黒海臣(くろみのおみ)のはなし 十六



 黒海臣は、阿多臣がたの兵たちの刑を軽くしました。

 代わりに、宮の兵としてまことを尽くすことを誓わせます。女官のとがのも、里に帰すだけで済ませました。

 とがのに関しては、子を人質に取られていたらしいとわかったためです。子は阿多臣の舘に籠められていましたが、怪我や病はしていませんでした。

 間諜うかみを解き放たれたとがのは、子とともに弓人ゆみひとの里へ下がってゆきました。

 宮びとは、阿多臣方の兵たちがゆるされたのは、細蟹比売のおかげだと言い合います。比売が必死の様子でたかくらの部屋へ飛び込んだのを、みな目の当たりにしていたのです。

 そのように細蟹比売が称えられるかたわらで、黒海臣はひそかに考え込んでおりました。


――あの比売は、恐ろしい。


 細蟹比売は、人の心に敏いむすめです。

 おのれで気づいているのかはわかりませんが、真正面から、相手の哀しみや苦しみを暴いてしまうところがあります。

 そのうえで、相手をまるごと許そうとするのです。相手がどれほど罪を、恥を重ねていようとも、その相手の心を受け入れて、いつくしもうとするのです。

 このいつくしみ深さは、黒海臣にとって恐ろしいものでした。

 得体の知れぬものであるという恐ろしさ。そして他人ひとを惹きつける力を持つ恐ろしさ。

 とりわけ、他人を惹きつける力のほうは危ういものです。

 ともすれば、また阿多臣のように、細蟹比売を悪しく用いようとする輩が出てくるやもしれません。


――そうなる前に、細蟹様の後ろ盾を固めてしまいたい。


 誰も口出しできぬように、比売が悪しき者につけ込まれてしまわぬように。


――そのための、もっとも手っ取り早いやり方は……。


 しかし、そこから先は、考えることすら憚られる企てでした。

 耀日祇かがよひのかみを、また小夜比売をも、裏切ることになるようなやり方であるからです。黒海臣は、思わずその後ろめたさに居すくみました。

 そのとき、真木がとこから声をかけてきました。


「……黒海臣さま?」


 黒海臣は、はっとして真木のからだを離します。どうやら、考え込みすぎていたようです。

 真木の口から、まだ収まらぬ息のなごりが融け落ちてゆきました。問うように胸を撫でられ、黒海臣はかぶりを振ります。


「否、大したことではない」

「まつりごとのことでございますか」

「まあ、そうだな」


 黒海臣は、汗ばんだ身を起こしました。真木が背に手布を当ててくれます。

 冬も深まりゆく夜半よわにあっては、昂ぶった熱もすぐに冷めていってしまいます。黒海臣は、真木の肩に衣をかけてやりました。


「冷えては、病がつく」

「ありがとう存じます」


 真木は、はにかむような声で頭を下げます。黒海臣は口元を和らげながら、唇の端に宿る苦みを消すことができませんでした。


――こうして、すでに小夜比売様を裏切った身が、いまさら後ろめたいなどと……。


 黒海臣はつき前、あの乱の日から真木のはだを知りました。

 あのときはただひと夜だけと念じたはずが、もう幾度もの夜をともにしてしまっています。

 黒海臣はそのたびに、肝を噛むような苦みを覚えました。


――それでも、いまだに手放せぬままでいる。わが身のなんと弱いことか。


 黒海臣はみずからも衣をまとい、床を立ちます。気づいた真木が、追いすがるような声を出しました。


「もう、高御座の部屋へお戻りになるのですか」

「ああ。明日のまつりごとの支度をせねばならぬ」

「……畏まりました」


 黒海臣がいらえると、真木も衣を整え始めます。それから、黒海臣にふかぶかと礼を取りました。


「どうぞ、お疲れの出ませんように。行っていらっしゃいませ」

「貴女もよく休みなさい。何ならば、朝までここにいてもよいのだが」


 ふたりのねやごとは、いつも黒海臣の寝所で行われておりました。

 正殿より少し外れたところにある空き部屋を、ずっと仮の寝所として使っているのです。

 黒海臣の部屋ですから、宮びとたちが起き出す刻限までであれば、気がねすることもありません。

 しかし真木は、つねに申し出を断りました。


「黒海臣さまがいらっしゃいませぬのに、わたくしがのうのうと居座るわけにはまいりません。妾も立ちます」

「そうか」


 黒海臣もそれ以上は引き留めずに、部屋を出ました。真木はなおも礼を取り、こちらが去るまで送ってくれます。

 その気配を背に感じながら、黒海臣は、ふたたび企てのことを考えました。


――この企てを貫き通せば、真木をも裏切ることになる……。


 そう思えば、いっそう胃の腑に苦いものがこみ上げます。とはいえ、それはそれまでのことでもありました。

 真木たちを裏切る後ろめたさは、黒海臣ただひとりの胸にある思いです。

 ですが国を守ることは、ひとりではなく、すべての民のいのちと思いを預かるということなのです。

 そうとなれば、むろん民のいのちのほうが先んじられます。黒海臣ただひとりの思いなど、二の次にすべきものでした。


――裏切り者と責められるならば、甘んじてそれを受けよう。


 責められようが罵られようが、黒海臣は国を守らねばならぬのです。

 そのためには、あかるのみこも細蟹比売も、なにを置いてもお生かし申し上げねばなりません。

 企てでも謀りごとでも、使えるものはなんでも使わねばならぬのでした。


――私が、悪人になってしまえばよいのだ。それでことが収まるならば。


 黒海臣はそのように考えて、正殿へ入りました。

 この決断がまたひとつ、おのれを暗い呻きの底へ連れてゆくとも知らぬままに。



 黒海臣は、駒の下についている波見はみを呼び寄せました。

 駒そのものは、とりことした阿多臣がたの兵たちを鍛えるのに忙しくしています。そのため、代わりに波見を呼んだのです。

 黒海臣は波見に対して、ひとつのめいを与えました。


「――噂を流せ、でございますね?」


 波見は黒海臣の前に座し、きまじめな声でたしかめます。黒海臣は頷きました。


「そうだ。宮びとたちの間に、細蟹様は新たな夫君をお持ちになるべきだ、という声が行き渡るようにしてほしい」

「……細蟹様は、お若くして後ろ盾を亡くされてしまいましたからね」


 波見も、細蟹比売の立場の危うさはわかっているようです。黒海臣は、ならば話は早いと続けました。


「ああ。いまや国母となられた細蟹様を、また阿多臣のような輩に奪われてはならぬ。これは細蟹様をお守りするための策なのだ」

「畏まりました。仰るとおりにいたします」


 波見は頭を下げ、影の融けるように去ってゆきました。残された黒海臣は、ひとりひっそりと息をつきます。


――これで、足場を固めることができればよいのだが。


 黒海臣は、まず周囲の宮びとたちを味方につけようと考えました。

 そうして彼らの声が高まったところで、細蟹比売を説き伏せるのです。すなわち、細蟹比売に新たな夫を迎えること――黒海臣を、比売の婿としてお迎えいただくということを。

 あの激しい比売を守るには、これが最もよいやり方なのです。

 黒海臣が夫となれば、誰もめったなことでは手出しなどできぬでしょう。黒海臣そのものも、国母の妻がいればまつりごとがしやすくなります。


――そうすれば、あかるのみこ様の御代みよも安らかになる。


 黒海臣はこうした企てを抱え、波見に命を下したのでした。たとえ耀日祇かがよひのかみや小夜比売を裏切ることになったとしても、責めはおのれが負えばよいのだと考えて。

 そうして年が改まったころ、黒海臣は細蟹比売を高御座の部屋に呼びました。

 二月きさらぎの、梅香る季節です。乱の後始末もおおよそ済み、ひとびとの心は花開くごとくほぐれ始めておりました。

 しかし高御座の部屋だけは、ぴんと張りつめた気に満ちています。黒海臣は背を正しました。


「近ごろ、宮のうちで高まっている声のことをご存知ですね」

「はい」


 細蟹比売はこわばった様子で頷きます。黒海臣は、そうもあろうと嘆息しました。

 比売はおそらく、まことに耀日祇をいとおしんでいたはずなのです。いまから黒海臣が告げようとする企ては、この思いを踏みにじるものでしかありません。


――だが、いくら細蟹様が憐れでも、私は国を守らねばならぬ。


 黒海臣は立てていた膝を組み替え、慎重に口を開きました。


「宮びとたちの望みは、人の道としていかがかと思われるものですが……」

「ええ」

「だがしかし、……一方では、理にかなった面もあるかと考えています。あかるのみこ様の御代みよを盛り立ててゆくためには」

「――、」


 そう告げると、細蟹比売が鋭く息をのみました。

 ですが一方で、どこか黒海臣のことばを見越していたふうでもあります。比売の気配には、そういう静けさがありました。

 宮びとたちは、細蟹比売の新たな縁組みをしとしています。半ばは黒海臣が仕組んだことですが、半ばは宮びとたち自身の考えでした。

 どうやらもともと宮びとたちは、黒海臣と細蟹比売が結びついたらと考えていたらしいのです。あかるの王が一歳を過ぎ、黒海臣になつき始めたころからです。


 あかるの王様は、なにゆえか黒海臣様になついている。

 細蟹様とあかるの王様と、三人でいるところなど、まるで父母と御子のようではないか――。


 こういう下地があったがゆえに、波見の噂も、思うより速い勢いで広まっていったのでした。

 黒海臣はその勢いに乗じて、細蟹比売へ話を持ちかけたというわけです。いまも比売を窺いつつ、一歩足を進めるように続けました。


「細蟹様には位の高い、たしかな後ろ盾がいらっしゃらない。逆にわたくしは、大君の一族につらなる血を有していない。互いの弱みを埋められる策が、ここにあるというのならば――」


 細蟹比売はふるえています。

 黒海臣はこの哀しさを受け止めながら、おのれ自身をもふり払うように告げました。


「臣を、細蟹様の婿としてお迎えいただきたいのです」


 その一瞬、しんと木の葉の落ちてゆくような沈黙がただよいました。黒海臣は、耀日祇や細蟹比売の死にゆく声を思い出します。


――耀日祇様。……小夜比売様。


 その声たちは、まるでうしろから黒海臣へささやきかけてくるようでもありました。

 すなわち、ここからもはや後戻りはできまいぞということを。


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