第一部 第一章 三 チーズハンバーグといちごパフェ

 会議の準備なんかでこの数日忙しかったから、食材も、作り置きしていた料理も、ほとんど底をついていた。レトルトカレーと冷凍ご飯くらいならあったが、それではなんだか森野さんに申し訳ない気がした。

「ご飯を食べに行こうか」

 少女はもじもじして返事をしなかった。

「はるかちゃんは何が好きなの?」

「ハンバーグ」

 少し躊躇してから、ちょっと恥ずかしそうに答えた。

 少女は写真を大事そうにランドセルに戻し、わたしは休日用の片持ちリュックに例の手紙とペーパーナイフを入れた。電気を消して、家を出た。エレベーターを待つ間も、エレベータに乗っている間も、二人とも無言だった。少女のつややかな髪をちらちらと見下ろしながら、自分の子どもなのだろうかと考えていた。

 何も話さないまま、時々行く近くの洋食屋に到着した。考えごとをしていたせいで、目の前に来るまで気がつかなかったが、電気は消え、準備中の札が下がっていた。あいにくその日は臨時休業日だった。張り紙がしてあった。この週末に従業員と家族とで旅行に行くとひと月ほど前に聞いていたが、すっかり忘れていた。ここなら素材もきちんと選んだものを使っていたし、味も悪くなかったし、デザートも結構おいしかったのに。それにハンバーグとかオムライスとか子どもの好きそうなメニューも多かった。

「ごめん、今日は休みだった」

「うん」

「ファミリーレストランでもいいかな?」

「はい」

 少女はにこりとして、それから控えめに手を伸ばし、わたしの手にそっと触れた。手をつないでほしいという合図らしかった。わたしは馬鹿みたいに辺りをきょろきょろと見回し、ズボンで掌を軽くこすってから少女の手を握った。小さくて、柔らかくて、温かかった。少女はわたしを見上げて、満足げな笑みを浮かべた。間違いなく森野さんの娘だった。

 街道沿いのファミリーレストランまではさらにもうすこし歩かなければならなかった。昼間はまだだいぶ暑かったが、陽が沈んでからは肌寒く感じるほどで、散歩をするのには悪くない夜だった。


 まばゆい半月がくすんだ夜空を照らしていた。


 普段なら五分程度の距離だが、少女が一緒だったので、ゆっくりと歩いた。少女はわたしの方は見ずに前を向いて歩いていた。おなかがすいているうえにずいぶん歩かされているのにもかかわらず、その表情はどこか楽しげで、足取りも軽かった。さいわい店はさほど混んでおらず、落ち着ける席を、と希望すると、ほとんど待たずに奥の席に案内された。

「遠慮なく好きなものを頼んでいいからね」

 少女はわたしの目をじっと見たあとで、気恥ずかしそうにこくりとうなずいた。ちょっとだけ迷って少女はチーズハンバーグを選び、わたしはさすがにあまり食欲がなかったのと考えるのが面倒だったので、スパゲティ・ミートソースと食後のコーヒーを頼んだ。ジュースか何か頼むか訊くと、首を横に振った。デザートはあとで選ぼうか、というと、少女は子どもらしい笑顔でにこりとした。ウエイトレスが行ったあとで、「ご飯のときに、ジュースを飲んじゃいけないっていわれてる」とひとりごとのようにいった。母親に言われていたのか、沢田さんに言われているのかわからなかったが、訊かずにおいた。

 ここに来るまでの間、もう一つの手紙をどうするかぼんやりと考えていた。

 読まなければ、たぶん、これ以上、何も起こらない。森野さんが亡くなって、〝友だち〟であるわたしをその娘が訪ねてきた。一晩預かって気持ちを落ち着かせて、面倒を見てくれている弁護士の沢田さんに明日の朝、引き渡す。そして少女は孤児院かどこかに入る。この少女ならそれでもまっとうに生きていけそうだった。たぶん沢田さんも後ろ盾になるはずだ。

 もし自分が父親だとしたら?

 最初の手紙を読む限りはそういう感じはしなかった。でも気を遣ってそういうふうに書いたのかもしれない。少なくとも、もう一つの手紙をわたしに読んでもらいたいと思っているのは確かだった。そもそもわたしは森野さんが妊娠できなくなった理由を正確には知らない。夫から受けた暴力が原因で流産して、それでそうなったのかと思っていたが、それだけで妊娠が不可能になるものなのだろうか。あのときはそんなことを疑問にも思わなかったし、詳しく訊くような状況でもなかった。でもいまこうして目の前に森野さんの娘がいるのだ。森野さんが自分の子どもを出産したことは紛れもない事実だった。

 ではもし父親だったら、自分はどうするのだろう。

 引き取って、育てる?

 まさか。

 森野さんの友だちとして、沢田さんと協力して、見守る。

 それならありかもしれない。

 でも成長して、わたしが父親ではないかと疑うようになったら?

 それは困る。わたしだって、今後、結婚したりすることがあるかもしれない。家庭を築き上げたところで、隠し子がでてきたら、面倒なことになるに決まっている。

 手紙を永久に封印してこれ以上かかわらないようにするのが、いちばん妥当な選択に思えた。

 でもだったら、さっき沢田さんに来てもらえばよかったのだ。

 では、もう新しい一歩を踏み出してしまったのか?

 いや、まだ間に合うはずだ。

 だけどもしわたしが父親でないのだとしたら、なぜ森野さんは娘にわたしのところに来るようにいったのか。あの晩聞いた森野さんの半生を思い出す限り話してやりさえすればそれでいいのだろうか。ほかに何かできることがあるのだろうか。いろいろな可能性が疲れた頭の中をくるくると空回りするばかりで、結論は出そうになかった。

 少女は顔を伏せ、小さな背中をまるめて、氷水の入ったグラスを少しずつ回しながら、表面の露をいじっていた。ほのかに見える顔はさきほどまでとは打って変わって、表情がなかった。自分の置かれた状況をあきらめているように見えたが、達観しているように見えなくもなかった。

 何も考えずただその姿を眺めていたら、あっけないほど簡単に心が決まった。見通しの悪いきつい坂道を登り切ったら、突然目の前に輝く海がひろがっていた、そんな感じだった。よし。今晩、この子を寝かせたら、手紙を読んでみよう。どうするか考えるのは、それからだ。

 そうと決めたら、急に腹が減ってきた。昨日も今日も忙しくて、米が白く輝くだけのコンビニのおにぎりとか油脂たっぷりの大学生協のサンドイッチとかそんなものばかりで、ちゃんとした食事をしていなかった。テーブルの上のボタンを押して店員を呼び、ちゃんとした食事かどうかは別としてチーズハンバーグをもう一つ注文した。半分驚いたような、半分面白がっているような、そんな目で少女はわたしを見た。でもそれもほんのわずかな間で、またすぐに表情は曇った。

 沢田さんとの電話での会話から、母親の話をしてほしいらしいことは分かった。多少編集は必要だが、思い出すだけ話すことは構わない。でもそれは食事のあとにしよう。ところがそれ以外、この少女と何を話したらいいのかわからなかった。こちらとしても訊きたいことはいくらでもあったが、下手なことを訊けば心の傷を開いてしまいそうで怖かった。それに訊かれたくないことを訊かれても困る。むこうだって、訊きたいことは山ほどあるにちがいない。

「そうだ、デザートはなににしようか?」

 食事が運ばれてくる前の気まずい時間をやり過ごすために、少女にメニューを差し出し、自分も広げた。

 少女は食事を選ぶときよりもずっと熱心に検討しているようだった。種類が割に多いとはいえ、それでもずいぶんと長い時間メニューを見ていた。メニューを立てるようにしていたから、顔は見えなかった。

「選べないんだったら、二つでも三つでも頼んでいいよ。残ったら、おじさんが食べてもいいし」

 あまり長いこと見ているので、どれか選べないのか、あるいは値段でも気にしているのではないかと思ったのだ。

 少女はメニューを閉じ、顔を上げた。思い詰めたような面持ちだった。

「ひとつだけ、きいてもいいですか?」

 声の調子は控えめだったが、決意を秘めたまなざしは強かった。あきらかにデザートの話ではなかった。

「うん、いいよ」

 さすがになんでも訊いていいとまでは言えない。

「おじさんは、お母さんとはどんなともだちだったんですか?」

 どんなともだち、か。いい質問だ。答えるのは難しかった。適当に答えるわけにもいかない。それにあまり考え込むのもまずい。

「そうだな」

 少し間を置いて、時間を稼いだ。

「まあ、研究者仲間というのかな。いや、そういう感じでもないかな。一時期とても親しかったんだけど、あまり長い間つきあいがあったわけじゃないんだ。でも、なんというか、わりと気が合ったっていうか。ほら、お母さんはおしゃべりが好きじゃなかった? つきあいは短かったけど、お母さんから話をいっぱい聞かされたよ。さっき電話で言っていただろう? だから、お母さんのことはわりとよく知っている方だと思う。そう、それからおじさんはお母さんのことが好きになって告白したけど、あっさり振られたんだ。そしてそれから一度も会っていない」

 言葉を選びながらゆっくりとだが、途中で質問をされることを恐れ、途切れることなく話しきった。嘘をつきかけたが、やはりそれはできなかった。だからといってほんとうのことを語ったともいえなかった。

「ふうん」

 どのような答えを期待していたのか少女の表情から読み取ることはできなかった。実はわたしがきみの父親だよ、という言葉を期待していたふうでもなかった。しばらく正直さを測るような無表情な目でわたしをじっと見ていたが、やがて伏せ、グラスの結露へと戻っていった。グラスの底の周囲には水がずいぶんたまっていた。でもなにかを思い出したようにすぐに顔をあげた。

「あ、そうだ、バニラアイスでお願いします」

 丁寧だが素っ気ない口調だった。

「えっ、ああ、わかった」

 そんなものでいいのかと訊こうと思ったが、そういう雰囲気でもなさそうだった。

 救いになったのかどうか、すぐに少女のチーズハンバーグのセットとわたしのミートソースが運ばれてきた。鉄板の上でちりちりと音を立てるハンバーグの焼けた匂いが食欲を刺激した。ウェイトレスがミートソースの皿を置くとき、少女の目がちらりとそれを追うのを見逃さなかった。

「すみません、デザートにバニラアイスをふたつ。それから、パスタの取り分け用のお皿をお願いします」

 少女に笑いかけると、一瞬苦虫を噛みつぶしたような顔をしたが、照れ隠しのようにも見えた。

「さあ、食べようか」と言うと、少女は気を取り直して、「はい」と元気な笑顔を見せた。

 ふたりで「いただきます」と小さく言った。少女はちょこっとおじぎをした。それから、もう我慢できないという感じでフォークとナイフを手に取り、ハンバーグを小さく切ると、何度かふうふうと息を吹きかけて少し冷ました。直前に小さくわたしに笑いかけ、それから口に入れた。それでもまだかなり熱かったらしく、顔をしかめながら口の中でしばらく転がしてようやく噛むことができたようだった。

 わたしは皿が来るのを待って、手を付けなかった。少女は一口目をようやく飲み込むとそれに気づいて、「おじさんは食べないの?」と訊いた。まもなくウェイトレスが皿を持ってきてくれたので、質問には答えず、スパゲティを三分の一くらい取り分けて、少女に差し出した。肩をすくめてちょっと照れくさそうにしていたが、「ありがとう」と素直に受け取ってくれたので、ほっとした。それに、すごくうれしそうな顔を見せてくれた。

 一口食べたら、ものすごい空腹感が襲ってきた。わたしはあっという間に自分の皿を平らげた。少女も相当腹を減らしていたらしく、そんなことには気づかず、ハンバーグやらライスやらポテトやらを夢中で口に運んでいた。朝か昼からほとんど何も食べていなかったのかもしれない。でもにんじんは嫌いらしく、ほとんど手を付けていなかった。たしかにまあ、こういうところのにんじんはおいしくない。

 わたしのチーズハンバーグが運ばれてくると、ようやく顔を上げて、にこりとした。熱いから気をつけてね、と言った。「うん、気をつけるよ。ありがとう」と素直に応じた。少女と同じように息を吹きかけて冷ましてから口に入れた。それでもまだ結構熱かったから、ちょっと芝居がかった感じでホフホフとしながら少女と同じように口の中を転がした。少女はおもしろそうに笑った。ファミリーレストランのハンバーグだから当たり障りのない濃いめの味だったけれども、なんだかずいぶんおいしく感じられた。

 とにもかくにも腹が満たされると、気持ちもゆるんだ。それは少女も同じらしかった。まなざしが柔らかくなっていた。

「ねえ、デザートはほんとうにバニラアイスでよかったの? いちごパフェとかもあったけど」

 思いつきで聞いてみた。少女は驚いたような顔をしたが、すぐにその表情を消した。何も言わなかった。

 ふたたびテーブルのボタンを押して、ウエイトレスを呼び、いちごパフェを注文した。その間少女はきまりの悪い顔をしていた。でも店員がいなくなると、きらきらと顔を輝かせた。

「ねえ、おじさん、どうしてわかったの? はるか、いちごが好きなんだ」

 少女は弾けるように言って、ちょこんと座り直した。いままででいちばん好意的な目でわたしを見た。

「いや、ただ、なんとなくね」

 ほとんど何も考えていなかった。ただ当てずっぽうに言ってみただけなのだ。いちごパフェが好きな女の子なんて珍しくないだけなのかもしれない。

 そういえば、あの晩もそんな感じだった。会ったばかりだったけれども、突然気分が塞いだようになった森野さんが少しでも明るい気持ちになってくれればと、思いつきでいろいろやってみたのだ。手紙の感じではどうやら多少は役に立ったらしかった。だから娘が辛いと感じたときにはわたしのところに行くように言ったのだろうか。自分と同じように、娘にもポジティブな効果があると考えたのだろうか。でも手紙を読む限り、どうもそんな単純なことではなさそうだった。わたしは二杯目のバニラアイスを食べながら、少女が無心にイチゴや生クリームを口に入れるのをときどき眺めた。

 少女は半分くらいまでは結構なペースで食べていたが、だんだんと遅くなっていた。お腹がいっぱいになってきたのだろうとくらいに思っていた。まぶたが重くなっていることに気づいたときには遅かった。すぐに眠り込んでしまったようで、「ねえ」と声をかけても、テーブルに置かれた手を軽く叩いてみても、目を覚ます気配はなかった。

 迂闊だった。もう九時半を回っている。帰宅したときも座ったまま熟睡していたのだ。あれだけ食べて眠くならないはずはなかった。このままだとパフェのグラスを倒してしまいそうだったので、急いで横に行って、スプーンを手からはずし、それから揺り起こした。

「はるかちゃん、起きて。帰るよ」

 そう声をかけると、ようやく半分目を開けた。

「あ、おじさん。はるか、眠い」

「ああ、わかってる。さあ、急いで帰ろう」

「うん」と答えたものの、また目を閉じている。子どもがこうなってしまったときはもう無理かもしれない。タクシーを拾うかと思いながら、ほとんど眠っている少女にランドセルを背負わせ、自分のリュックは前にかけた。

「ほら、おんぶするから」と言うと、半分眠った状態にもかかわらず、こくりとうなずき、ちゃんとわたしの背に乗っかってきた。思っていたよりもずっと軽かった。おぶったままなんとかレジで支払いを済ませると、何度かテーブルにやってきた若い女性店員は好意的な笑顔をくれ、出入り口にまわってきて親切にドアも開けてくれた。

 外に出て礼を述べると、「かわいらしい娘さんですね」と言われた。どういうわけか少しうれしかった。試しに「父親に似たのかな?」と訊いてみようかなとも思ったが、少女が聞いていないとも限らないのでやめておいた。


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