差し出しました。


「あの、神崎さん」


 そのとき、彼はまたこう言います。


「何かあったら、俺でよかったら相談乗るから……その、一人で抱え込まなくても……」


 彼が言い終わらないうちに私の手は動きました。


「――それじゃあお休みなさい!」


 今度こそドアを閉めて、滑るような動きで鍵まで掛けました。ドアの前の気配が立ち去ったのを確認すると、私は安堵の息をつくのです。


 そしてやっと、停滞していた思考がやっとまともに回り始めました。まず考えたことは、なぜ彼はプリントを届ける役を請け負ったのか。これについてはひとつ、確信的なものがあります。


 ――最後の一言を、言うため。


 昨日の帰りに泣いている私を見かけて、何かあったんだと思ったのでしょう。それは極めて自然なことです。なんだったら美徳ですらありますね。


 でも、泣いているからと、わざわざ優しくされるのは気持ち悪くて、あまりいい気がしないのです。人々は義務感から泣いている私を落ち着けようとしている? 泣くことに対する悪印象が肥大した私にはそんなふうにしか考えられなくなって、素直にその優しさに甘えることができないだけなのかもしれません。


「友達はもう帰った? どうしたって?」


 お母さんが玄関へやって来て、まだ玄関のドアの方を向いたままの私の背中に、声を掛けました。


「届けに来たって」


 私は受け取ったクリアファイルを、胸元でひらひらと揺らして示します。


「そう。明日は学校、行けそう?」

「わからない」

「晩御飯、食べれそう?」

「今日はちょっと……いいや」

「それじゃあゆっくり休みなさいね。お腹空いたら、置いてあるのを勝手に食べていいから」

「はぁい」


 病気になった時、いつも以上にお母さんは優しくなります。それは、色々な方面で弱った私にはとても暖かく、ありがたい。ほんの少しだけ癒された私は、また自室に戻ると、ベッドにうつ伏せに倒れました。

 全身の力が抜けて、もう立ち上がる気力もありません。動かない身体に対して、頭の方はぐるぐると動き始め、でも、やっぱり、ひとりきりですから、目の奥がじわじわと熱くなってきました。


 ――いっそのこと、この体質のこと、言ってしまった方が、楽なのかな。


 半分、諦めたような言葉が浮かびました。でも、それでも、それを言ったところで何になるのでしょうか。大して親しくもないのに……ああ、でも、親しいって、どこから親しいって言えるんだろう。


 気が付けば、さっき家に来た男子の顔を思い浮かべていました。


「ああ、明日学校、どうしようかな……」


 塞ぎ込んだ気分のまま、意識は沈んでいきました。

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