第二部 第二章 三 失踪、DNA鑑定

 山の中も、もう春の兆しに満ちていた。

 斜面にはまだ溶けかけては凍ったような雪が残っていたが、地面の下の微生物や植物たちは活動期を前にうずうずしているようだった。そういう匂いで溢れていた。この森の中の研究所にひとりでいると、季節の微妙な変化をはっきりと感じることができた。まるで自分が森と一体になったようで心地よかった。

 上空に寒気が入り込んで夕方から天気が崩れるとの予報だった。はるみの体調のこともあるので、仕事を早めに切り上げようと思っていた。プログラミングを始めると途中でやめにくいので、午後からは論文を読んで過ごした。

 四時半頃、はるかから電話があった。仕事中のこんな時間に連絡してくるなんて今まで一度もないことだった。

「ねえ、お母さんから何か連絡があった?」

 はるかの不安げな声にわたしの心は揺れた。

「いや、別にないけど、どうかした?」

 自分を落ち着かせるつもりで、冷静を装って答えた。

「迎えに来てもらおうと思って電話したんだけど、つながらないの。うちに電話しても誰も出ないし」

 はるみと電話がつながらなくて困ったことはわたしも経験していない。

「運転中で出られないとかいうことは?」

「うーん、たぶん、ない。その時に出られなくてもすぐに電話をくれる。もう何度か電話しているんだけど」

「そうか。はるかは今どこにいる?」

「サトウノリコちゃんの家」

 はるみが毎朝はるかを送っていく、通学路の途中の新興住宅地にある家だった。そこから何人かで学校まで歩いていくのだ。

「じゃあ、今からぼくが迎えに行くから、それまでそこで待たせてもらえるかな」

「うん、大丈夫と思うけど、ノリコちゃんのお母さんがうちまで車で送ってもいいって言ってくれてる」

 この間みたいに寝てしまって電話が聞こえないのだろうか。それとも体調が悪くて起き上がりたくても起き上がれないのだろうか。それならはるかがすぐに帰って救急車を呼んだ方がいい。あるいは、考えたくはないが、事故や犯罪に巻き込まれたのだろうか。交通事故に遭ったとか、誰かが家に押し入ってきたとか。今はその先は考えないようにしよう。その場合ははるかが家に帰るのは危険だ。それに友だちの親まで巻き込むことになる。ただ、これまであの辺でそういう事件が起こったという話は聞いたことがない。しかしだからといって起きないとも限らない。

「そうだな、でも、もう少しそこにいてくれ。ぼくが迎えに行くから。それから、またはるみの携帯と家の方にも電話してみてくれ。それで何かわかったら連絡をくれ」

「うん、わかった」

 自分でもはるみの携帯と自宅に電話してみた。携帯の方は、電波の受け取れないところにいるか電源が入っていない可能性があるとメッセージが流れ、家の方は呼び出し音が空しく鳴り続けるだけだった。

 すぐに研究所を出た。途中で事故でも起こしたらしゃれにもならないので、抑えるところは抑えて飛ばすところは飛ばした。それでも何度かカーブで突っ込みすぎて曲がり損ねそうになった。バイパスに出てからはスピード違反の取り締まりに注意した。捕まったら、事情を話しても許してくれないだろう。そんなことで時間を失いたくなかった。

 佐藤さんの家に着くまで連絡はなかった。わたしのデミオが到着するのを待ち構えていたように、すぐにはるかが飛び出してきた。佐藤さんへのあいさつもそこそこにはるかを車に乗せ、家に向かった。走り出してから、先にひとりで家の様子を見てくればよかったと後悔した。もし犯罪が絡んでいたら、はるかまで危険に晒してしまうかもしれない。それに倒れているのなら一刻も早く帰ってやるべきだった。ほんの僅かな時間の差で助かる命が助からないことだってあるのだ。そんなことはるかとの電話中に考えたはずなのに判断を誤っていた。

「お母さん、どうしたのかな」

「わからない。なんでもないといいけど」

 そう言ってはみたものの、なんでもないとは思えなかった。はるかも何も答えなかった。

 もう暗くなりかけていたが、家の電気は点いていなかった。でも単に寝ているだけかもしれない。ガレージの前に車を停めた。

「はるかはここで待っていてくれ」

「なんで?」

「もし何か危ないことが起きていたら困るから」

「うん、わかった」

 はるかは勇気づけてくれるような強い目でわたしを見て、頷いた。

 車を降り、あらためて家を見上げる。暗い家は夕暮れの森の中に溶けてしまいそうだった。家の中にはるみの体温を感じることはできなかった。玄関までの短い距離を小走りに急いだ。

 玄関には鍵がかかっていた。ドアを開けて中に入ると、しんとしていた。人の気配はなかった。

「ただいま」ことさら大きな声で言ってみた。返事はなかったし、何かが反応した様子もなかった。

 電気を点け、もどかしい思いで靴紐をほどき、家に上がる。台所にも、居間にも誰もいない。二階に上がり、寝室に行ってみる。ベッドは空っぽで整っていた。書斎やはるかの部屋にもいない。三階の茶室にもいない。下に降りて、洗面所や風呂、トイレを覗いてもみた。やはりはるみは家にいなかった。

 ふと食卓を見ると、わたし用に買い足したムーミンのマグカップがぽつんと置いてあるのが目に留まった。その下に長細い紙が敷かれていた。どうやらカップは文鎮の代わりらしかった。

 折り目正しく三つ折りにされた便せんだった。薄い紙に文字が透けていた。はるみの文字のようだった。マグカップをどけて、恐る恐る手に取った。ひとつ目の折り目を開けると、「突然、」と「もう、」「どうか、」という青いボールペンの字が目に飛び込んできた。いい知らせとは思えなかった。覚悟を決めて、もう一つの折り目を開けた。

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 突然、記憶が戻ってきました。

 もう、貴文さんと遥の前にはいられません。

 どうか、探さないでください。

                  春美

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 はるみらしい大きな字で二行おきに書かれたその書き置きを、何度も読み返した。それでも書かれている中身は変わらなかった。

 想像していたのとはまったく違う事態らしかった。

 記憶が戻って、はるみは家を出て行った。そういうことらしかった。

 頭から血の気がひいた。体中から嫌な汗が噴き出してきた。喉がからからだった。

「はるみ」と声を絞り出した。膝から力が抜け、崩れ落ちてしまいそうだった。椅子を引いて腰を落とした。

「はるか」今度は車の中で心配しているはるかの顔が浮かんだ。

 テーブルに手をついて力の入らない脚で立ち上がった。畳み直した便せんをご託宣のように大切に持ち、サンダルに足を入れ、ふらつく足取りではるかの待つ車に向かった。

 雲が出て来たらしく、外はさきほどよりもずっと暗さを増していた。車の窓からはるかがこちらを見ていた。笑いかけようとしたが無理だった。顔が歪んだだけだった。

 はるかが車から降りてきた。何か悪いことが起きたのはわかったようだった。表情がわずかに揺れていた。

「どうしたの? お父さん、大丈夫?」

「はるみが出て行った」

 はるかは不安な目をして首を傾げた。しわがれた声のせいで聞き取れなかったのかもしれない。便せんを差し出した。奪うように受け取ると、はるかは真剣な表情で書き置きを見た。

「なに、これ?」はるかはわたしを睨みつけた。怒ったような口調だった。広げたままの便せんを突き戻した。

「わからない」それがわたしにできる精一杯の答えだった。

「なんで、記憶が戻ったら、わたしたちの前にいられないの?」

 はるかの声はわずかに震えていた。

「わからない。とにかく、家に入ろう」

 はるかは、考え込んだような、怒りを含んだ目で、自分の肩に手を掛けたわたしを見上げた。目を逸らし、わたしの手を振り払うようにくるっと振り向いて車に向かった。こんな時でさえ、軽やかな動きだった。わたしははるかの行動をぼぉっと突っ立ったまま見守った。ランドセルを肩に掛けながらはるかが戻って来た。

「まだガレージの中は見てないから」

 冷たく言い残して、はるかはひとり家の中に入ってしまった。

 玄関のドアが閉まるのを見届けてから車に戻った。運転席のドアはロックされていた。危険があるかもしれないと言ったから、ちゃんと自分でロックしたのだ。助手席側から運転席のドアのロックを解除した。それから意味もなく運転席に座り、再び家を見た。そしてシャッターの閉じられたガレージを見た。

 ガレージのリモコンのボタンを押した。がらがらと音を立てて、シャッターが開いた。アルファ・ロメオはなかった。もう一度リモコンを操作した。同じような音を立ててシャッターが下がった。降りきって地面に当たるとガシャンとシャッターが震えた。ハンドルに額をつけて、大きくため息をついた。また出掛けることになると思い、デミオはガレージに入れずにおいた。

 玄関には小さなピンク色のスニーカーが乱暴に脱ぎ捨てられていた。揃えて置き直した。片方が倒れていたオイルドレザーの短靴をその横に揃えた。寄り添うように置かれた大小二足の靴は、世界の片隅で肩を寄せ合う父と娘の化身のように見えた。

 はるかは薪ストーブの前のクッションに座って膝を抱え込んでいた。自分で火を起こしていた。近づいて隣にしゃがむと小さく震えているのがわかった。寒さのせいではないようだった。泣いてもいなかった。ただぼんやりと燃え残りの薪が燃え始めるのを見ていた。掛けるべき言葉は何も思いつかなかった。

 諦めて立ち上がり、少し皺の寄ってしまったはるみの書き置きをテーブルの上で丁寧に伸ばした。

 一字一字、心をこめて書かれたように見えた。一方で文面からは切迫感が感じられた。

 一体、どんな記憶が戻ってきたというのだろう。わたしたちの前にいられなくなるという記憶。わたしが想像していたのとはまったく違う種類の記憶だったのだろうか。どうして何も教えてくれないままいなくなってしまったのだろう。たとえどんな記憶であれ、話してくれると信じていたのに。いや、はるみのことだからどうしても話せない事情があったはずだ。そうとしか思えなかった。

 顔を上げて、キッチンからダイニング、そしてリビングと、ゆっくり家の中を見渡した。家から生命が抜けてしまったようだった。まるで葬式が終わったあとの家のように寒々としていた。

 はるみは出て行ってしまったのだ。それは現実のことなのだ。そうはっきりと感じた。そのとたん寒気を感じ、体が震え出した。はるかはもうさっきからそのことを実感していたのかもしれない。はるみの笑顔が脳裏に浮かんだ。名前を叫びたくなったが、拳を握り締め我慢した。

 大きく息を吸い込み、吐き出した。

 ふと思い立って台所に立ち、わたしはココアを作り始めた。すぐにでもはるみを探しに行きたい気持ちだったが、まずは心を落ち着けようと思った。このまま車を運転したら、事故を起こしそうな気がした。はるかを巻き添えにするわけにはいかない。

 さらさらとしたココアパウダーは、手の震えのせいで正確に量ることはできなかった。それでもおよそ二人分のココアパウダーと、砂糖と少量の牛乳を鍋に入れ、弱火のコンロに掛けて、柔らかいヘラで練り合わせた。その作業に集中していると徐々に手の震えは収まってきた。でも寒気みたいなものは消えなかった。

 ダマがなくなったところで、二杯分の牛乳を加えつつゆっくりと混ぜ合わせた。ココア色に変わっていく牛乳を見ながら、どうするべきか考えた。探さないでくれと書いてあったが、そんなことはできそうになかった。でも探す当てはなかった。とりあえず、三上さんに連絡しようと思った。

 ココアの甘い香りが鼻をくすぐった。鍋の周辺が小さく泡立ってきたので、何度か大きくかき回した。それでもすぐに泡立つようになったので、火を止めた。はるかと自分のカップに注いで、鍋に水を入れた。ふたつのカップを持って、薪ストーブの前に行った。

「ほら、温かいココア」

 少ししゃがんではるかにカップを差し出した。はるかは表情のない顔でわたしを見上げ、少し躊躇してからカップを受け取った。

「ありがとう」

 消え入るような声だった。

 抱え込むようにカップを持ってココアをすするはるかの横に腰を下ろした。はるかはまだ震え続けていた。

 はるかと同じようにココアをすすりながら、薪ストーブの中の炎を眺めた。ココアを飲んでも、ストーブの前に座っても寒気は消えなかった。わたしの体もまた小さく震え続けた。

 あれからはるかは新しい薪をくべていた。その薪に炎が巻き付いていた。ストーブの炎を見つめていると、少しはましな気分になった。

 どうして人は、薪の燃える、揺らめく炎を見ていると落ち着くのだろう。たぶん原始時代の遠い記憶なのだろう。恐ろしい獣たちや寒さから身を守ってくれる炎。そういう記憶が遺伝子にインプットされているに違いない。ろうそくの炎では頼りないし、ガスの炎を見ても安心した気分にはならない。火事を見たら恐怖を感じる。人間によって制御された、薪の燃える炎でなければ駄目なのだ。

「ココアだけはお父さんの作ってくれたのがおいしい」

 はるかは炎を見つめたままそう言って、また口を閉ざした。

 どう答えていいのかわからなかった。まるではるみがいなくなったことをすでに受け入れてしまったようにも聞こえた。

「とりあえず、三上さんに電話してみるよ」

「うん」力のない声ではるかが答えた。

「警察にも行ってみよう」

 はるかは小さく頷いた。

「自分たちでも探してみよう」

 それには答えずにはるかはわたしを見た。その目には哀れみの色が浮かんでいるように見えた。

「ねえ、お母さん、見つかると思う?」

「どうだろう。でも探さなければ、見つかるものも見つからない」

 はるかはまた炎に視線を戻していた。新しい薪も燃え始めていた。

「お母さんは、探さないでください、って書いてる」

「そうだな。でもぼくははるみにもう一度会いたい。どういう記憶が戻ってきたのか知りたい。はるみをこのまま失ってしまうのは嫌だ」

 はるかは再びわたしを見た。今度は何かを考えているような瞳をしていた。まるでわたしの目の中にその答えを探しているようだった。

「ねえ、お父さんとお母さんって、ほとんど毎日セックスしていたんでしょう?」

「えっ?」

 びっくりしてはるかを見た。はるかはわたしの目を捉えて離さなかった。

「別に隠さなくてもいいよ。ときどき声とか聞こえてきたし、お母さんもそんなようなこと言ってた。それに全然いやな感じはしなかった。ああ、愛し合っているんだな、って感じ」

「そ、そ、そうか」

 そんなことを面と向かって言われると、こんな状況とはいえ、どんな顔をしていいか困ってしまう。

「はるみは君にいったいどんなこと言ってたの?」

「ほら、わたしとお母さんって、半分姉妹みたいじゃない。だから、そういうこともわりと話すの。『昨日したの』ってわたしが聞くと、お母さんも『うん、した。すごく気持ちよかった』とか、『したけど、昨日はお父さん、ちょっと疲れていたみたい』とか、そんな感じ。最初はお母さんの声が聞こえた次の日に興味本位で聞いたんだけど、そのうち、それが日課のようになっちゃって」

「そうなのか」

 呆気にとられた。たしかにはるみは時折、はるかに聞こえてしまうのではないかという声を上げることがあった。でもそれは一瞬だったし、大丈夫だろうと思っていた。

「沢田さんの家にお世話になっているとき、たまに二人がするのが延々と聞こえてきて、すっごくイヤだったんだ。セックスってなんか気持ち悪いって思ってた。でも、お父さんとお母さんのは、お母さんがとってもしあわせそうで、ああ、セックスって本当はいいものなんだ、って思えるようになった」

「そ、そう。でも、まだ、はるかには早いよ」

 こういう話をオープンにする人が誰かいたなと思ったら、それは森野さんだった。母娘というのはそんなところまで似てくるものなのか。

「わかってるよ、そんなこと」はるかはストーブに視線を移し、ぶっきらぼうに答えた。それからカップを床に置いて、わたしの方に向き直った。

「わたしだけじゃ、駄目なの? わたしとは血のつながりのない親子だから?」

「ちょっと待って。まだ君とぼくが本当の親子かもしれない可能性は残っているんだ」

「違うよ」

「違う? どうしてそんなことわかる。少なくとも血液型では親子の可能性はあるんだ」

「でも違う。だってDNA鑑定の結果は、お父さんとわたしが生物学的につながっていないことを示していたから」

「ちょっと、それ、どういうことだ? だってまだDNA鑑定はしていないじゃないか」

 DNA親子鑑定をしてみようという話さえまだ持ち出せずにいた。そもそも、もうしなくてもいいんじゃないかと思い始めていた。

「お父さんとはね」

「じゃあ、なんでそんなことが言えるんだ。えっ? ぼくとは? じゃあ、別の男とDNA鑑定をして、その人が父親だったってこと?」

「そうじゃない。お母さんとの間でしたの」

「森野さんと? それでどうしてぼくと親子じゃないってわかるんだ?」

「だって、木乃香ママとわたしのDNAはほとんど同じだったんだもん」

「同じ? DNAが同じ? いくらなんでも母と娘で同じってことはないだろう? 同じなのは一卵性双生児の場合だけのはずだ」

 あれからときどきDNA鑑定について調べていた。ちゃんと知ろうとすると結構難しい話で、完全にとはいかなかったが、大まかには理解していた。はるかの出生届が遅くなったせいで、裁判所か何かからそういったものを求められたのではないかもしれない。

「親子であることを確認しただけじゃないの?」

「そのために調べたってお母さんは言ってた。DNAがほとんど同じだから間違いなくお母さん〝だけ〟の子だって言ってた」

「いや、でも、そんなはずは……」

 お母さんだけの子。ほとんどクローンということか。それではるかが森野さんの幼少期とあまりに似ていることの説明もつく。だとすれば父親はいないという森野さんの言い分はほんとうに本当のことなのだ。

「ちょっと前にDNA鑑定について調べてみたけど、難しくてなんとなくしかわからなかった」はるかはわたしを見つめながら言った。「でもお父さんと暮らすようになって、ようやく意味がわかった」

「意味?」

「お父さんとは血がつながっていないってこと。わたしにはお父さんの遺伝子が入っていないっていうこと」

 はるかの顔に表情はほとんど見て取れなかったが、微かに笑っているようにも見えた。

 なんでこんなときに言い出すのかと思った。自分でも確信は一層深まっていたが、こうやって証拠を突きつけられるとショックだった。

「でもお父さんはお父さん」はるかが静かに言った。「お父さんがわたしを娘と思ってくれている限り、お父さんはわたしのたったひとりのお父さんだから。それに変かもしれないけど、それでもほんとうのお父さんみたく感じる」

 ふっと微笑んで、はるかは視線を薪ストーブに戻した。

 さっき投入した薪はすでに炎と一体になっていた。涙が込み上げてきて、炎がぼやけた。

「ああ、そうだ。君はぼくの娘で、ぼくは君の父親だ」

 恥ずかしいと感じるほど自分の声が震えていた。

 抱き締めようとしたとたん、はるかが口を開いた。

「わたしはお母さんを探さないことにした」

 すっきりとした声だった。

 驚いて涙が引っ込んだ。はるかの方に伸びかけた手が宙に浮いた。

 はるかはもう震えていなかった。目には光が戻っていた。

 はるみが出て行ったという現実に引き戻された。ほんの短い間、激痛を、別の痛みと短い喜びで忘れていたようなものだった。そして予想外のはるかの決断にうろたえた。

「どうして」

 今度は声がうわずった。

「お母さんが探さないでくれって言っているから」

「だけどそれは……」

「それは、なに?」

「それは……はるみが残されたぼくたちのことを気遣って、そう書いたのかもしれない。自分を探して人生を無駄にしないように、って」

 なんだか、森野さんと話をしているような気がした。バスに乗りそびれたあのときもこんな感じだった。

「わたしもそうだと思う」

「じゃあ、なんで探さないんだ? 無駄になるかどうかなんて、探してみなければわからないじゃないか」

「お父さんもわかっているんでしょう?」

「なにをだ?」

 いけないと思ったが、つい乱暴な口調になっていた。すぐに「ごめん」と謝った。はるかは平静な顔でいた。

「お母さんがわたしたちの前にいられないと言ったら、本当にいられないってこと。探さないでくださいってことは、探しても見つからないってこと」

「いや、でも……」

「それでもお父さんが探したいなら探せばいいよ。ときどきだったらわたしも手伝ってあげる」

 はるみを探すという行為は単なる気休めにすぎない。そう指摘されたようだった。

 はるかは薪ストーブの扉を開け、薪の位置を調整してから、薪を追加した。少し火の勢いが弱まって、炉の中が暗くなった。やがて炎は勢いを取り戻し、新鮮な薪を取り巻き始めた。しばらくするとまるで命でも宿ったかのように薪から炎が噴き出した。

「春美ママはお父さんにとって、ほんとうに特別なひとなんでしょう?」はるかの声は嬉しさの中に悲しみを湛えたような複雑な響きだった。

「えっ?」

 ぎくりとした。少なくとも普通の父親並みにはるかを愛している自信はあった。でも、はるみはまったく違う存在だった。それは否定できなかった。

「わたしだってお父さんから春美ママの分まで愛情を注がれたら困っちゃうもん。それじゃ彼氏だってできないし、結婚だってできなくなっちゃうし」

 はるかは微笑んでいた。わたしが答えに窮した意味もわかっているようだった。

「いいよ。わたし、お父さんのそういう正直なところ、好きだから」

「ごめん」

「謝ることなんてないよ。お父さんがわたしのことを大事に思ってくれているのはわかってる。友だちにだって負けてないよ。わたしは父親がいなかったから、迷惑かなと思いながらも土曜日とか日曜日にいろんな友だちの家に遊びに行って夫婦とか父親とかいうものを観察したりしてた。でも、友だちの親とくらべてみても、お父さんとお母さんは全然違う感じだった」

 雨が地面を打つ音が聞こえ始めた。やがてそれはすぐに激しいビートを打ち始め、遠くで雷が鳴るのも聞こえてきた。

「降って来ちゃったね」

 はるかは立ち上がって、窓のところ行った。立ち上がれずにいるわたしの方を振り向いて、言った。

「お母さんは車で出掛けたのかな?」

「ああ。アルファ・ロメオはなかった」

「そうか。じゃあ、濡れてないよね」

「そうだな」

 そのまましばらくはるかは黙って窓の外を眺めていた。ついこの間まではどこかはかなげだったその姿は、もう力強さを感じるほどにまでなっていた。

「わたしね、ずっと悩んでたんだ」

 はるかは窓に向かってそう言ってから、くるっとわたしの方を向いた。

「わたしは本当に父親のいない変な子なんじゃないかな、って。もちろんお父さんはお父さんだけど、そうじゃなくて、生まれてくるときのはなし」

 わたしは頷いた。

「ねえ、お父さんは何か知っているんでしょう? あの手紙に何が書いてあったの? もちろん、話せないことならいいんだけど」

 どうもわたしの人生というやつは、何かが起こるときには一度にいくつものことがまとめて起こる傾向があるらしい。こんな状況であの手紙のことを聞かれるとは思わなかった。十五、六歳くらいになってからと思っていたが、はるかはもういろいろなことがわかっていた。そしてはるみはもういない。話すべき時が来たのかもしれない。

「そうだな。君にだけなら話すことができる」

「わたしにだけ? じゃあ、春美ママは知らないの?」

「ああ、しらない」

「ふぅん、そんなこともあるんだ」

 わたしはようやく立ち上がり、はるかの傍に行った。二人で窓の外を眺めた。雨は地面に打ち付けていた。はるかの肩をそっと抱き寄せた。

「でも、その話はあとでいいかな。まず三上さんに電話をして、それから無駄かもしれないけど、とにかくはるみを探しに行きたい」

「うん、わかった。じゃあ、わたしもお母さんを探すのに付き合うから、その時に聞かせてくれる?」

 はるかを見た。なんか普通に微笑んでいた。ずっと胸に溜めていたものを、こんな時でもなければ吐き出せなかったのかもしれない。わたしははるかの黒い髪をそっと撫で、小さく頷いた。


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