第6話 疑問

 暖かな温度と柔らかな何かに包まれながら、クリスは徐に瞼を開く。ぼんやりと目に映るのは見慣れぬ天井で、少し体を動かせば自分が包まれているものが柔らかな毛布であることに気づく。

 見知らぬ場所にいることや周りに人の姿は見受けられないことを理解した瞬間、形容しがたい恐怖がクリスを襲う。体が震えるのを感じながら、助けを求めるように声を上げた。


「……っ、カイル、カ……イル……ッ!」


 喉の奥から絞り出すような悲痛な声が響いた直後、軽い足音と共にクリスの名を呼ぶ声が耳に届き、すぐさまその方に目を向ける。その先にいたのは、たった今名前を呼んだカイルその人だ。柔らかそうな髪を揺らしてやってきた彼は、不安げな顔つきでベッド脇に膝をつく。


「クリス! あぁよかった、目を覚ましたんだね。本当に、よかった……」


 クリスの細い手をとり、カイルは心底安堵したように息をつき、何度も何度も「よかった」と「ごめんね」を繰り返す。カイルは目を潤ませているようにも見えたが、クリスには何故彼がここまでの反応を見せるのかがよく分からない。

 一体自分に何があったのだろう。自然と疑問を抱いたクリスは、ここまでの出来事を思い出そうと頭を捻るが、自らが導き出す前に、カイルがその答えを明らかにする。


「クリスは、あの小屋からここに来るまでに大変なことがあって、それで、疲れちゃったんだみたいなんだ。だから、少し寝てたの」

「……申し訳ございません、シン様。私が、もっとあなたの負担にならないように移動できればよかったのですが……」


 クリスの手を握りながら声を落としすカイルの後方では、膝をついたノクスが不甲斐なさを面に静かに謝る。しかしクリスには何故二人がこんなにも暗い顔をしているのか汲み取れない。体を起こして彼等を近くで見ても、クリスに彼等の胸の内を読み取ることはできない。

 だが、理由はどうあれ、二人が暗い顔をしているのは悲しい。彼等に笑ってもらうためになにかできないかと頭を悩ませたクリスは、なんの気なしにカイルの頬を撫でる。

 理由はともかく、芳しくない顔色をしているのが嫌で、カイルが自分にしてくれたことの真似をしてみたのだ。

 すると、クリスから見れば面白いほどにカイルの表情が変化する。目が丸くなり、どこか顔を赤くした彼は、戸惑ったように口を開いた。


「クリス? え、なに、どうしたの急に」

「……それ、だ、め」

「えっと……もしかして、励まそうとしてくれたの?」

「……んー……う、ん」

「ありがとう、僕達が暗い顔してたから、心配してくれたんだね。なんていい子なんだろ、ありがとう」


 クリスがカイルの問に対しよく分からないままに肯定すると、カイルはたちまち破顔して、クリスの痩身を優しく抱きしめる。

 その傍らでは、二人のやり取りを呆然と見ていたノクスが、ハッとして口を開いた。


「シッ、シン様! 差し出がましいようですが、私のことも鼓吹こすいしていただけると……!」

「……こ、こすい?」

「『私のことも撫でて』だって」

「うん、いいよ」


 カイルの言い直しにより理解したクリスは、ノクスにも腕を伸ばして頬を撫でる。カイルとは異なる触り心地を楽しんでいると、ノクスは嬉しそうに口の端を緩めた。


「こうしてシン様から触れて頂けるなんて、私は幸せものです」

「ノクス。それはいいけどクリスにはもう少しわかりやすい言葉遣いをしたらどう?」


 心底幸せそうに目を伏せる彼だが、やはりクリスには彼が言うことは所々理解できない。その事についてカイルに注意されている姿を見ながら、ふとここに来るまでのことを脳裏に浮かべていく。

 ノクスとここに来る道中の簡単な経緯を聞いて暫く経った。だからだろうか、移動中に味わった冷ややかな感覚がゆっくりと思い起こされる。


 ノクスの丈夫な腕に抱えられて初めて出た外は、とても寒かった。気温は大して低くない筈だ。この時期、春の平均的な暖かさはあるだろう。それなのに、外は小屋の中よりずっとずっと寒くて、肌にピリピリとした冷たさと痛さが突き刺さっていた。そしてそれはいつの間にか怖さへ変わっていった。

――あれは、なんだったんだろう。

 まるでクリスに暴力を奮う大人達を前にした時のような恐ろしさだったことを思い出し、反射的に全身がゾクゾクと震える。

――そとって、あんなにもこわいのかな……。

 初めて体感した『外』にいい感情を抱けなかったクリスは、もうあまり外に出たくないなとぼんやり考えて重く息を吐く。

 すると、それまでノクスとやり取りをしていたカイルが異変に気付き、顔を曇らせてベッド脇にしゃがみ込んだ。


「クリス、どうしたの?」

「……えっ、と……、その……」

「なに? なにか思ったことでもあった?」


 柔らかく発された言葉と共に丸い目がじっと自分を見つめている。その瞳が、まるでこちらの心をなにもかも見透かしているようで、胸の奥がドキリと鳴った。カイルから目線を逸らして、なんと言葉にするか思考を巡らす。

 カイルの視線を受けながら、クリスはあーだのうーだの妙な呻き声を口にした後、ぽつりと言葉を零す。


「……な、んでも、ない……」


 口の端を引き攣らせて発された返答は、誰が見てもなんでもないようには感じ取れないだろう。クリス自身も明らかに変な言い方になったと自覚しており、もし更に言葉を投げかけられたらなんと答えたらいいのだろう。

 悩んだクリスだったが、カイルの反応は思ったよりあっさりしたものだった。


「そう? ならいいや。言える時に言ってね」


 軽い口調でそう言ったカイルは、クリスの髪を撫でて優しく微笑んだ。後方ではノクスが少々戸惑った面持ちで見ており、やはりカイルが何も聞いていないことが疑問だったのだろう。それはクリス本人も不思議だと感じたところだが、流してくれたその行為そのものに疑問をぶつけるつもりはない。そもそもぶつけようにも、上手く訊ねることも、考えていた事を話すこともできない気がした。

 ノクスもそう考えたのだろう、面に現れた戸惑いを一旦棄却して、話を切り替えるように静かにカイルに向けて話しかけた。


「ところでカイル様。差し出がましいようですが、もう夜ですし、一度ご自宅に戻られたほうがよろしいのではないでしょうか」

「え? 嘘、もうそんな時間?」


 クリスにくっついたままに時計を見上げたカイルは、壁に掛けられ時計が指し示す時刻にうわ、とどこか嫌そうに声を上げた。

 どうやら普段であれば夕食を食べているであろう時刻であるらしい。ともなれば親はいつまで経っても戻ってこない息子を心配しているだろうし、町中を探しているかもしれない。ノクスに諭されるように言われて、諦めたように溜息をついたカイルは重い腰を上げる。


「もう、いく、の?」

「うん。ごめんねクリス。でも大丈夫! また明日も絶対会いに来るから待っててね」

「うん」


 また明日――手を握られ笑顔で言われたその言葉にふにゃりと笑ったクリスにカイルも微笑み、強く抱きしめる。「またね」と再度口にしカイルは名残惜しそうに手を振り、徐に玄関へと足を向けた。


「すみませんシン様、カイル様を見送って来ますので、少しお待ちください」


 そう言い残して部屋を出たノクスに手を振った。これでクリスは少しの間部屋に一人となる。

 呆然と天井を見上げてそのまま布団に体を沈めたクリスは、先程のカイルやノクスの反応と、『もしも』を考える。

 もし、自分が疑問を少しでも口にできていたら、カイルはなんと言っただろう。上手く形にできない言葉を汲み取って、クリスが抱いた感情の理由を話してくれただろうか。しかし、いくら考えたところで当然分からない。そんなことに頭を使っては疲れるだけだ。その証拠か、くぅくぅと聞こえた腹の音を聞きながら、クリスは次第に深く考えることをやめて目を閉じた。



 一方その頃玄関では、薄暗い中で靴紐を結び直していいたカイルの傍で、ノクスが神妙な面持ちで灯りを掲げていた。礼を述べ顔を上げたカイルが、怪訝そうな顔をする程にはノクスの様子は妙であった。


「ちょっとノクス、なに不満げな顔してるの」

「すみません、シン様が何を言わんとしていたのか……それを少し考えていました」

「あぁ、それかあ。僕の推測でいいなら話そうか?」

「えっ!?」


 ノクスの言葉に軽い調子で返したカイルは、大袈裟に目を丸くする彼を見て小さく吹き出した。カイルが笑みを零す傍らで、ノクスが恥ずかしげに目を逸らした。


「……あの、あまり笑わないでいただけますか」

「ごめんねノクス。ちょっと思ったより面白かったからつい。――さて、クリスが考えていたことだね」


 随分にこにこと楽しんでいたカイルだが、その調子で説明をする訳ではなかった。再度、『これは自分の推測である』という前提を付け加えて、真面目な顔つきで口を開く。


「あの子は、外に出た際の空気に圧倒されて恐怖した感覚が、まだまだ理解できなかったんだよ。何故あんなに冷たく感じたのか、みたいなことをね。だからそれを聞こうとしたんじゃないかな」

「あぁ、なるほど……」

「クリスが疑問に思うのも当然でしょ?」

「そうですね。……ではもしかして、何も言わなかったのは……その疑問を上手く伝えられなかっただけなのでしょうか?」

「多分そうじゃないかな。だけど、今のクリスには質問も難しく、こっちも適当に答えられるものでもない。だから悪いけど敢えて流したんだよね」

「そうだったのですね」

「うん。でも、今後質問されることがあったら、説明するつもりだよ。あの子、何も知らないけど、あの子にもちゃんと知る権利はあるからね」


 どこか重々しく口にしたカイルは扉へと足を向けると、気づいたノクスが慌てて扉を開いた。どうぞ、と促されるままにカイルは外に出る。春にしては少々冷たい空気が全身を包んだが、もうとっくに日が暮れていることを考慮すれば、肌寒いのも致し方ない。天を見上げれば、瞳に写るのは暗い夜空に浮かぶ美しい月だった。


「綺麗だね、月。後でクリスと見たら?」

「はい、是非、そうさせていただきます」


 月という言葉に反応したか、目を煌めかせたノクスの嬉しそうな反応を面白く感じながら、足を進めた。


「見送ってくれてありがとう。ここまででいいよ」

「承知しました。では、道中充分にお気をつけください」

「ありがとう。それじゃあまた」


 恭しく一礼をしたノクスに小さく手を振って、カイルは敷地外に出た。向かうは当然自宅――かと思いきや、自宅に至る道とは真反対の方向だった。

 ノクスにはなにも伝えていないが、カイルは急遽予定を変更し、別の道を歩く。そのきっかけになったのは、ノクスから聞いた石を投げた少年の話。たとえ子供といえど、許すわけにはいかない。率直に言えば、その少年に対してカイルは怒りを抱いていた。


 虫が集う街灯が何本か立てられた暗い夜道を、灯りも持たずにただ黙って歩ていく。極力人に遭遇しないよう道を選びながら辿り着いたのは、テラスハウスと呼ばれる集合住宅が何棟かならぶ住宅街だった。

 地味な色合いの外壁を眺めたカイルは、周囲の植物を眺めた後、玄関先に置かれた花壇が印象的な家を見つける。暗闇の中でも綺麗に咲き誇る色とりどりの花は美しいが、それに気を取られるつもりは無い。

 カイルは無表情のまま、足音を立てることも無く敷地に侵入する。周りに人の気配はないが、万が一住人にでも見つかっては困ると素早く住宅の陰に身を潜めた。そして再度人の気配の有無を確認したカイルは、気配を探るように暫く建物の周辺を歩き、ターゲットがいるであろう箇所を突き止め、外壁に手を当て徐に目を閉じる。

 目を閉じたカイルの脳裏に写るのは、暖かな色合いの灯りが点いた部屋で、豆を中心とした料理が並べられたテーブルを囲む家族の姿。凡そ30歳前後に見える男女と、その子供たちであろう少年少女が一人ずつ。その中に、カイルは茶髪に緑色の瞳をもつソバカスが特徴的な10歳程度の少年を見つけた。

――あぁ、こいつだ。

 カイルは、クリスが眠っている間にノクスから少年の情報を得ていた。彼は、ただ毛布に包まれ運ばれていただけのクリスに害を与えた不届き者だ。

 クリスに石を投げたというこの少年の話を聞いた時、カイルは確かに『潰してやろう』と口にした。決してそれは冗談ではなく、本気だった。

 顔どころか名前も住所も知らずに探し当てることは困難かと思ったが、ノクスから情報と自らの力で短時間で探し当てた彼は、こうして直接裁きを下しに来た。

 何故そんな相手を探し当てることが出来たのか? カイルもノクスも、それを疑問に思うことは無い。何故なら、これもカイルに分け与えられた『権能』のひとつと理解しているからだ。

――今は食事中か。……なら――。

 室内の状況を確かめて、カイルは氷のように冷たい瞳を薄く開けた。そして躊躇い無く少年へ向けて、パチン、と指を弾き音を鳴り響かせた。

 一見、ただ子供が随分と上手に指を鳴らしただけに見えるこの行為が、数秒後、恐ろしい事態へと繋がっていく。


 直後、家の中から聞こえたのは、耳をつんざくような悲鳴だった。

 女性の甲高い悲鳴が聞こえて、それに重なるように子の名を呼ぶ男性の大きな声が響いた。そして何かを一心不乱に叩く音と咳き込んでいるような音。更には小さな女の子の泣き声に食器と液体が一緒くたに割れたような音。なにも見なくても家の中は酷い状況になっていることが明らかだった。

――上手くいったみたいだね。

 そんな悲惨な音を聴きながら、満足げに口の端をゆるりとあげたカイルは、すぐさま敷地外に移動する。先程まで忍び込んでいた民家よりも少し離れたところで足を止めたカイルは、淡い光もなにも見受けられない瞳で、自らの手を見下ろした。手の感覚を確かめるように何度か握って開いてを繰り返した彼は、再度満足げに微笑む。


「……よかった、『権能』は上手く使えてるね」


 独りごちた彼は民家へと振り返る。異変など見受けられないその家だが、今確実にあの中では悲劇が起こっているのだ。食事中の不慮の事故として認識されるであろう惨事は、決して事故ではない。カイルが先程人為的に起こしたが、しかしその事実はカイルやノクスのようなもの達以外に分かる筈もない。


「罰だよ。クリスに石なんて投げたからね」


 非常に冷たい声で呟いたカイルは、首に巻いたマフラーの位置を直しながら、ひとり住宅街を後にした。

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