アイシティ高特ボリビア編

したとせみ

第1話プロローグ(家族会議)

 2021年10月25日月曜日22時、僕、稲田広志いなだひろしは24階建の高層ビル一階にあるコンビニ24でのバイトを早退し、そのビルの最上階、つまり24階にある自宅へと専用エレベーターで帰って行った。


 玄関を開けると虹色に光るストリングカーテンの向こうのダイニングキッチンに母と祖母の姿が見えた。


 「ただいま母さん。あやバァちゃん。 親父はもう帰ってきてるの? 緊急の用事って何? 0時15分には寮監りょうかんさんがコンビニ前に迎えに来るから、それまでには戻らないと。」


 「広志、食事は終わったの?」


 母、姫子ひめこが、台所で食器乾燥機から食器を取り出しながら聞いてきた。栗色に染め上げたボブカットヘアで自宅にいるときは化粧していない母だが、息子の僕からみても美人だ。


 形は整えているがっていない眉毛まゆげは力強さを感じさせる。

 時々遊びに来る母さんの同級生は体型が高校時代と変わっていないと口々にめているが、僕には働き過ぎで太れないだけのような気がして心配だ。


 「ああ、廃棄はいき用のコロッケがいっぱい出たからそれ食べた。おなか減ってないよ」


 母さんは、ここに引っ越してきてから、天神のアパレルショップで働くようになったが、服のデザインや縫製ほうせいのほか、い草を使ったお財布やハンドバックなどのアクセサリーを作っている。


 母の作るい草のアクセサリーは畳の表裏のようにリバースして使用可能だ。なんでも台湾のテレビ局が取材にきてから台湾人を中心に外国人観光客が購入していくらしい。


 なかなかの評判で、場所が手狭てぜまになってきていることから、もうすぐ専用の店舗を持つことになっている。

 アパレルのオーナーさんが所有者とはいえ、天神は福岡の一等地だから個人で店舗を持たされるというのはすごいことだと思う。


 母さんが乾燥機から取り出した食器を食器棚に並べているあやバァちゃんは、家事が出来なくなった母さんのために、熊本にある母さんの実家からひとりで福岡に来ており、もう8年も我が家の手伝いだ。


 元看護婦だった綾バァちゃんは、一億総活躍社会実現のための一環として作られた予備役災害救助員よびえきさいがいきゅうじょいんに応募し、40倍近い競争率を見事勝ち抜いてその資格を持っている。


◇ ◇ ◇


予備役災害救助員

 近年、増加する一方の台風や地震による大型災害時に、地域の中心人物として避難誘導、救護指示、自衛隊誘導を担うことを目的として作られ自衛隊に所属する民間人。一億総活躍社会実現法で、60歳以上で定期的に自衛隊が実施する訓練に合格することが義務づけられており、現在は全国に約3千人の救助員が存在する。

 医師、看護師そして災害危険区域に住む人には特別手当が支給されており、自衛隊の緊急派遣部隊が到着するまでのつなぎとして役割を期待されている。

 なお、政府はこの制度を発表すると同時に年金支給開始年齢を70歳に引き上げており、野党からは現実から目を逸らすための措置という批判を受けている。


◇ ◇ ◇


 母さんの実家は歴史ある「い草農家」の武田家で、現役で働いている78歳のごんジィちゃんがいる。そして、孫の僕から見ても相当に重労働であるこの「い草農家」の仕事は、母さんの実兄である信士しんじ叔父さん一家が継いでいて、次兄の平次へいじ叔父さん一家も手伝っている。

 母さんは兄3人を持つ4人兄妹の末っ子だ。


「お父さんは居間にいるから、そこで話を聞いてなさい。私もすぐに行くから」

 綾バァちゃんも同意するように頷いている。

 どうやら綾バァちゃんも参加する家族会議のようだ。


 親父、稲田元春いなだもとはるは陸上自衛隊第四師団に勤務している。らしいというのは、家族にも具体的な所属を明らかにしてはいけない立場にあるからだ。


 ただ、もともとは農水省に勤めていて、8年前に省庁間配置転換の募集に応募して自衛官になった。

 農水省では宝の持ち腐れだった英語とスペイン語の語学力が自衛隊では高く評価されて、海外出張を含む長期出張が多い。

 良く言えば、誰にでも優しく温和しい、悪く言えば昼行灯ひるあんどんというイメージしかない親父が自衛官というのはちょっと違和感がある。


 違和感と言えば、親父はそこそこの高給取りのはずなのだが、家計は火の車だったらしく、母さんが、僕が生まれてからは針子の内職をして、なんとか家計を支えていたというのを綾バァちゃんに聞いた。そして、それを知っていたから、僕も普通高校じゃなくて、バイトしながら学べる特殊とくしゅ高校へ進学した。


 特殊高等学校。それは、160万世帯、200万人を超える生活保護者を生み、無理心中のニュースが流れない日がないくらいの格差社会を造り上げた政府が、一億総活躍社会の実現という目標を掲げ成立させた一億総活躍社会実現法に基づいて、夏休みも無くして子供達を無理矢理働かせるために作られた学校………


 まぁ、それは野党や左派系新聞社が勝手に言っていることで、教室は全て冷暖房完備、VRを応用した最新学習システムの導入、夕食は選択制だけど三食付きの全寮制、そして何よりも働く高校生を支援するシステムがいい。


 例えば、設置されている政令指定都市は教育特区に指定されていて、資格が取りやすいということ。ちょっと条件はあるけど、普通自動車の免許は入学してすぐに取ることが可能だ。クレジットカードも作れる。

 普通は18歳からしかとれない資格や権利が15歳でとれるって凄いよね?

 そのうえ、学生証に組み込まれている電子マネーを使えば、1ヶ月間の使用上限金額はあるものの、いろいろな提携企業の割引サービスが受けられる。


 そして、「バイト部」。正確には「On the Job Training Circle、OJT部」というらしいけど、便宜上「バイト部」って呼ばれている。

 部活みたいな名前だけど、雇用こよう条件を監視していて、高校生に不利な条件で働かせようとする雇用主から守るとか、雇用主と派遣契約を結んで、バイト料の約1パーセントを学生会に還元するとか、学生の権利を守る一種の労働組合みたいな活動をしている。


 ちなみに僕は、アイシティ高校の初代バイト部長。

 なんかカッコ良さげだけど、入学前に盛夫もりお叔父さんに頼まれて決まっていたし、今のところ、バイトしている学生に具体的な問題点は生じていないから、活動らしい活動といえば契約書の写しと定期的に上がってくるバイトの業務日誌を確認して本部へ送付することくらいだ。


 働き口が多いと考えられる政令指定都市だけに、特殊高校の設置を許されているけど、民間活力の利用とかうたって政府が補助金をケチったので、地方自治体で応募したのは5都市だけだった。

 東京都や大阪府知事は、「学生は勉強が本分だ」といって政府の要請をったらしいけど、僕は入学出来て良かったと心から思う。少なくとも僕は親が苦労しているのに何もせずにいる方がおかしいと思う。


 ビクトリアは画期的エネルギーを発見したアメリカ合衆国のベンチャーで、この数年で急成長している企業だ。盛夫叔父さんは、親父の実弟で、このビクトリアのシアトル研究所に勤めている。


 昨年、ビクトリアの日本法人が、この福岡市東区の人工島アイランドシティーに24階建てビルを建設し、4階から11階までをオフィスビル、12階から24階までをマンションとした際、24階のワンフロアを盛夫叔父さんひとりに割当てて日本での住まいと研究室として確保している。


 盛夫叔父さんはビクトリアでもそうとうにエラい人らしい。

 ちなみに20階から24階までは、ビクトリアの社員のための居住区で、そこには専用エレベーターでしか行くことはできない。


 僕の自宅は、居住部分の玄関を入ると左側の壁が靴や傘の収納スペース、5人までコートと帽子を掛けるノッチが付いている。右側に3人までが同時に使えるシャワールーム、6人は余裕で入れるバスルーム、男子専用と女子専用トイレが別々にあり、そこを過ぎると奥には約8畳のキッチンが見え、キッチンの右側に約20畳のダイニングルームがある。絶対、ひとり用の家じゃ無いよね。


 ダイニングから、はめ殺しの窓がある約10畳の僕の部屋と暖炉のある約20畳の居間そして、ベランダがある客室に行くことができる。ベランダからは海を挟んで反対側に福岡市の素晴らしい夜景が見える。


◇ ◇ ◇


 引っ越して最初の夜、その夜景を眺めながら家族全員でベランダに出て乾杯した。

 それからは、いつもぎこちなく感じていた親父と母さんの関係が少しずつ改善されているように感じるのは気のせいではないと思う。

 しかし、この家に住めるようになったのは、親父が盛夫叔父さんと単に兄弟だったおかげで、決して親父の努力の成果ではない。


 僕が母を「カアサン」祖母を「アヤバァチャン」と愛情込めて呼ぶのに対し、父を「オヤジ」と呼び捨てにするのは、親父が情けないために母さんと綾バァちゃんがいつも無理しているのがヒシヒシと伝わってくるからだ。


 そして、なにより腹がたつのは母さんも綾バァちゃんも親父の悪口は絶対に言わないのだ。僕が親父の悪口を言うと必ずいさめられる。きっと熊本の男尊女卑だんそんじょひの家庭で育ったからに違いない。

 そう僕は親父のことを普段から快く思っていない。


 ◇ ◇ ◇


 客室にはひとり用だがバスタブ付きのシャワールームとトイレ、それにウォークインクローゼットが付いている。

 居間からは綾バァちゃんが寝室として使用している書斎と夫婦用寝室があり、両方とも独立したベランダが付いている。どちらからも福岡市の夜景が楽しめるが、ロッキングチェア2台を余裕で置けるのは客室のベランダだけだ。

 地下三階には車3台分の駐車場が確保されているが、自家用車は1台だ。


 フロアの三分の二を占める研究区画は盛夫叔父さんだけしか入れないようになっているので詳細は不明だ。

 叔父さんはアメリカ政府の意向もあって滅多に日本に帰国できない。

 そんな訳で、自衛隊の官舎に住んでいた僕らにこの部屋を使えるよう手配してくれたらしい。


 電気ガス水道は、基本料だけ、そして月額家賃8千円って・・・。

 あまりの好条件に親父が抗議したらしいが、「それじゃ広志にバイト部長を引き受けるよう頼んでくれ」と言われたらしい。僕も一応は我が家に貢献こうけん?しているらしい。


 盛夫叔父さんからは、「日本に帰国した時は、研究室で寝泊まりするから客室を含めて自由に使っていいよ」と言われているが、さすがに母さんと綾バァちゃんは「客室だけは盛夫叔父さん用に」と毎日掃除は欠かさないようにしている。


 さて、冷蔵庫から牛乳を取り出すとコップについで、ダイニングから居間に行くと親父がソファーに深く腰掛けて経済時報新聞、通称、経時新聞を読んでいた。


 親父は公務員になってからマスコミ不信になったということで、民放や一般新聞は絶対に見ない。別に親父は怒鳴ったりはしないのだが、普段の親父からは想像できないほど不機嫌オーラが出るので、親父が自宅にいる間、民放のワイドショーだけは見ないという家族の暗黙のルールがある。


 なんでも親父が中央官庁、いわゆる霞ヶ関に勤めていた頃、大手新聞社の記者の取材に答えた内容と記事に書かれた内容が違っていたという事例が7割を超えていたらしく、記者の頭が悪いのか、デスクが悪意を持って内容を改ざんしているのか、議論になったことがあったらしい。


 記者とのやりとりを残した録音テープがあるので司法に訴えるという意見もあったらしいけど、それより毎晩深夜まで続く残業と過労死・自殺対策の方を重要視したらしい。言論テロリストのマスコミ対策で仕事増やしたくないというのが実情だったようだ。


 そのとき、唯一、経時新聞の記者だけが、きちんと取材に基づいて記事を書いていたということで、我が家では経時以外の新聞は取らないという家訓ができた。それに親父の友達も全く同じ内容の話をしていたから間違いないだろう。


 もっとも、今でも母さんは時々勧誘にくる新聞社のおまけ、無料お米券とかに心をかれているようなんだけど・・・。


 僕も特別講義の「情報リテラシー」で、悪徳業者、政府、マスコミの手口について叩き込まれたので今では親父の言っていたことが理解できるけど、母さんや綾バァちゃんは、商売のこともあって民放が大好きだ。

 こんなところも、母さんと親父の間に溝があると感じる原因かもしれない。


 さて、僕が居間に入ってきたのを確認すると親父は新聞をソファテーブルに無造作に畳んで置くと、今まで見たことのないようなニコッとした笑顔を僕に向けた。

「広志、喜べ。姉と妹が出来たぞ」と言い放つ。


『妹?母さんは確か38歳。高齢出産って何歳からだっけ。母さん大丈夫なのか? でも、姉って何だよ。』少し混乱した。

 そして、先日亡くなった英一郎えいいちろう叔父さんのことを思い出す。


 英一郎叔父さんは、つくば市にある独立行政法人農業環境研究所のうぎょうかんきょうけんきゅうしょで働いていたが、技術協力で訪問したボリビア国の大学で現地の女性イサベルさんに一目惚れし、私財をなげうってボリビアで中山間地農業を始めたという変わった人だ。


 中山間地農業というのは、野菜、果樹、養蜂ようほう、酪農、肥育牛ひいくぎゅうなどを複合的に行う農業の一種で焼畑やきはたが主流な途上国とじょうこくでは環境に優しい農業らしい。


 その英一郎叔父さんは今年の9月に最愛の奥さん、イサベルさんを交通事故で亡くし、つい先日には、自分の果樹園で毒蛇に嚙まれて亡くなったというのを聞いている。

 確か、僕と同い歳の娘と5つ下の妹がいると小学生の頃に聞いたような気がする。


「ひょっとして、英一郎叔父さんの娘さん達のこと?」

 と自信なげに問うと、


「そうか、広志は寮生活だったから初めて聞く話だったかな?」

 と、すまなさそうにこちらを見た。

 母さんは昔から女の子が欲しいと言っている。僕の子供のころの写真に女装したものがあるし、たぶん母さんは既に賛成済みだ。

 そして僕はいつも母さんに笑顔でいて欲しいと思っている。


「いや、この家は広すぎるし、僕も寮生活だから、家族が増えるのは大賛成だよ」と答えると親父はもう一度素晴らしい笑顔を見せた。

 困っている親族に対して支援することを、家族が賛成してくれることが心底嬉しいらしい。でも僕にとっては、僕らも綾バァちゃんや盛夫叔父さんに随分と助けられているし、当たり前のことだと思う気持ちの方が強かったんだ。


 そういえば、小学生の時、ボリビアに親戚しんせきがいると知って、たまたまテレビ番組でやっていたボリビア特集を食い入るように見た記憶がある。

 そこには黒い山高帽を被り、赤、青、ピンクの原色が目に痛い民族衣装をまとったインディオの生活が紹介されていた。


 同い年の従姉妹いとこといっても、僕の「好み」じゃなさそうだし、南米の最貧国さいひんこくっていうことだから、僕がしっかりとサポートしてあげようと心に決める。


「それで、広志。もう日常英会話は大丈夫だそうだね。ちょうど良い機会だから、父さんと一緒に彼女たちを迎えに行こう。広志の誕生日は12月28日だから誕生日プレゼントだ。向こうは12月末で学年が終わるから、転入手続きも進めやすい。

 姉のリーナちゃんはアイシティに編入させるし、妹のサラちゃんもすぐ近くの小学校の4年生に編入する予定だよ。妹のサラちゃんはちょっと言葉足らずらしいが、ふたりとも日本語がペラペラだそうだしね。」


 そう特殊高校は夏休みとか春休みは無いが、公務員である先生や事務員さんのために、12月29日から1月3日までは休みなのだ。


 それにしてもケチな父さんが誕生日プレゼントだなんて。降っていた、生まれて初めての海外旅行話に戸惑っていると、母さんと綾バァちゃんが居間に入ってきた。


「広志は賛成したの?」

 母さんが僕と親父両方を見ながら、どちらにとでも無く聞いてきた。


「大賛成だよ」と僕が答えると、

「じゃあ、さっそくあした区役所に行って必要書類をとってパスポート申請してこなくちゃね。寮監さんにメールして今晩は外泊許可をもらいなさい。母さんからもメールしておくから。」

 こういう時の母は、テキパキという言葉がもっとも当てはまると思う。

 大賛成というひと言で、僕の海外旅行も決定事項となったらしい。


「リーナちゃんとサラちゃんは英一郎叔父さんが、イサベル義姉ねえさんが亡くなった後、ボリビアの大使館か領事館りょうじかんかで、日本国のパスポートとれるよう手続きを済ませたらしいからね。日本の入国審査は一緒に通れるわね。」


 なんでも日本人を親に持つ子供は20歳までであれば、日本国籍が取得可能らしい。

 そういえば、母さんと親父は僕が生まれる前まで、よくふたりで旅行していたらしい。

 我が家のアルバムには若い両親が、東南アジアやイタリアを旅行している写真がたくさんある。


 すこし懐かしげに話す母さんの横顔を見ていると、ひょっとしたら母さん自身が行きたいのかなと感じた。

『いつか母さんに海外旅行をプレゼントしよう。』と広志は思う。


「お父さん。航空券の手配はすぐにお願いした方がいいと思うわ。確か来年まで予約がいっぱいってお話ししていたわよね」

 航空券の手配は、こちらの予定が決まったら、盛夫叔父さんがオールアメリカン航空で手配してくれることになっているらしい。オールアメリカンは、日本からボリビアまでを1社で行ける唯一の航空会社だ。


 ただ、マイアミとボリビアの都市サンタクスル間は、盛夫叔父さんが英一郎叔父さんの葬式に出席した際は、既に来年まで予約がいっぱいでキャンセル待ちになったらしい。

 そのときは、ビクトリア社の「ごり押し」でなんとか盛夫叔父さんの席は確保できたらしいけど、親父の分までは確保できず、親父は自分の兄の葬式に出席できなかったことを、随分と悔しがっていたらしい。今回、迎えに行くのも墓参りができると喜んでいるのかもしれない。


 親父が盛夫叔父さんに電話すると、トランスポート航空を利用すれば、乗り換え時間を含めて片道40時間以上はかかるけど、ニューヨークからブラジルのサンパウロ経由で、すぐにでも予約できるらしい……でも往復80時間じゃ休み終わっちゃう?

 結局、最速でいけるのはマイアミ経由だから、なんとかマイアミ経由便を確保してみるということになった。


 こうして僕の生まれて初めての海外旅行が決まった。

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