第二部 第三章 一 シブタニのばあさまとはるみの伝言

「お父さん、電話。交流センターの成田さんから」

 はるかに揺すり起こされ、固定電話の子機を渡された。

「はい、太田です」

 成田さんが朝から一体何の用事だろうと寝ぼけた頭で考えながら、電話に出た。はるかは電話を渡すとさっさと下に降りてしまった。ベッドの隣を見ると、はるみはいなかった。そうだ、もう、はるみはいないのだ。今までもわたしが目を覚ましたときにはたいていはるみはすでに起きていなかったが、今朝はそれとはまったく違うのだ。空気が圧し潰されそうなほど重く感じられた。ベッドから起き上がる気力が出なかった。

「もしもし、太田さん?」

 電話の向こうで何か話していたようだが、ぼぉっとしていた。目覚まし時計は七時五十五分と表示していた。仕方なく、寝返りをうって、身体を横に向けた。

「すみません。ちょっと今日は寝坊して」

 普段ももう少し遅く起きることが多かったが、そういうことにしておいた。

「そうでしたか、起こしてしまいましたか、すみません」

「いえ、いいんです」

 まさか妻が家を出て行って、朝方まで眠れなかったなんて言うことはできない。

「ところで、里山中の駅前に昨日の夕方からアルファ・ロメオが止まっていまして」

 途中までぼんやり聞いていたが、アルファ・ロメオという単語が耳に入ってきたとたんに目が覚め、わたしはベッドから飛び起きた。

「えっ? アルファ・ロメオが? 里山中駅に?」

「ええ、はい」わたしの反応が突然鋭くなったせいか、成田さんののんびりとした口調に戸惑いが混じった。「なんか変だと思って近づいて見てみたら、鍵がつけっぱなしになっていて。ナンバーまでは覚えてませんけど、アルファ・ロメオなんて、あの薄い緑色の147なんて、この辺じゃ太田さん以外、見掛けないですから。それとも誰かに譲ったんですか? それにしても鍵がつけっぱなしだし」

 まさかこんなにすぐに見つかるとは思ってもみなかった。当然ながらもうそこにはるみはいないらしい。あそこからどこへ行ったのだろう。まさかダム湖に身を投げたなんてことはないだろうか。いや、警察ならその可能性を疑うかもしれないが、わたしにはそれはないと確信できた。

「ナンバーはわかりますか?」

「ちょっと待ってください」

 成田さんはまだアルファ・ロメオの近くにいるらしく、少し移動して、ナンバーを読み上げてくれた。

「間違いなく、うちのです。鍵がつけっぱなしという以外に変わったところはありますか?」

「傷とかもついていないですし、特にそれ以外はないみたいですね。誰か盗んで、ここに乗り捨てたんですかね?」

「いえ、違うんです。だいたい事情はわかっています。すみませんが、とりあえずロックをして、鍵を預かっておいてもらえませんか。あとで取りに行きますので」

「ええ、構いませんけど」

 成田さんは抱えきれないほどの疑問を持ったままのようだったが、今はそれに答えている暇はないので、申し訳ないと思いながらも、そのまま電話を切った。

 すぐに警察署の山脇さんに電話を入れた。まだ出勤していなかったので、簡単に用件を伝え、折り返し電話をくれるように頼んだ。

 下に降りていくと、はるかがひとりで食パンとレタスのサラダと目玉焼きの朝ご飯を食べていた。ソファにはランドセルが置いてあった。

「はるか、お前、今日も学校に行くのか?」

「うん、行くよ。どうして?」

「いや、だって、はるみがいなくなったのに……」

「わたしはそういうのは嫌なの」はるかは無愛想に言った。「だから今日もちゃんと学校に行く。できれば学校まで車で送って欲しいんだけど。でないと、完全に遅刻だから。ノリコちゃんたちには先に行ってくれるように電話はしたけど」

「わかった」

 昨晩はるかは家に帰ったあと、さっさと風呂に入り、何事もなかったように布団に入ってしまった。一緒に寝ようかと言ってみたが、あっさりと断られたのだ。

「それより成田さんが里山中駅にアルファ・ロメオが止まっているって教えてくれた」

「えっ? イヨナちゃんが?」はるかの顔がほんの一瞬だけ明るくなった。だが、期待や希望の色はすぐに消えた。

「イヨナちゃん?」

「イチ・ヨン・ナナだから、イヨナちゃん」愛想のない顔に戻って面倒くさそうにはるかは言った。

「なるほど」

 屈折しているのかもしれないが、そういう表情を見せてくれるのもわたしに心を許してくれているからなのだと思った。

「もちろんお母さんはいなかったんでしょう?」

「ああ。鍵がついたまま昨日の夕方から停めてあったらしい」

「そうなんだ。でもどうしてそんなところに行ったんだろう?」

「わからない。わからないからとりあえず行ってみようと思う。はるかも一緒に行くか?」

「どうしよっかなぁー」

 自分は探さないと言い切ったわりには迷っているようだった。もっともわたしとて、はるかの言い分が正しいと認めたのだから、探さないと宣言したも同然だった。ただ、警察にも届け出ているし、アルファ・ロメオを回収するといった現実的な対処も必要だ。それに、何か手掛かりが見つかるかもしれないという希望が湧いてくると、抑えるのは難しかった。

「やっぱり、やめとく」

「そ、そうか」

 一緒に行ってくれるのではないかというわたしの期待が伝わり、それが嫌だったのかもしれない。そんな風に感じた。今まで感じることができなかったはるかの微妙な感情の揺れが急に理解できるようになったような気がした。気のせいかもしれない。だがもしかすると、はるみにばかり向いていたわたしの感覚がはるかにも向かうようになって、それでわかるのかもしれない。だとするとやっぱりわたしははるかに対してずいぶんひどいことをしていたことになる。

 はるかに急かされて、身支度を調えた。その間にはるかは朝ご飯をサンドウィッチにして包んでくれていた。

 新しい生活はこういうことになるのかと思いながら、デミオに乗り込んだ。

 学校に向かう途中に山脇さんから電話が入った。はるかに代わりに出てもらった。警察としては事件性はほぼないと判断していたが、妙な場所で車が発見されたから現場を見たいので、そのままの状態にしておいてもらえないかということだった。発見した知り合いに鍵を掛けて保管してくれるよう頼んでしまった、とはるかに伝えてもらった。山脇さんが残念に思ったことを、はるかが表情で教えてくれた。警察の立場からすれば当然だ。ただ、それでもいいので一応現場を見て、それから必要なら鉄道会社の方にも当たってくれるということだった。デミオで行ったらアルファに乗って帰ってこられないとはるかから言われて、初めてそのことに気が付いた。わたしの脳は、その一部が働くのをやめてしまっているみたいだった。山脇さんは、自分を乗せていってくれればどちらかの車を運転してくれると申し出てくれた。山脇さんはわたしに対して相当同情してくれているらしかった。

 はるかを遅刻ぎりぎりで学校に送り届けてから、山脇さんを拾うため岩山署に向かった。署の駐車場に車を停めて電話をすると十分ほど待ってほしいと言われたので、その間に、はるかが用意してくれた、トーストした食パンで挟んだ目玉焼きとレタスのサンドウィッチを水筒の水で呑み込むようにして食べた。それからしばらく、フロントウィンドウ越しに雲に覆われた空をぼんやりと眺めていた。耳許でガラスがノックされたので、驚いて振り向くと、年季の入った濃い茶色のスーツ姿の山脇さんが遠慮がちな笑みを湛えていた。

 山脇さんは「お待たせして申し訳ありません」と言いながら乗り込んで、シートベルトを締め、「じゃあ、よろしくお願いします」と言ったきり、何も話さなかった。制服を着ていないとはいえ警察官を横に乗せて運転するなんて初めてのことだったので、肩に力が入った。教習所で初めて路上に出たときの気分だった。

 信号をいくつか抜けて、わたしの運転から異様なまでの緊張が抜けてきたのを見計らったように、山脇さんが口を開いた。

「しかし、それにしても里山中なんて、なんでまたそんなところに奥さんは行かれたんでしょうな。立ち回り見込み先には挙がっていませんでしたが」

「ええ。妻はこちらに引っ越してくる前に家族で一度訪れたきりと思います。だから思い当たる理由がありません。わたしの方は仕事で里山中地区交流センターと関係しているものですから、ときどき行きます。わたし自身、高森山にある大学の研究所に通っているんです。センターと協力して、あの辺の森の再生をするプロジェクトをやっています」

「そうですか。そういえば、太田さんは大学教員ということでしたな。実はわたしはあの村の出身でして」

 山脇さんはずいぶんリラックスした口振りで、捜査に行くという感じではなかった。

「そうなんですか。わたしは十年ちょっと前に研究所を訪れて、そのときにあそこにあった公民館にお世話になったんです。どうも何かとご縁があるらしくて」

「公民館というとあの古い木造の?」

「はい。わけあって、そこに泊めてもらったんです」

「では、館長だった山田さんをご存知でしょうか?」

「ええ、そのときは大変お世話になりました」

「あの火事の時の! あなたが……」

 突然驚いたように山脇さんは言った。まじまじとわたしを見ているようだった。こっちもびっくりしたが、警察官を横に乗せて脇見運転はまずいので、ちらっとだけ山脇さんを見た。あそこの出身であれば、山脇さんの母校でもあったのだろうし、興味を持ってもおかしくはない。でもどうしてわたしが火事の時に泊めてもらった人物とわかったのだろう。以前、河村教授からちらっと聞いたところでは、公民館の火事については地方紙の社会面に取り上げられていたが、わたしに関しては一切具体的には書かれていなかったとのことだった。まあ、あんなところに泊めてもらう人間など、わたしくらいなものだろう。

「はあぁ」山脇さんは感心したような声を上げた。「いやいや、どうして、トシコねえちゃんは助けてもらったって言ってました。うちの若いのが、なんか権力を振りかざして、それを間に入って、駐在所に連れて行かれたって。変なことにならなくてよかったですわ」

 山脇さんは、制帽に手をかけようとして、被っていないことに気づいて、ちょっと苦笑いをしながら、わたしに頭を下げた。

「ええ、まあ。だけど、どうしてわたしがそのときに泊まった人間とわかったんですか?」

「いえね、昨日、太田さんのお名前を見たとき、どこかで見たことのある名前だと思いまして、それが思い出せなかったんですが、たった今思い出しました。あの火事の報告書で見たんですわ。自分の母校の建物だったものですから、まあ個人的にも関心がありまして。実はあの公民館は以前は小学校で……」

「ああ、その話は聞いています。やはり、山脇さんも卒業生なんですね?」

 どうもみんな、あの建物には相当思い入れがあるらしく、長くなりそうなので遮った。山脇さんは、目を細めて頷いた。「ところで、トシコねえちゃんというと、山脇さんのお姉さんということでしょうか?」

「いえいえ。トシコねえちゃんはわたしより三つ上の先輩でして、そりゃまあよく叱られたり、勉強を教えてもらったりしたもんですわ。いまだに頭が上がりません。こう見えてもわたしは東京の大学を出ているんですが、それもトシコねえちゃんのお陰ですわ」

 それから山脇さんは物思いに耽るように黙り込んだ。ふと、山脇さんがあの図書室の女の子について何か知っている、あるいは見たことがあるのではないかと思い付いた。一瞬訊いてみようと思ったのだが、そうすればわたしの方も話さなければならなくなるので思い直した。

 昨日の大雨で空気は澄んでいたが、空には雲が多く、天気はぱっとしなかった。まるで晩秋にでも戻ったような天気と気温だった。それにまだ道路脇にはところどころに大きな水たまりが居座っていた。その度に減速するか、車線を変更しなければならなかった。教習所で習ったことを思い出しながら、ウインカーを早めに出し、安全確認をして、車線を移った。

「それにしても、太田さんは安全運転ですな」

 赤信号で止まっているときに、山脇さんはわたしの方を見ながら、人の気も知らずにのんびりと言った。

「いえ、まあ、警察官を横に乗せているので、どうしても普段よりもよけい慎重になってしまいます」

「ああ、それはそうですな。失礼しました。取り締まるなんてことはしませんので、どうぞご安心ください。普通に安全運転してくだされば結構です」

 多少制限速度をオーバーしても流れに乗って走ればいいということなのだろうが、普段と同じように運転するのは無理だった。それにしても制限速度をきっちり守って走ると、ほかの車に邪魔者のように次々と抜かれ、止まっているように遅く感じられた。確認しなければならない標識も山ほどあった。里山中に着くころには肩ががちがちになっていたが、少なくとも余計なことは考えずにすんだ。

 私服とはいえ警察官を連れて交流センターには行くのは気が重かった。でもいずれにせよ、成田さんにはある程度事情を説明しなければならないだろう。センターの駐車場に車を止め、降りようとしていると、成田さんが待ちかねたように玄関から出て来た。姪の山田さんもなんだろうという顔で続いて出て来た。山脇さんを見ると成田さんは怪訝な顔をしたが、山田さんの方は顔が明るくなった。

「あんれ、山脇のケイジさん!」山田さんが元気な声で呼びかけた。「でぇも、どうしてまた太田さんと一緒に」

 山脇さんは答えずに笑顔で手を挙げ、わたしの方を見た。話す必要があるなら自分で話してくれということらしかった。まあ、当然だろう。

 成田さんが気を利かせて、山田さんに何か仕事を頼んでくれたらしかった。山田さんはぶつぶつ言いながら、建物の中に戻っていった。

「太田さん、鍵です」

 成田さんはポケットから鍵を取り出し、視線を避けて差し出した。

「ありがとうございます」

 姪の山田さんが知り合いなのであれば当然山脇さんが警察官であることは後で知らされるだろうし、山脇さんと成田さんの二人は初対面のようだったので、わたしの方で、岩山警察署の山脇さん、と紹介した。二人は無言で会釈をした。

 事情を話すべきかどうか迷ったが、逆に犯罪でも犯したと思われても困るし、今後のこともあるので話しておいた方がいいと思った。成田さんも遠慮はしているが、どういうことなのか知りたがっていることは気配から伝わってきた。

「ちょっと事情があって、妻が家を出てしまって」

 成田さんはぎょっとした顔をした。聞いてはいけないことを聞いてしまったという感じだった。

 プロジェクトの作業にはピクニック気分でときどき家族を連れてくる教員もいたが、はるみもはるかも連れてきたことはなかった。はるみが行きたくないと言っていたのだ。はるかは来たそうにしていたが、我慢してもらった。だから成田さんは、わたしたちが最初に来たとき、はるみとはるかを帰り際にちらっと見ただけだった。その後山田さんから追加で話を聞いたらしく、何かのときにうらやましいみたいなことを言っていた。成田さんは三十代半ばで、まだ独身だった。

「驚かないで聞いてほしいのですが、それと他の人には言って欲しくないのですが」とわたしが前置きすると、成田さんは目を見開いたままの顔で何度か頷いた。

「実は妻は記憶喪失で、子どもの頃のことを覚えていなかったんです。ところが、突然どこの誰だか思い出したらしいんです。でも戻った記憶を告げずに、わたしと娘の前にはいられないと書き置きを残して、出て行ってしまったんです。そうだ、言い忘れていましたが、娘は養女なんです」

 成田さんはきょとんとした顔で小さく頷いた。たぶん、初めての人には情報量が多すぎるのだ。

「それでアルファ・ロメオに乗って出て行ったものですから、探していたんです」

 成田さんは目を泳がせたまま頷いた。

「そういうわけで、連絡をいただいて助かりました。ありがとうございます」

 混乱させてしまって申し訳ないが、仕方がない。でもわたしだって、丁寧に説明する気にはなれないのだ。それに仕事で関係するここに長居はしたくなかった。せめてもの誠意として丁寧に頭を下げて、その場を去った。

 駅の駐車場にはアルファ・ロメオ147がぽつんと止まっていた。ほかに車はなく、一台分を開けてデミオを駐車した。

 アルファ・ロメオに特に変わった様子はなかった。バックで枠の中にきちんと止められていた。アルファの前に立つと笑いかけてきたように見えたが、それはいつものことで、そういうデザインなのだ。

 山脇さんは車の回りを一回りすると、「ドアを開けていただけますか」と言った。わたしは頷き、リモコンでロックを解除した。二人で車内を見て、それからトランクを見た。「何かお気づきの点はありますか?」と山脇さんが聞いてきたので、何もないと答えた。座ってみると、シートの位置もはるみのものだった。車でここまで来て、ちゃんと駐車をして、鍵をつけたまま置き去りにしたという感じだった。どうしてここに来たのかはまったくわからなかった。

「まずはここから鉄道を利用したかどうか、でしょうな」山脇さんは独り言のように言った。

 ふと、視線を感じて振り返ると、あのときの、初めてこの駅に降りた時に話をした、あのお婆さんがわたしたちの方を見ていた。わたしたちが気付いたことに気付くと、小さく手招きをした。まだ生きていたんだと少し嬉しい気持ちになった。

「シブタニのばあさま、いたのか。全然気ぃがつかなかったわ」山脇さんは方言混じりのイントネーションで言った。

「シブタニのばあさま、って言うんですか」

「あれ、太田さんはご存知ですか?」

「まあ、知っているというか、初めてここに来たときに、少し話をしただけです。話をしたと言っても、あの人の言っていることはほとんど理解できませんでしたが」

「そうですか」

 山脇さんは不思議そうな顔でわたしを見た。こんな表情をどこかで見たことがあると思った。そうだ、沢田さんだ。はるみと初めて会った日、はるかと三人でそれなりに楽しく過ごしたと沢田さんに言ったら、変なものを見るような目で見られたのだ。雰囲気は少し違うが、同じような表情だった。嘘のように遠い日の出来事だった。

「シブタニのばあさまはおいくつなんですか?」

 ゆっくりとした足取りでお婆さんの方に向かう山脇さんに並んで歩きながら質問した。

「四、五年前、百歳のお祝いをしましたよ。わたしはちょっと顔を出しただけですが」

「じゃあ、一〇四歳くらいですか。すごいな」

 お婆さんはどうやら山脇さんではなく、わたしの方を見ているらしかった。

「まだ寒いのに、ばあさまは元気だな」

 山脇さんが声を掛けたが、お婆さんはわたしの方を見上げた。そして、ごにょごにょごちょごちょ、と言った。相変わらず、というより以前にも増して聞き取れなかったが、どこから来たのかと言ったのではないことはわかった。少なくとももう少し長いようだった。

「なんだ、ばあさま?」山脇さんはお婆さんの横に腰を下ろして、聞き直した。

 今度は少しゆっくりしたしゃべり方になったが、やはりわたしにはわからなかった。さきほどのは話し始めただけで、すべてではないらしかった。山脇さんは言葉が切れるたびに小さく頷き、手帳に記入して、一メートルほど離れて立つわたしの方を見た。ときどき、わたしにはよくわからない方言で聞き直したり、話を促したりした。

 お婆さんは全部話し終えたらしく、わたしを見て、にこりとした。たぶん間違いなく笑ったのだと思う。

 山脇さんはお礼らしき言葉を言いながらお婆さんの肩を優しく叩き、立ち上がった。

「太田さん」山脇さんは警官らしい表情の読み取れない真面目な顔で言った。

「はい」

「ばあさまがあの車に乗ってきた娘さんと話をしたということです」

「はるみと?」

「もちろん奥さんと断定はできませんが、姿格好は奥さんと一致します。髪が長くて、すらっとした感じの娘さんで、白っぽい上着と長いスカートを履いていたといっています」

「だったら、はるみだと、妻だと思います」

 山脇さんは頷いた。

「ええ、たぶん間違いないと思います。どうやら、岩山方面の電車に乗ったようです」

「岩山に? なんでわざわざここまで来て、岩山に?」

「それはわかりません。途中で降りたのかもしれません。それから」

 言葉を切って、山脇さんはわたしを見つめた。

「どうしても帰らなければならない、と言っていたそうです」

「どこにですか?」

「残念ながら、それもわかりません」

「そうですか」

 思わずため息が漏れた。お婆さんを見ると、もう目を開けているのか閉じているのかわからない感じで、自分の役目は果たしたのでひと眠りさせてもらうという風だった。

「それと、自分の愛する人が探しに来るはずだから、もし会うことがあったら、手紙に書き忘れたので、『ありがとう』と伝えてほしい、と言っていたそうです」

 はるみ……。

 心の中で名前を呼ぶと、じわっと何かが胸に込み上げてきて、抑える間もなく涙がこぼれでた。それがあっという間に頬を伝わり、顎からしたたり落ちるのを感じた。

「太田さんを見た瞬間、この人のことだと、ばあさまにはわかったそうです」

 わたしは声を出せず、山脇さんの言葉にただ頷いた。

「まあ、気を落とさずに。奥さんの足取りに一歩近づいたわけですから」

「はい」震える声でなんとか答えた。

 でもわたしにはわかった。これははるみからの最後の言葉なのだ。お婆さんに深く頭を下げ、それから車に戻った。アルファのシートに座って、しばらく泣き続けた。どうしても涙が止まらなかったのだ。その間、山脇さんはデミオの中で待っていてくれた。

 どのくらい経ったのか、涙が収まりかけたころ、すっかり曇ってしまった窓がコツンコツンとノックされた。山脇さんだった。わたしは無理に涙を拭き取って、ドアを開けた。

「すみません、お待たせしてしまって」

「いえ、まあ、こういう状況ですから。ただ、私もそろそろ署に戻らないといけません」

「はい」

「ちょっと電話で鉄道会社の方に当たってみましたら、奥さんが乗ったと思われる時刻の運転手からのちほど話が聞けそうです」

 山脇さんは小さく笑みを浮かべた。今の時間を利用して、調べを進めていてくれたらしい。

「署の方では事件性はないとの判断で、実はこの件は私の個人的な思いで調べているものですから、あまりお役には立てないかもしれません。里山中に車が乗り捨てられていると聞いて、柄にもなく自分が動かなければと思ってしまって」

「そうでしたか。それはすみませんでした。でも大丈夫なんですか、そんな勝手に捜査して」

「まあ、どうにでもなります。太田さんの心配なさることではありません。でもやっぱり私が来てよかったですわ。ここの出の人間でも、ばあさまの言っていることはなかなかわかりませんから」

 そう言って山脇さんは控えめに短く笑った。

 山脇さんにデミオを家まで運転してもらい、アルファ・ロメオをガレージの前に停め、それからデミオで山脇さんを岩山警察署まで送り、誰もいない家に戻った。もう昼近くになっていた。

 家の中はひっそりとしていた。はるかがいないせいか、はるみのいないことを昨日よりもはっきりと意識させられた。茶室に上がってみたが、もちろん誰もいなかった。すべての部屋を見てみたが、誰もいなかった。

 あきらめてソファに座ると、大学に連絡を入れるのをすっかり忘れていたことを思い出した。今は学生は春休みだし、裁量労働制なので問題はないが、佐野教授に電話を入れて、簡単に事情を説明した。大学でわが家の詳しい事情を知っているのは佐野教授だけだった。しばらく休みたいと申し出ると、すぐに了解してくれた。それから一分もせずに三上さんから連絡が入った。仕事の都合がついたので、今日の夕方、こっちへ来られるということだった。駅で待ち合わせをして電話を切った。今度ははるかから三十分後に迎えに来てくれと電話がかかってきた。どうだった? とシンプルに聞かれた。簡単に説明した。シブタニのばあさまの話はとりあえずは話さないでおこうと思った。よくよく考えると、わたしだけへのメッセージのように思えたからだ。

 自分の愛する人が探しに来るはずだから、もし会うことがあったら、手紙に書き忘れたので、ありがとう、と伝えて欲しい。

 ばあさまの記憶と山脇さんの通訳が正しければ、そう言っていたのだ。もちろんはるかのことを含んでいるとも受け取れなくはない。でもわたしには、わたしだけに宛てた伝言のように思えた。まるではるみが、わたしだけがあそこに行くことを予期していたみたいに。普段思いついたことや大事なことを書き込んでいるモレスキンの手帳に書き入れた。

 お湯を沸かして、豆を挽いて、コーヒーを淹れた。豆も水も同じはずだが、はるみが淹れてくれたコーヒーとは違う味がした。別にまずいというわけではなかったが、何かが決定的に違った。もしかすると、単にはるみがいないというだけのことかもしれない。

 朝の雲はいつの間にかほとんど消え、穏やかな陽気になっていた。アルファ・ロメオに乗って、小学校に行った。車を降りて、はるかを迎えた。友だちに別れを告げ、こちらを振り向くと、むすっとした顔でわたしの横を素通りして、自分で車に乗り込んでしまった。わたしがシートベルトを締め終えると、ぼそっと「ありがとう」と言った。ファーストフードの中でははるかが二番目に好きなモスバーガーに寄って、昼食をすませた。こんな食生活を続けるわけにはいかないことはわかっていた。でも気持ちが言うことをきかなかった。食べ終えても、すぐに家に戻る気にはなれなかった。それに夕方にはまた三上さんを迎えに駅に行かなくてはいけない。時間を潰すために、昨晩駐車場を走り回ったショッピングセンターに行った。はるかはしらけた顔をしていたが、一応手はつないでくれた。はるかの好きなショップに寄っても、これまでのようにわくわくした顔にはなってくれなかった。当たり前だ。

 歩き疲れてベンチで休んでいたら、山脇さんから電話が入った。運転手から話を聞けたということだった。

「写真を見せましたら、間違いなく奥さんは里山中駅から岩山行きの電車に乗ったということです。ただ、運転手には降りた記憶はないそうなんです。途中から一両接続して二両になるし、改札も駅でやるようになりますから、降りた客を一人ひとりはっきり覚えていなくて当然です。夕方で乗客もそれなりにありますしね。少なくとも本人が改札している間は降りていないはずだということでした。まだ防犯カメラの設置も進んでいないので、あとは駅員に当たってみるしかないでしょうな……」

 あの路線は朝夕の通勤・通学時以外は利用客も少なく、特に山の方に入ってからはほとんど空で走ることも多いので、運転手が車掌と改札も兼ねるようになるのだ。路線バスみたいなものだ。降りた可能性のある駅は絞られたが、運転手からはそれ以上の手掛かりは得られなかったらしい。あとは各駅に問い合わせるしかないということだが、無人駅も多く、山脇さんの口調からは、これ以上捜査のようなことを続けるのは難しいという感じが伝わってきた。

「わかりました。山脇さん、ありがとうございました。もう調べていただかなくても結構ですから」

「いや、でも、かなり絞られてきましたしね……」

 山脇さんは警察官としての立場と心意気との間で揺れているらしかった。

「もうこれ以上、山脇さんにご迷惑をかけるわけにはいきませんから」

「うーん、そうですか? しかし時間が経ってしまうとますます捜査が難しくなりますからねぇ」

「それに、書き置きにも、どうか探さないでほしいと書いてありましたから」

「ふーん」脱力したような声で山脇さんが答えた。「わっかりました。太田さんがそうおっしゃるなら、そうします。私の方はできるだけ普段の情報を注意して見ておきましょう」

 丁重に礼を述べて、電話を切った。気持ちだけでもじゅうぶんにありがたかった。

 はるかに山脇さんからの情報を伝えると、「やっぱりね」と言った。

「やっぱりって?」

「お母さんは消えちゃった、ってこと」

「まあ、こういうことは蒸発ともいうけど」

「そうじゃなくて……」

「えっ? そうじゃなくて?」

「もういいや。わかんない。ねえ、ソフトクリームが食べたい」

 はるかは素早く立ち上がると、お目当ての店のある方へさっと駆けて行ってしまった。ふたりの上着やバッグを慌ててまとめて、後を追った。ソフトクリームを食べるとはるかは急に機嫌が良くなって、自分からあれやこれやとわたしを連れ回した。そうこうしているうちに、三上さんと待ち合わせた午後四時が近くなっていた。

 三上さんは翌日も午前中から仕事があるといって、はるみのいなくなってしまったわが家を見て、三人で駅の近くで食事をして、最終の新幹線で慌ただしく帰っていった。わたしたちを見て、思ったより元気で良かったと言い、いつかこんなことになるのではないかと不安に思っていたと打ち明けた。どうしてそんな風に思っていたのかと聞くと、「あまりにも素晴らしい子だったからかな」と三上さんは遠くを見ながら答えた。たぶん、夫のことを想っていたのだろう。三上さんの想いはわたしにもよくわかった。


 それ以来、はるみに関する情報はぱたりと途絶えた。山脇さんはあれからもこっそり可能性のある駅を地道に回ってくれていたのだ。でも、手掛かりはまったくないということだった。失踪とはそういうものなのだろうが、里山中駅での痕跡を考えると山脇さんはどうしても納得がいかないらしかった。わたしも近所の産婦人科などを回ってみたが、はるみは行っていなかった。

 そんなふうにして日が経つにつれ、はるみは本当にいなくなってしまったのだということが、身に沁みてわかってきた。心にぽっかりと穴が開く、という言い回しがあるが、ほんとうに実感としてそうなるのだということを初めて知った。そしてその穴は日に日に大きくなっていくようだった。酒の飲める人間なら酔いどれるところだろうが、何かを忘れるために酒を飲む習慣はなかったし、幸か不幸かそうなれるほど酒に強くなかった。

 アルファ・ロメオの発見された翌々日の土曜日、はるかはわたしたちのベッドの布団カバーやシーツ、そしてはるみのパジャマなどをまとめて洗濯機に入れてしまった。寝室に入って気が付いて、慌てて洗面所に行ったが、もうはるかはスイッチを入れてしまっていた。わたしの焦った様子をはるかは冷たい目で見て、「シーツとかはわたしは干せないから、お父さん、お願い」と言って、その場を去っていった。もちろんはるかの行動に対して何も言うことはできなかった。

 はるかのことを考えて、できるだけ普通に振る舞った。でも、はるみのいない普通なんてよくわからなかった。はるかのいない時はひどい状態だった。たいていは、茶室に籠もってパソコンに入れてあるはるみの写真を飽きずに眺めた。はるかのお陰ではるみの写真はいくら見ても困らないほどたくさんあった。そういう姿ははるかに気付かれないよう気をつけた。一方で目に付くところに飾ってあったはるみの写った写真はすべて片付けた。

 はるかの春休みが終わるとほぼ同時に、わたしも仕事に戻った。学校の送り迎えで外に出る必要があったから、それを機会になんとか生活を立て直そうと思ったのだ。はるかと相談した結果、友だちの親や学校には家庭の事情ではるみは東京の実家に帰っていると話すことにした。

 職場には行ってみたものの、解析用の図を見ていても、論文を読んでいても、いつの間にかぼぉっとしていた。プログラミングだけはどうにか集中してすることができたが、つまらない間違いばかり犯した。それにプログラムを書いているだけでは研究とはいえなかった。二週間ほどすると、なんとか仕事の体をなすようにはなってきた。仕事に集中できる時間が、十五分から三十分、そして一時間程度まで伸びた。でも一度集中が途切れると、なかなか仕事には戻れなかった。大学に行かなければならない日はできるだけ頑張るようにして、研究所では無理をせずに、気分に任せた。山の中の観測サイトには毎回登るようになった。ときには午前と午後と二回行くこともあったし、はるかの作ってくれたお弁当を持って行って食べることもあった。研究所に行く日は、前日の残り物とか冷凍食品とかではあったが、はるかは今までよりも少し早く起きて用意してくれた。礼を言うと、「お父さんもわたしの送り迎えで早く起きたりするんだからおあいこでしょ」と愛想なく答えた。採光園の乾さんは、何年かしたら逆にはるかに面倒を見てもらうようになるかもしれないと言っていた。そのときの想定とはまったく違う状況ではあるが、二年もしないうちにそうなっていた。洗濯や食事の支度など家事は基本的にわたしが担当したが、はるかもかなりの部分を手伝ってくれた。

 はるかの迎えがあったので、職場は早めに切り上げさせてもらって、その分は家で仕事をするようにした。半在宅勤務という感じだった。結果的にはるかと接する時間は以前の何倍にも増えた。はるかは表面的には鬱陶しそうな顔をしていたが、内心は喜んでくれているようだった。機嫌や心の動きもだいぶわかるようになった。どうやら最近、通学路の途中で見掛ける中学生の男の子を好きになったらしいのだが、まったく相手にされていないという話が友だちとの会話から漏れ聞こえてくるのを耳にして、安心したりもした。

 はるかと過ごしていると不思議とはるみのことを考えずにすんだ。でも、はるかに甘えることにならないように常に注意を払った。沢田さんによると、実の母親を亡くしたときには一週間くらい泣き明かしたらしい。今回は少なくともわたしの前では一度も涙を流していなかった。むしろそのことが心配になったほどだった。ただ以前にはなかったような、ぼんやりした顔をしていることが時々あった。ある時、どうしようか少し迷ったが、うつろな顔でソファに座っていたはるかの隣に座ってそっと肩を抱き、「無理しなくていいんだぞ」と声をかけた。するとはるかは黙って頷いた。しばらくして、「春美ママは死んじゃったわけじゃないし、今はお父さんもいてくれるし」と寂しそうな声で言った。「そうだな」とわたしは答えた。その晩わたしは頑張って手作りのハンバーグを作った。われながら上手くできたと思ったのだが、はるかはいつもと変わらない感じで黙々と口に運んだ。「おいしくないか?」と聞いたら、「おいしいよ。でもわたしがいつまでもハンバーグを一番好きだとは思わないでね」とあっさりいなされた。がっかりしているわたしを哀れに思ったのか、「だけど、お父さんのお陰で、わたし、にんじんを好きになったから」と言って、時間をかけてじっくり焼いた添え物のにんじんをぱくっと口に入れ、照れた顔で微笑んでくれた。その笑顔でわたしは報われた。そして親であることの意味が少しだけわかったような気がした。

 森の再生プロジェクトは休ませてもらうことにした。体を動かしていた方がはるみのことを考えずにすむのだが、チェンソーを使わないとしても木を伐採している周りでぼやっとしていると危険だからだ。まだ二年目でようやく今年から本格的に活動を開始するというときだった。事情を知っている佐野教授と成田さんは、作業には参加せず、会議や集会だけにでも参加したらどうかと言ってくれた。中途半端なのでどうしようかと迷ったが、言い出しっぺの一人でもあるし、責任を果たすという意味からもそうさせてもらった。腰を痛めて現場作業ができなくなったと、二人は口裏を合わせてくれた。きこりのおじさんたちからは「これだから都会もんは」と皮肉を言われたが、そこにはトゲはなく、温かみさえ含まれていた。

 心に開いた穴はある程度の大きさになると、それ以上成長するのをやめたようだった。たぶん大きくなり続けると本人がなくなってしまうからなのだろう。あるいは一時的に止まっただけなのかもしれない。仕事でも遊びでも何かに気持ちを集中させているときには忘れられたが、ふと気が抜けたときには穴の大きさが意識を圧迫した。そういうときには目をつぶって逆に穴の方に意識を集めた。不思議と気持ちが楽になった。家の中で、特に茶室でそうしていると、はるみがすぐそばにいるのではないかという気がした。逃避行動なのかもしれなかったが、壊れないためには力を逃すことも必要なのだと考えることにした。


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