潮織りの比売(ひめ) 六



 細蟹は、近ごろ気がすぐれないのを感じていました。

 妃となってつ月ほど過ぎた、二月きさらぎのころです。なにをするにも億劫で、糸つむぎすら、やりたい気持ちが起こりません。めまいやしんのすることもあり、とかく沈みがちでした。

 そうした細蟹に気づいたのは、そば仕えの女官でした。

 真木まきという名の三十がらみの女人で、人の気配や心に聡いです。細蟹が重たげに紡錘つむをもてあそんでいると、ひそやかに脇へ寄ってきました。


「細蟹さま。近ごろお加減がすぐれぬようですが」

「ああ……、ごめんなさい。だらしのないところを露わにして」


 細蟹が急いで背をただすと、真木は少し歯切れが悪そうにしました。


「いえ、お諫めしているわけではなく。……少々、思いあたることがございましたので」

「思いあたること?」

「はい。私の思い違いでなければ、……ここふた月ほど、細蟹さまは月のものが来ていらっしゃいませんね?」

「――」


 その意とするところを悟り、どきりと心の臓が鳴りました。

 なにかとほうもないことが始まってしまったような、見知らぬ穴の底に落ち込んでゆくような、そら恐ろしい心地がします。細蟹はうつろな頭のまま、女官の問いにぎこちなく頷きました。


「……来て、いないわ。月のもの。真木の言った通りに」


 そのひとことで、内々に薬師が呼ばれました。薬師は細蟹の脈や胎に触れたのち、おめでとうございますと頭を下げました。

 すなわち、懐妊であるというのです。細蟹の胎に子が宿ったというのです。

 この報を受け、真木は耀日祇かがよひのかみへ使いを走らせました。かがよひは急ぎまつりごとを終え、細蟹の部屋に渡ってきました。


「細蟹!」


 もどかしげに駆けつける足音が聞こえ、強く抱きつかれます。細蟹は身をすくめつつ、なだめるようにその背をさすりました。


「耀日祇さま」

「細蟹、いかにしたのだ。病か怪我か? 真木の使いが、そなたに変事があったというので仰天した……」

「ご安心なさってください、あなたさま。病でも怪我でもありませんのよ」


 ほら、とほほ笑み、手探りでかがよひの頬に触れます。かがよひはその手を掴み、怖いほどまじめに細蟹へ迫りました。


「まことにか? 無理をしているのではなかろうな?」

「しておりません。わたしがあなたさまに、偽りを申したことがございました?」

「……ない」


 その口ぶりが童のようで、細蟹は思わず笑ってしまいました。

 あたたかな湯のように、かがよひをいとおしむ気持ちが湧いてきます。懐妊を告げられたときの狼狽も、いまは落ち着いていました。

 むしろ、嬉しく思います。細蟹の汝兄なせの御方。うるわしのおっとぎみ

 この人との間にいのちを育めるならば、それは、なんと幸福なことでしょう。細蟹は小さくはにかみ、かがよひの手をおのれの胎に導きました。


「耀日祇さま。……わたし、子ができましたの。あなたさまとの間の御子です。ここにわたしたちの子がいますのよ」

「――」


 しかしその直後、風がひやりと凍てつきました。

 目隠しをした細蟹でもわかるほど、かがよひの身がこわばっています。かがよひは畏れと驚愕と、それからなにか望みを絶たれたような惑いの渦に叩き落とされているようでした。


「……かがよひ?」


 細蟹は驚き、おそるおそる手を伸ばしました。その途端、鋭く振り払われてしまいます。


「あっ、」


 よろけてまろび伏した細蟹を、かがよひは激しくなじりました。


「来るなッ! この――穢らわしい! わたしがいつ、子を欲しいなどと言うたかッ!」

「な、……」

「言うな黙れッ! そなたは裏切り者だ、わたしでない者に心を傾け、わたしを捨て去ろうとする! 裏切り者ッ、悪女おめ、どこへでも消えてしまえッ!」


 ぶんと手を振り上げる音がした刹那、外に控えていた真木の声がしました。


「耀日祇さまッ!」


 真木も目を斬られていますが、しゃにむに体当たりしたようです。かがよひが呻き、もみ合い、真木がきりきりと叫びました。


「誰か、――誰かァッ! 大君さまご乱心でございますッ、誰か来て!」


 そのあとのことは、細蟹はきれぎれにしか覚えていません。

 細蟹は情けなくもただ震え、胎をかばい、真木に支えられることしかできませんでした。かがよひはなおも昂ぶり暴れるまま、駆けつけた臣下たちの手で連れ出されました。

 その遠ざかる罵声を聞きながら、細蟹はわけもわからず、涙をあふれさせておりました。



 翌日あくるひ、耀日祇よりみことのりが下りました。

 すなわち、妃たる細蟹比売は、いまいる部屋を出るようにとの仰せです。そうして、かつてかみの伯母君がお住まいだったお部屋へ下がれというのでした。

 この伯母君というのは、耀日祇のお父君――つまり闇彦祇くらひこのかみのおねえさまです。小夜比売さよひめという御名で、いまは宮を出ています。黒海臣くろみのおみという、闇彦祇の臣下に嫁いでいらっしゃるためでした。

 小夜比売のお部屋は、大君の御座所から少し遠く、ひっそりとしています。

 急な勅命であったので手入れもならず、踏み入れば埃が喉をつきました。真木があわただしく場を清め、寝床を整えてくれます。


「かような場所で、細蟹さまにはご不便をおかけしますが……」

「いいえ、わたしはかまわないわ。ありがとう」


 細蟹も手伝えればよいのですが、悪心で起きることもままなりません。なんとか寝床に横たわったものの、それだけで目まいがしました。

 すると真木が袖をふり、風を送ってくれます。


「どうぞ、少しでもお休みくださいませ」

「ええ、……」


 細蟹は頷いて目を閉じました。

 しかし昨日のことが頭をよぎり、どうしても寝つかれません。ため息をついていると、真木が背をさすってくれました。


「お眠りになれませんか」

「……ごめんなさい。手間をかけて」

「そのようなこと……。細蟹さまがお気になさることでは、ございません」


 そのまま、真木は黙って細蟹の背を撫でつづけます。細蟹も黙っていました。

 真木とはまだ、妃となってほんの数月の付き合いです。互いに口数の多い性分でもなく、二人でいると話さぬ時間のほうがほとんどでした。

 細蟹にも真木にも、どこか遠慮する気持ちがあります。とりわけ細蟹は、これまで他人ひとと触れ合った機会がそう多くありません。突然に妃となり、ひとびとを使う立場となっても、戸惑いのほうが大きいのでした。


――……難しいのね。人と人とは。


 ひそめるように息をすると、咳が出ました。どうにも埃が障るらしく、二度、三度と止まなくなります。

 真木があわてて、布を口にあてがってくれました。細蟹がひどくむせるので、また懸命に背をさすってくれます。そうして、低く独りごとのように呟きました。


「……大君さまも、なにもこのような仕打ちをなさらずとも、」


 細蟹はそのことばに顔を向けました。

 察した真木が、はっと身を硬くします。袖の舞う音がして、床に叩頭み伏したようでした。


「申し訳ございません」

「いえ、いいの。あなたはやさしいのね」

「そんなことは、……」


 真木は後じさるような声で言い、わずかに衣ずれをさせます。その遠慮深いしぐさに笑みがこぼれ、彼女も少し、細蟹と似ているのやもしれないと思いました。

 そうすると、ふと近づいてみたい気持ちになります。細蟹は笑みを収め、真木に問いました。


「ねえ、真木。子を孕んだわたしはもう、耀日祇さまにとって、――いらないものなのかしら」

「細蟹さま」

「あのように怒らせることを、わたしはなにか、してしまったのかしら……」


 なにが、いけなかったのでしょう。きっとかがよひも、細蟹との子を喜んでくれると思ったのに。

 しかしかがよひは子を拒み、細蟹を撥ねつけました。それはまるで深い谷底へ突き落とされたように哀しく、細蟹をうつろにします。胸の奥から啾々と風を呼びます。


――なんと、こんなにも寒いこと……。


 静かに唇を噛んでいると、真木がまた衣ずれをさせました。手を伸ばし、細蟹の肩に領巾ひれをかけます。


わたくしめごときが大君さまのお心を量るのは、たいへんな不敬でございますが……。大君さまは、決して、細蟹さまを疎んじておられるのでは、ないと存じます」

「なぜ?」

「畏れながら……おそばでおふたりを拝見していて、そう思うのです。大君さまは、むしろ細蟹さまを、あまりにもいとしく思し召していらっしゃるのではないかと存じます。細蟹さまこそが、大君さまにとってはふたつとないたからなのです」

「わたしを、あまりにも……」


 真木の言いたいことが、なにとなく見えてきました。

 細蟹がなによりいとしく、それゆえに子を拒むというならば。それはつまり。


「――耀日祇さまは、御子にわたしを盗られると思っていらっしゃるのね」


 真木はいらえませんでしたが、ふたたび叩頭み伏すような衣ずれが聞こえました。

 それできっと、そういうことなのだと悟ります。

 その確かさは、細蟹をしんと冷えさせました。腹の底にちいさく、ひそかに、青い火の芽をともされたかのような。

 沸々としたものは細蟹の中へ根づき、やがて草を舐める火の手のごとく広がってゆきました。

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