現場検証

「では行きましょう!」


 玲奈はやる気に満ちた顔で殺人現場の部屋に入り、俺もその後に続いた。死体があるというのに不思議と足は前に進んだ。不謹慎かもしれないが見たことないものを目にするときのような好奇心が胸の中にあった。

 しかし、そんな考えは一瞬にして消え去った。部屋に入った瞬間に、俺の視線は女子生徒の死体に引きつけられ、そのまま釘付けになっていた。入り口から一番遠い角際の椅子にぐったりと、寄りかかるように座っている死体は、首をまっすぐに伸ばし天井を見つめていた。これがもし目を閉じて鼻提灯なんかを作っているなら、だらしなく寝ている女子生徒だろうと誰もがそう思うはずだ。しかし彼女の両目は眼球が飛び出してきそうなほど大きく見開き、あざのような青い斑点や、口元から垂れている唾液が、この人の整っていたであろう顔を歪めている。なによりも、栄養が足りていないんじゃないかと思えるくらい白い肌の上には、赤黒い一本の線が痛々しく残っていて不気味であった。変色した唇の隙間からは耳を澄ましても呼吸する音は聞こえてこなかった。

 オンボロアパートに住んでいると、勝手に住み着いていたネズミの死骸が駐車場に転がっていることがある。他にも窓ガラスにぶつかって絶命した鳥の死骸や、カラスに突かれて悲惨な姿になった猫の亡骸など目にしてきたが、目の前にある動かなくなった人間の遺体はそのどれよりも恐ろしかった。俺を動かしていた動力源が全て恐怖心へと変わり、その反動で思考能力は失われていた。


「…………」

「兄さん、大丈夫?」


 夢から覚めたようにはっと気がつくと、隣りにいた玲奈が服の裾を引っ張りながら上目で聞いてきた。どうやら俺は部室の真ん中に突っ立ったまま捜査の邪魔をしていたらしい。大人たちから向けられる鋭い視線が余計に俺の無力さを膨らませ、殺人現場にいることにどうしようもないほどの気まずさを感じた。


「顔が青くなってる。汗もすごいし、気分が悪くなったのならここから出たほうがいいよ。ハンカチ貸そうか?」


 玲奈はスクールバックから赤いハンカチを取り出す。今はどちらが面倒を見る役割なのか分からない。

 だからこそ、俺はそれを受け取らなかった。


「いや大丈夫だ。お前が危険なことをしないかちゃんと見てないといけないから俺は入り口の方にいるよ。邪魔して悪かった」


 平然を装いながら部室の入り口まで後退した。兄として、気を遣われた妹の提案に乗りたくなかった。見栄を張っていると言われてもいい。威勢だけ張ってこんなみっともないところを見せたからには、これ以上玲奈に弱い兄だと思われてほしくなかった。

 廊下に出るギリギリまで後ろに下がり、俺は死体をなるべく見ないようにして部屋の中を見渡した。バスケットボール部の部室はとても広かった。左右に学生たちが私物を置くのに使う棚が並べてあるにもかかわらず、俺が通う高校の部室よりも人間を収容できるスペースがある。壁にはよくわからない男性アイドルのポスターが張ってあり、奥の方の棚には漫画本やら化粧道具のようなものが並んであった。片付けもある程度はされて綺麗さは保たれている。目隠しされてこの場所に連れて来られたなら、まさかここが運動部の部室だなんて思わないだろう。


「詳しいことを聞かせてもらおうか志村巡査部長。ひと通り捜査は進んでいるんだろう」


 晋三さんは手帳を取り出して巡査部長を見た。


「わかりました」彼も真剣な目になって手帳を開く。「被害者の名前は、佐々木明菜。十八歳、ここの学校の三年生です。女子バスケットボール部所属。先ほども申した通り死因は絞殺で間違いないでしょう。凶器だと思われる縄跳び縄が死体の直ぐ側に落ちていました。その他に外傷は見当たりません」


 巡査部長は天井から垂れるフックに支えられた部屋干し用竿を指さした。


「縄跳び縄はあそこにあったものです。練習で使っていたのでしょうな」

「なるほど。それにしてもひどい有様だ。首の前側だけ締め痕があるということはきっと犯人はこうやって背負いながら首を締めたんだろう」と晋三さんは小さくジェスチャーしてみせた。


「そのようです。しかも息の根を止めた後も念入りに縄を握っていたようだ。そうでもしなきゃこんなにくっきりと後は残らない」


 志村巡査部長は賛同しながら補足した。


「犯人は被害者に対してただならぬ憎悪があった人物と見るのが妥当だろう。それで、他に見つけたものはあるか?」

「まだまだありますとも。なんと犯人のやつ、被害者が着ていた制服に使い捨てカイロを詰め込んでいたんですわ」

「カイロ!?」

「ええ。しかも大量に。司法解剖さえ済ませばある程度正確な時間を割り出せますが、死亡推定時刻は現時点では分かりません。十八時二十五分ころまでは確実に生きていたと奥の部屋に残らせている教師は言っていましたが……」

「なるほど……。死体を温めて腐敗を進めるということは、犯人は死亡推定時刻を実際の時刻より早まらせたい理由があったというわけか……」


 晋三さんは顎に手を当てて考え込んだ。


「遅い時間に殺害したんでしょうよ。小賢しいですがアリバイ工作のために。それより平岡警部が到着なさる前にこんなものを見つけましてね。おい!」


 若い警官を呼び出すと、彼はなにか入っている袋を前に出した。晋三さんはそれをじっと見つめる。ここからではよく見えなかったが、黒い入れ物のようだった。


「これは、メガネケースか?」

「その通りです。そしてこのメガネケースを使っている学生はバスケットボール部内に存在しないと三人から確認は取れています」

「よし。ではそれの持ち主を調べるんだ。きっと重要人物の私物だろう」


 若い警官に指示を出し、仕事を与えられた彼は勢いよく部屋を飛び出していった。

 その間、玲奈は警察官たちの話に全く反応を見せないまま死体のそばにで膝を付き、その後頭部をじっと見つめていた。時々女子生徒の長い髪を触ったり、鼻がつきそうなギリギリの距離まで顔を近づけている。彼女の後頭部になにかあるのだろうか。


「あの、この遺体を直接触った人はいますか? 発見者の方とかで」


 玲奈が立ち上がり尋ねる。


「いや、発見者の二人は死体に触れることなく部室の外で我々を待っていたと言っている」と巡査部長。

「鑑識員に女性っていましたっけ?」

「いないが、いったいそれがなんだと言うのだ?」


 意味のわからない質問に、巡査部長はあきれたといった表情で聞き返した。


「なんでもありません。もう大丈夫です。ありがとうございました」


 しかし玲奈は問いに答えず、満足したように死体から離れ、今度は化粧道具やらが並ぶ棚をじっと見つめていた。名称も知らない道具の数々は乱雑に置かれ、そこはもはや使わなくなった化粧道具を放置しておくゴミ置き場となっているように感じた。

「ここは違うな……」と小さくつぶやいた妹は、床を這って証拠を探している鑑識員の男性に近づいていった。


「被害者の持ち物はどこにまとめられていますか?」

「あっちにまとめられてあるよ」


 青い服を着た大人が、床に並べられた物品を耳かきのような先端に綿がついた棒で指した。


「あれが被害者の持ち物だよ。財布の中身とか確認したんだけどね、なにも取られている様子はなかったよ」


 鑑識員はまるで、遊びに来た娘の友達と話しているような優しさ溢れる態度で玲奈に言った。


「化粧ポーチに汗ふきシート、お弁当箱に筆箱に財布にスマートフォン。亡くなった方にこんな事は言いたくないが、被害者は何のために学校へ通っていたんだろうな。教科書が一冊も入っていないじゃないか」


 志村巡査部長は女子生徒の所持品を一つずつ手に取りながらうんざりした表情で言った。すると妹は彼の持っているものを覗き込むようにして見た。


「このスマートフォンって新型のやつですよね。iPhoneⅩでしたっけ。数字の10じゃなくてローマ数字の」

「ああ、この前娘に買ってあげたのと同じやつだよ。機能が多すぎて年寄りの私にはいまいち使い方がわからなかったけどね」晋三さんが苦笑い。

「私は全くスマートフォンのよさがわかりませんな。無駄に月額料金が高いし通話するだけでしたら普通の携帯電話でよかろうに」


 志村巡査部長は慣れない手付きでスマートフォンの電源を入れていた。しかしパスワードが掛かっていたらしくなにもできないまま元の場所に戻した。


「このスマートフォンはカバンの中に入っていたんですか?」


 それを拾った玲奈が鑑識員に質問する。


「いや、ポケットの中に入っていたよ」

「指紋は調べました?」


 玲奈は手に持ったものをじっくり見ながら聞いた。


「調べてみたけどどこにも指紋はついてなかったね。おそらく彼女は綺麗好きだったに違いない。久しぶりに見たよ、こんなに綺麗に拭かれた画面は」


 彼は殺人現場に似合わないほどニコニコと笑った。その後に「これまでたくさんの被害者の持っている電子機器の画面を見てきたが、これは一番綺麗だ」と称賛の言葉を付け足した。

 すると玲奈はとても驚いたように声を張って晋三さんを見た。


「ならば平岡警部、これの中をきちんと調べたほうがいいと思いますよ」と言って持っているものを渡す。

「指紋がついていないことがそんなに不思議なのかい? 我々としたらそのスマートフォンは重要な証拠でないとしか思えないんだけど」


 受け取った彼は少し困惑したような顔だ。


「だとしてもスマートフォンの中身だけでも調べたほうがいいでしょう。ラインとかツイッターとか。もしかしたら殺される前に誰かと重要なメッセージのやり取りがあったかもしれませんし」

「ご丁寧に犯人の名前を誰かにメールで送ったというのかね。ふん! それならすぐに事件は解決できそうだ」


 志村巡査部長はわざと玲奈に聞こえるように鼻で笑っていた。一度自分が手放した物品をもう一度話題に出されたことに苛立ちを感じているようだ。

 その後も現場検証は続いたが、全員が集まるほどの重要な手掛かりになりそうなものは発見できなかった。

 床を這っていた鑑識員の大人たちもちらほら立ち上がり、撤退の雰囲気を醸し出していたときだった。


「壊れてる」と妹はつぶやきながら、壁に取り付けてある照明用スイッチを指さす。

「平岡警部、ここのスイッチが使えないようなんですけど、これは事件と関係があるのでしょうか?」


 晋三さんはスイッチをカチカチいじくる玲奈を見た。


「それはどうだろうね……。小島くん、このことについて聞いたか?」

「はい。しかしそのスイッチは三日前に壊れたということで事件とは無関係だと思いますよ。原因は、そこに置かれているスコアボードを片付ける際にぶつかった衝撃で壊れたと」と若い警官は玲奈に対し攻撃的でない口調で報告した。 

「じゃあどうやって照明を切り替えているんです?」


 玲奈が目を細くして首をひねろうとした時、死体のそばでずっとなにかを探していた志村巡査部長が勢いよく立ち上がって全員からの注目をあびた。


「そろそろ事件と関係のないお話はおやめにして、これを見てください!」


 彼は勝ち誇ったように目を輝かせて、捜査のスペシャリストたち全員を女子生徒の指に注目させようと指差した。


「あ、指輪の痕がある」


 いち早く死体の傍に行った玲奈が気づく。


「そのとおり! はっはっは。この痕はとても薄いものなので鑑識も見落としていたのでしょうな。だけどこれは間違いなく指輪の痕です。私にはすぐに分かった。最近の学生は指輪やらネックレスやらをじゃらじゃら身につける輩が多いので、彼女もそうじゃないかと徹底的に調べてみたんですよ。そして、指輪を付けていたに違いない日焼けの痕を見つけました。だけども被害者の持ち物には肝心の指輪がない。それはつまり、犯人は殺害後に指輪を盗んだに違いないということだ」

「だがケースがないじゃないか。指輪自体を家に忘れたというのもありえるだろ?」


 晋三さんが意見すると、志村巡査部長はとても上機嫌で人差し指をちっちっと左右に振った。


「いえいえ、子供の買うアクセサリーにケースなんてありませんよ平岡警部。これは絶対に盗まれたと言っていいでしょう!」彼の言葉には自信に満ち溢れている。

「では犯人はなぜ指輪を盗んだんだ?」

「指輪に重要なメッセージが残されていたんですよ。左の薬指だから男の名前でも刻まれていたんでしょう。男か女かはまだ定かではないが、被害者と犯人の間には恋愛絡みの揉め事があったと見ていい。私の推測では男ですな。縄跳び縄で絞め殺そうなんて野蛮なことを女ができるはずない。はっはっは。これで事件は簡単になったようだ。証拠は充分に見つかった。死体の近くに落ちていたメガネケースの持ち主こそ、我々が探し出す犯人ということです。しかもその犯人は被害者と非常に深い関わりのある人物だ」


 演説のように腕を動かして話す巡査部長を、その場にいた若い警官たちは視線を合わせ聞き入っていた。


「まったくもって普通の事件だ。殺害方法にも奇妙なことが一切ない。これから徹底的に尋問して被害者周りの関係を調べていけばすぐに犯人は捕まることでしょう」


 達成感あふれる顔で言い切る彼の隣では、興味なさそうな表情で手袋を外しスクールバックの中にしまいこむ玲奈の姿があった。

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