黒海臣(くろみのおみ)のはなし 七



 いちど夜が明け、やがてふたたび夜が来ました。

 文目あやひとのひとりが正殿に走り込んできたのは、その翌日あくるひに近い夜ふけです。文目人は黒海臣の前に叩頭み伏し、息も絶えだえに叫びました。


男王ひこみこです、お生まれになりました!」

「まことにか?」


 問いかけるかたわらで、黒海臣はすでに剣を取っています。文目人は背を正して頷きました。


「さようにございます。妃さまはひどくお疲れになり、とこへ臥せっていらっしゃいますが……」

「そうか。よく報せてくれた」


 黒海臣は剣を佩き、部屋の戸を開きました。


「文目人よ、貴女は工房へ戻りなさい。そして細蟹様と女人たちを守りなさい」

「……黒海臣さま?」


 文目人はいぶかしげに座しています。彼女はまだ、これから宮でなにが起こるのかを知りません。

 黒海臣は息を吸い、腹から声を響かせました。


「早くゆけッ! ぐずぐずするな!」

「――っひ、」


 文目人は息をつめ、よろけながら駆け出します。黒海臣はそれを送り、静かに庭へ下り立ちました。

 茂みのあちら、木立のこちら、さまざまなところにひそむ気配を感じます。いずれも、手勢の兵たちです。黒海臣は彼らの前で、すらりと剣を抜きました。


とこの国の忠実なる臣、黒海臣くろみのおみ佐弥さやびこが告ぐ。いましがた、わが国には新たなる儲君もうけのきみがご降誕遊ばされた。このみこの健やかな成長をお守りするには、宮に一点の欠けもあってはならぬ」


 あえて重く、いかめしく、これこそが我らの使命だと説くように。

 黒海臣はそのように語りながら、ゆっくりと歩みます。そうして庭の真ん中へ立ち、激しく唾を飛ばしました。


「いまの世の大君たる耀日祇は、我らがみこの欠けとなる暗君である! 病んだ大君は大君にあらず! なればいまこそ、かの愚昧なるさきつ大君を討ち果たさん!」


 高々と剣をかかげた瞬間、いっせいにときの声が上がりました。

 兵たちは天地をどよもし、あっという間にほうぼうへ散ってゆきます。こちらにくみさぬ敵を倒す者、慌てふためく臣下たちを捕える者、女人や童を逃がしてやる者――。

 黒海臣は雪崩なだれのごとき熱気をよそに、耀日かがよひの寝所へ向かいました。

 いまや前つ大君に降下なされた、ただびとの耀日です。その寝所の周囲は騒ぎも遠く、黒海臣がたの兵たちが見張りをしているだけでした。


「黒海臣様」

「お待ち申し上げておりました」


 兵たちのひざまずく気配がします。黒海臣はその間を冷ややかな顔で進み、寝所までたどり着きました。


「……耀日どの」


 耀日はとこに縛りつけられ、もはや呟きですらない呻きを垂れ流しています。

 ときおり、しゃくり上げるような笑い声を漏らしました。それはすすり泣きのようにも聞こえ、黒海臣の胸にかすかな憐れみを呼び起こします。


――耀日祇様。


 心のうちでだけ、大君としての御名を奉ります。狂った耀日祇の後ろに、お父君である闇彦祇くらひこのかみのおもかげが重なりました。

 そのむかし、闇彦祇がまだみこであらせられたころ。

 くらひこの王は血のしたたる剣を握り、私を殺せとおっしゃいました。謀反のかどで、いとこであったみこを誅したその直後です。

 寝所はすでに片づけられ、血の臭いだけがあたりに残っておりました。

 くらひこの王は、いまだ返り血を拭わぬままのお姿です。剣はその御手へ吸いついたように離れず、腕ごと石と化してゆくのではないかと思われました。


「……佐弥さや、」


 くらひこの王は床を見つめて、黒海臣の名を呼びます。

 はい、と答えて寄り添うと、くらひこの王はさびさびとした声でおっしゃいました。


「いつか、私を殺してくれ」

「――、」


 息がつまり、あとのことばを継げなくなります。くらひこの王は黒海臣に向き直り、乾いたまなざしで続けました。


「私がいつか、この国に仇なすことがあったとき。そのときは私のことを斬ってくれ。私も、あるいはまだ見ぬ子や孫も、国を害せば容赦なく斬り捨てよ。……そうしてどうか、この国の行く末を守ってくれ」


 くらひこの王の御目は、泣きむせぶように燃えています。風が、雪が、大波が、くらひこの王の中で烈しく吹き荒れるようです。

 黒海臣は、その御目に強く囚われました。

 囚われたまま、音もなく深淵へすべり落ちてゆくようでした。


――……くらひこ様、


 思い返せば、むかしはいまです。

 いまこのときにも、くらひこの王のまなざしが黒海臣を責め立てます。それは耀日祇の呻きと合わさり、鐘ののごとく大きく増してくるのです。

 殺せ。

 殺せ。

 私を殺して、――救ってくれ。


「――ッ!」


 黒海臣は剣をふり上げ、あらん限りで耀日祇の腹に突き立てました。

 ああ、と泣き笑うような声がこぼれ、ついで血の泡の弾ける音がします。泉の湧くような響きがこだました瞬間、黒海臣はすかさず耀日祇の首を斬り落としました。

 肉と骨の重みが離れ、それですべてが終わりでした。

 耀日祇は最期のおことばもないままに、あっけなくお隠れになりました。


――……ああ、


 澄んだ湖のおもてのように、黒海臣の心は静まります。

 ほんのさざ波立つこともないというのが、かえって深い哀しみでした。涙は流れず、胸をかきむしるような苦しみもありません。

 黒海臣はひたと凍りついたおのれを眺め、ひとつ息を吸いました。

 そうして歯を食いしばり、寝所から背を向けます。


「聴け、宮の者たちよ! わたくし、黒海臣佐弥彦が、いまこそさきつ大君を討ち果たした! これで国の安寧は守られ、新たなるみこのお生まれもことほがれた――!」


 黒海臣の声が、いんいんと響き渡ります。

 その声は人々の間を伝わり、やがてひそやかなざわめきへ変わりました。誰かが勝鬨かちどきを叫びます。別な誰かがそれに和します。

 雄叫びは大いなるうねりとなり、いつしか宮を包み込みました。

 黒海臣はそのただなかに迎えられ、ほとばしるような喜びとともに称えられます。剣をかかげ、声を上げ、まったき戦勝を祝います。

 そうして黒海臣は、もう心の中ですら、耀日祇の御名をお呼びすることはありませんでした。


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