死者からの伝言

七月十五日 午後五時二十七分



 一度は解決に向かい、落ち着きを取り戻したかに見えた地下室はアリアが放った一言によって再び混乱と驚嘆の渦中へと呑み込まれていった。

 特に泉川透音いずみかわすくねの取り乱しようは激しく、アリアの指先から母親を庇うように立ちふさがり、涙で腫らした赤い目で睨んだ。


「根岸さん、酷いよ! お母さんがお父さんを殺すわけないじゃない!!」


 悲鳴とも怒声とも取れる金切り声にアリアはベレー帽を目深にかぶり直した。

 アリアとしても、こんな真相は望んでいなかったが、真実は動かしがたい。

 密室トリック、ダイイング・メッセージ、そして泉川千秋いずみかわちあき自身の矛盾した言動――。

 これまで見聞きしてきたあらゆる事実が彼女こそ、この事件の真犯人であることを示していた。


「待ってよ、探偵サン! 本当に透音ちゃんのお母さんが犯人なの? だって被害者自身が『犯人ホシは谷町だ』って、メッセージを遺してるんだよ? それとも暗号の解き方が間違ってた?」


 彩夢も非難こそしないものの、アリアのたどり着いた真相に疑問を持っているようだ。

 アリアはなるべく二人を刺激しないよう、言葉を慎重に選びながら自分の推理を口にし始めた。


「いいえ、あのメッセージの解答としては概ね合っています。しかし肝心な点を見落としています」

「肝心な点……?」

「先程の推理では犯人はヘッドホンのコードで被害者の首を締めた後、ピアノ線で被害者の体を吊る作業のため、十分やそこら部屋に残っていハズです……では、のでしょう?」

「「「――あっ!?」」」


 その時、全員が単純な矛盾に気が付き、おもわず声を上げた。


「殺される直前に書かれたものなら、犯人が見逃すわけがないし、犯人が出ていった後に奇跡的に息を吹き返したとしても既にピアノ線で吊られて身動きできなかったハズです」

「確かに……たとえ意味が分からない文章でも、普通ならとりあえず処分しようとするな」

「そもそも、私達がこの暗号文が解けたのは谷町のヒントをくれたからですよ?」


 アリアの言葉に全員の視線が焦燥しきった谷町純平に注がれる。


「もしかして編集者サンは最初から暗号が分かってた……?」


 関取探偵の編集者であり、学生相撲をしていた谷町ならダイイング・メッセージの暗号に真っ先に気がついたハズだ。被害者だってそれが分かっていたはずなのに、わざわ相撲甚句になぞらえた形で『谷町』の名を残すのは明らかにおかしい。


「たぶん、谷町さんはこのメッセージの真の意味を理解した上で、守ろうとしたんじゃないデスか?」

「ああ、そうだよ……」


 アリアが訊ねると谷町は憑き物が落ちたような顔で何度も頷いた。


「ど、どういう意味!? 編集者サンが真犯人をかばっているということ!?」

「や、守ったのは被害者の作品――関取探偵ですよ」

「え!?」

「皆さん、お忘れですか? 被害者は人気の推理作家で、現場ココはその物語が生まれた書斎ですよ? しかも事件当夜は被害者はまさに新作の執筆中だった。アイディアメモやトリックノートが置いてあったとしてもなんら不自然じゃないと思いますケド?」


 アリアの大胆な仮説に彩夢は目眩を覚えた。


「えぇっ!? ちょ、ちょちょ、ちょっと待って! じゃ、じゃあ、『ホシは谷町だ』っていうメッセージは単なる偶然の一致なワケぇ!?」

「うん、チョー偶然――」


 彩夢は二の句が継げず、形の良い眉を互い違いにさせている。アリアはそんな義妹の百面相をひとしきり楽しむと、推理を続けた。


「……と言いたいところですが、今回は単なる義妹いもうとの早とちりデスね。ホシの掛詞に気付いたなら、『タニマチ』のもう一つの意味にも気付くべきでした」

「そうか! 『タニマチ』は人名じゃなくて、相撲用語で言う後援者――つまり、パトロンのこと!」

「あるいはその元ネタとなった医者が新作の犯人なのでしょう。谷町さんは編集者として、まだ世に出ていない真相をネタバレする訳にはいかなかった。違いますか?」

 

 アリアが訊ねると谷町は観念したようにため息をついた。


「……先生の遺作となる真相です。行司君も探偵のお嬢さんもくれぐれもSNSやなんかで、バラさないでくださいよ?」

「それじゃ、やっぱり犯人は……」


 全員の視線が再び泉川千秋に向き、娘の透音がキッと睨み返した。


「待ってよ! 確かにダイイング・メッセージはお父さんのメモだったかもしれないけど、谷町さんが犯人じゃないという証明にはならないでしょ? ピアノ線のトリックだって、私やお母さんには絶対無理よ!」


 必死に反論する透音に対して、アリアは哀れみのこもった眼差しで小さく頷いた。


「私もそう思います……と言うか、ピアノ線を使った密室トリックには大きな問題が三つあります」

「みっつも!?」

〈ソコ! これでも減らしたんだから、文句言わない!〉


 ショックを受けている彩夢をよそにアリアは説明を続ける。


「まず一つ目は遺体発見時の被害者の格好です。この白線を見ても分かるとおり、被害者はドアに足を向けうつ伏せの状態で倒れていた……そーデスよね?」


 アリアの疑問に千秋を除いた第一発見者全員が頷く。


「ならおかしいとは思いませんか? 絞殺の索条痕に偽装するつもりならピアノ線は被害者の後ろから引っ張らなくてはいけません。つまりドアに寄りかかっていた時、被害者はドアに正対していたハズで、押し破られた拍子に倒れたとすれば仰向けにならなきゃヘンです」

「確かに言われてみれば……正座の状態だったとしたら、そもそもピアノ線で吊ったところでドア寄りかからせるのは人体の重心的に難しいな」


 警察関係者はともかく、他の関係者がまだピンと来ていないようなので、アリアは更に分かりやすい問題を提示した。


「第二の問題は被害者の死因です。死体検案書によれば『気道圧迫による窒息死』とされています」

「……警察の検死が間違っていると言いたいのか、素人探偵?」

「ヤ、そーじゃなくて……一〇〇キロを超える負荷がかかっていたのに、首の骨が無事な人間なんて居なくないデスか?」

「「「あああ!」」」


 ようやく全員が理解したようだ。

 〝密室トリック〟や〝ダイイング・メッセージ〟という、いかにも知的好奇心をくすぐる謎に拘泥するあまり、それが作られた状況を見落とすなんていかにも〝ミステリー脳〟らしい。

 彩夢は魂が抜け出てしまったみたいに、だらしなく口を開けていた。

 その様子をスマホに撮って創介に送ったら面白そうだなと、頭の隅で考えながらアリアは一気に畳み掛ける。


「そして一番の問題はわざわざ密室を作り上げておきながら、他殺の証拠を残すなんて犯人にとってなんのメリットも無いということです」

「どういう意味だ?」

「日野刑事、もし仮に今回の死体発見時に凶器や索条痕が無かったとしたら、どーしてました?」

「そりゃあの体型だし? 病死を疑うだろうなぁ、フツー……」

「そう。密室とは本来、事故死や自殺に見せかけるために行われるものであって、警察や探偵と知恵比べするものじゃありません」

「ええぇ〜! だって、それを言ったら探偵サンの出番無くなるよ〜?」

「私がいつ謎解きをしたいなどと言いましたか? 私はごく普通の女子高生として青春を謳歌したいし、明日のテストに備えてさっさと帰りたいデス」


 アリアが湿った目で彩夢を睨んでいると行司が当然の疑問を口にした。


「だけど実際には現場に他殺の証拠を残ってるじゃないか?」

「犯人側の利益になっていないとするなら、逆を考えればいいだけです。明らかに他殺と分かる状況はいったい誰にとって都合が良いのでしょう?」

「――被害者か!」


 おもわず大声をあげた日野刑事にアリアは頷く。


「ええ、事故死、あるいは自殺として処理されそうだった状況を一変させることで警察や探偵の捜査を介入させました。つまり今のこの状況こそが被害者が伝えたかったこと――『私は殺された!』という真のダイイング・メッセージだったんですよ」


 そのあまりにも悲痛な遺言メッセージに全員が複雑な想いで白線を見つめる中、日野刑事が静かに疑問を口にした。


「……だが、被害者が自分で自分の首を締めたとすると凶器は何なんだ? 検死では実際に窒息死と出てるんだぞ?」

「この現場は防音性の高い地下室です。その特殊性を考えれば、被害者を窒息死させる方法は七通りほど浮かびます」

「ガスか……」


 日野刑事が苦虫を噛み潰したような表情で呟いた。


「ええ、おそらくは入手が容易で空気よりも重く、証拠も殆ど残らない二酸化炭素を採光窓から流したのでしょう」


 二酸化炭素は大気中に〇・〇三パーセント、呼気にも四・五パーセント含まれており昨今、地球温暖化の元凶として何かと槍玉に挙げられる気体だが、実は環境だけでなく人体にとっても有害であることはあまり話題にならない。

 そもそも人間をはじめ動物が呼吸をするのは大気中の酸素と血中のヘモグロビンを結合させて全身の細胞へエネルギー生成の燃料を運搬するためだ。二酸化炭素はその結合を阻害する。

 大気中の二酸化炭素濃度が三〜四パーセントになると頭痛や目眩、吐き気などの症状が現れ、七パーセントを超えると肺の失神や呼吸停止、三〇パーセント以上なら数秒で意識を奪い人を死に至らしめる恐るべき毒ガスだった。

 実際、一九八五年に滋賀県のビール工場で廃棄中のビールから発生した大量の二酸化炭素を吸って作業員一名が意識障害を起こし、死亡する事故が起きている。

 一九八六年にはカメルーンのニオス湖で、湖底に溜まっていた二酸化炭素が気泡となって弾けて近くの村に流れこみ、住民千七百六十四名、家畜三千頭以上が犠牲になる大惨事もあった。

 身近でありふれたものが時に恐るべき凶器となることは往々にしてある。今回の事件でも真犯人は悪魔的な閃きで凶器と密室という矛と盾を同時に手に入れたのだった。


「つまり、被害者を殺してから密室にしたのではなく、んです」


 それならば被害者が真犯人の名前ではなく、『自分が殺された』という断片的なメッセージしか残せなかった理由も頷ける。犯人は直接手を下していないどころか、現場にすら居なかったのだ。もしかしたら被害者は自分が何故、誰に殺されたのかも分からず息絶えたのかもしれない。

 その無念と怒りが被害者の首にきつく巻き付いたヘッドホンのコードに顕れているかと思うと、アリアはやりきれない想いだった。

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