「ずっと、好きでした」


 俺がそう言い切った時、春子さんの表情は目立った変化を起こさなかった。

 当たり前か。呼び出された時点で、何を言われるかわかっているだろう。

 俺の方といえば、登校してきた春子さんを階段の踊り場で呼び止めた時から落ち着かない。正直、卒業式どころではなかった。

 春子さんは、俺から目をそらすように床に視線を向けた。

 その柔らかそうな唇が、小さく動く。


「そう、言ってくれて、嬉しいよ……」


 俺の心臓が飛び跳ねて、


「でも、ごめん。気持ちには応えられない」


 一瞬止まった。

 日光が差し込む教室が、急に冷たく感じられた。

 俺は目を見開いた。すぐには声を出せない。春子さんの目は伏せられままだ。



「えっ……」

「――あのね。クラスでも、本当に仲のいい子しか知らないんだけどさ」


 春子さんはようやく顔を上げた。

 その表情は、申し訳なさそうにしかめられている。


「親が海外に転勤するから。私も、海外の大学に行くの」


 海外。

 それは、予想していない返事。

 遠くで、トンッという音が聞こえた気がした。まるで、俺の気持ちの下がりようを表しているかのようだった。


「だから無理だよ。遠く離れる関係なんて……きっと持たないよ」

「…………」

「それに、前から外国で暮らしてみたかったから。日本には出来るだけ、何の未練も残したくなくて」


 春子さんは、丸い瞳で俺を真っ直ぐに見つめた。迷いがない。


「……ごめんなさい」


 そして、頭を下げられる。

 俺は何を言えばいいのかわからなかった。もう、口が動かなかった。

 好きな人がやりたいことを邪魔する気には俺はなれない。それははっきりしている。

 なら、きっと、このまま何も言わない方がいいんだ。

 春子さんは、教卓の上に置いていたかばんを掴んだ。


「同じクラスだったの、一年だけだったのに。そう思ってくれてありがとう。本当に嬉しかった」


 彼女の足が、一歩下がる。


「じゃあ、行くね。準備とか忙しいから」


 春子さんは、足速に廊下に向かっていく。背中まである黒髪がさらさら揺れた。

 ドアを開け放したままで、最後に彼女はこう言った。


「夏男君も、こっちで頑張ってね」


 そして、小さく笑うと彼女はそのまま廊下に消えた。振り返ることはない。

 振られたというのに、その笑顔はやっぱり可愛くて。俺は教卓に両手をついた。


 俺の初恋は終わった。

 予想もしない展開で涙も出てこない。

 追いかけようとは思わない。断ったのに追いかけたら、春子さんは嫌がるだろう。そんなことはしたくなかった。


 一年の時、一目見た時からかれていた。

 前に立つタイプじゃなくて、どちらかというと控えめ。でも、自分の芯は持っていて、他の女子とは違う華やかさを持っている子だと思った。

 でも、告白する機会がなかなかなく、ずっと言えないまま俺は今日を迎えた。そして、散った。

 俺は盛大なため息をついた。

 ふと、黒板が目に入った。「卒業おめでとう」という大きなメッセージの周りには、クラスの寄せ書きがある。


「また会おうね。それまで元気で。」

「卒業おめ! 三年間赤点回避した俺、天才!」

「みんな、元気で頑張ってね!」

「一年間、二年間、三年間、人によって違うけど、ありがとう。」


 どれもこれも(当たり前だが)ポジティブな内容だ。

 イライラしてきて俺は思わず「卒業おめでとう」の部分を手でぬぐった。

 綺麗に塗られていた文字が白く広がる。汚い。今の俺の心みたいにぐちゃぐちゃしている。


 もう、ここにいる意味もない。

 俺は息を吐くと、教卓に立て掛けていたかばんを持った。教室から出る。

 そんな気はなかったのに、速足で廊下を歩く。ドシドシッと音が廊下に響く。

 途中、階段ですれ違ったクラスメイトが驚いたように俺を見ていたから、泣いてはいなくてもひどい顔していたんだろう。俺は。




 その後、証書を忘れたのに気がついた時は嫌になった。しばらくは行きたくない教室に、夜の間に戻ることになるとは思わなかったからな。




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