ダイイング・メッセージ

7月15日 午後2時7分



 ダイイング・メッセージ――それは死者からの伝言。

 被害者が今際いまわのきわに最期の知恵を絞って、真犯人や死の状況を示したものだ。

 一九八六年、茨城県で起こった保険金殺人事件では青酸化合物を飲まされた被害者が、死の間際に犯人を示す屋号を口にしたことから逮捕に繋がった。

 また二〇〇七年に京都で起きた通り魔事件でも、被害者が自らを刺した犯人の特徴を証言したが、未だに犯人は捕まっていない。

 もっとも、メッセージが遺された状況が状況だけに、たいていは情報が断片的であったり、あるいは犯人のみも消しを恐れてあえて暗号化されていることが多い。そのため証拠能力は低く、前述の茨城県の事件でも冤罪の可能性が疑われている。

 とはいえ、ミステリーの世界において『ダイイング・メッセージ』は『犯人当て』と並んで読者の知的好奇心を刺激する舞台装置であり、かのエラリー・クイーンが生み出した〝名探偵〟ドルリイ・レーンが指をX状に交差させていた死体から鮮やかに推理を組み立て、事件を解決へと導いている。


〈そういえば、あの話も満員電車という密室の中で起こった殺人だったっけ……〉


 昔、姉が寝る前に枕元で読み聞かせてくれた〝名探偵〟の活躍を思い出しながら、アリアは彩夢から得た情報を反芻はんすうする。


 彩夢の話しによれば、被害者は仕事部屋だった地下室の入り口の所でドアに足を向けたうつ伏せの状態で発見された。その際、被害者の右手は必死に抵抗しようと首に巻き付いたヘッドフォンのコードを固く握っていたが、左手は奇妙なことに床に散乱していた本の中から『関取探偵・うっちゃりでごわす』の第四巻を掴んでおり、そのすぐそばには手書きのメモでこう記されていた。


 はぁ~どすこい、どすこい!

 はぁ~えーー!

 はぁ~どすこい、どすこい!

 星を取られて辛苦を詠めばよー!

 はぁ~どすこい、どすこい!

 はぁ~張り手かわされ、たたら踏む。

 逃げる間もなく前褌取られ、力及ばず。

 だめだこりゃ……!


「ンと……ナニソレ?」


 冗談のようなメッセージを聞かされ、アリアは形の良い眉を互い違いに歪ませたまま彩夢の顔を見た。一方、当の本人はいたって真剣な表情をしている。


「だから、ダイイングメッセージだってば! 死者からの伝言! 〝密室殺人〟に〝ダイイング・メッセージ〟なんて、今回は盆と正月がいっぺんに来たような事件だね!」

「例えが間違ってるし、そもそも記憶違いでは?」

〈それか、なんか悪いモンでも拾って食べたとか?〉


 先ほどの怪文章はどう肯定的に捉えても、酔っぱらいの戯言されごとにしか聞こえない。どこの世界にそんな面白おかしいメッセージを死に際に遺す人間が居るだろうか。

 アリアの疑惑の眼差しを受けて彩夢は憤慨したように唇を尖らせた。


「探偵サンほどじゃないけどアタシだって記憶力、良い方だもん! この前だって、兄さんが家庭教師用のスーツを新調するって言うから、首回りとか股下のサイズ、ぜーんぶアタシが教えてあげたんだから!」

「うん……それは多分、記憶力以外の何かが強いんだと思う」


 前のめり気味な彩夢に気圧されながら当たり障りのない返事をするアリア。


「それってもしかして、兄妹の愛の力ってこと!?」

「うぁ……」

〈ダメだこの……〉


 薄々感じてはいたが、どうも箕輪彩夢は兄に対して漬物石のように重たい感情を持っているようだ。

 もっとも、九野創介と箕輪彩夢には血の繋がりは無く、数年前にとある殺人事件で両親を亡くした創介が遠縁に当たる箕輪警部に引き取られたという経緯がある。おまけに創介は両親の事件の謎が解明されるまではと、今も『九野』の姓を引きずっているため、二人がくっつこうが法律的にはなんら問題はない。


〈倫理的にはどーかと思うケド〉


 そもそもアリアにはどうして彩夢があの唐変木を慕っているのか理解できなかった。


〈そりゃ、背が高くてちょっと見た目はいいかもしれないけど、自分が殺人事件の容疑者にされているのに、ヘラヘラ笑ってカツ丼やらスイーツやら作っているヤツのどこがいいんだか……ンまぁ、味は確かだったけど〉


 アリアはモヤモヤとしたよく分からない感情をひとまず脇に置いて、当面の問題に立ち返った。


「死んだ人を悪くは言いたくないですけど、だいたい、何で直接犯人の名前を書かかなかったんですか?」


 フィクションの中の被害者にも言えることだが、トンチを効かせているヒマがあったら逃げるなり、助けを呼ぶなりした方がいいのではないだろうか?


「それはたぶん……犯人にもみ消されないようにとか、犯人が顔見知りじゃなくて名前が分からなかったとか……深いジジョーがあるんだよ」


 思いつくまま答えてはいるが、先ほどと違って彩夢の表情には自信が見られない。やはり、故人の心情を知るすべはこの奇妙な〝ダイイング・メッセージ〟を解くより他に無いようだ。そう思って、アリアが思い出すのも恥ずかしい怪文章を頭の中で読み返そうとした時、家の中から声が聞こえてきた。


「ええ、先生は自分の本を掴んだまま亡くなってました」

〈あれ? あの人、何でメモのこと言わないんだろう?〉


 先ほどから、漏れ聞こえてくる話の内容を聞く限り、谷町純平は会社に事件について報告を入れているようだった。

 おかげで彩夢の状況説明の補強や裏取りができて、アリアとしては一石二鳥だったのだが、一つだけ彩夢の説明と違っている部分があった。


「きっと新刊を最後まで書き上げることができなくて、無念だったんでしょうね。まさに作家の鑑ですよ」

〈やっぱりだ。谷町純平は手書きのメモについては一切触れていない〉


 その一点がまるで間違い探しの答えのように、浮き彫りになったままアリアの頭から離れなくなる。


 メモに気付かなかったのだろうか?

 ――いや、それはありえない。


〈このミステリー脳のJCが気付いているんだから、推理小説の現役担当編集が不審に思わないはずがない〉


 まだ捜査中だから核心に迫るようなことは伏せているのだろうか?

 しかし谷町純平の職業柄、それも考えにくかった。


〈月桂館って言ったら出版大手だし、ゴシップまがいの週刊誌をいくつも出してるから、むしろ進んでリークする側だもんなぁ〉


 つまり、谷町純平にはダイイング・メッセージのことが広まって欲しくない何らかの事情があるということだ。

 その理由についてアリアが考えを巡らせていると、隣に居た彩夢がすくっと立ち上がった。しゃがんだまま見上げると、そのスタイルの良さが際立つ。チノのショートパンツからすらりと伸びた脚は日に焼け、紅茶に添えるシナモン・スティックのようだ。心なしか甘く良い匂いが感じられる気がする。


〈これでJCって何のトリックだ……?〉


 アリアがおもわず閉口していると彩夢がその手を掴んだ。


「あの人、ゼッタイ怪しい! 何で〝ダイイング・メッセージ〟のこと言わなかったんだろ?」


 どうやら彩夢もアリアと同じ疑念を抱いたようだ。しかしそこからの行動がアリアとは全くの正反対のものだった。


「よし! 何を隠しているのか、直接編集者サンに訊きに行こう!」

「はぃいっ!? や、ちょっと待って! 私は何て言うか、あまり人前に出ないタイプの〝名探偵〟でして……!」

〈知らない人と話すとか、マジ無理無理無理無理っ!!〉


 アリアはなんとかその場に踏みとどまろうと抵抗を試みるが、彩夢の方が何倍も力が強い。


「何言ってるの、探偵サン! 事件は安楽椅子の上で起きてるんじゃなくて、現場で起きてるんだから! 父さんも『捜査の基本は足だ』って、いっつも言ってるし!」

〈もうヤダー! おうち帰りたい!〉


 アリアの抵抗もむなしく彩夢は強引にアリアを引きずって行ったのだった。

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