ミルドタウンでは宗教というものを慎重にあつかう。爆発物として。

 少ない人口で国籍は多岐に渡っている、この街にとってそれはナイーブな問題なのだ。

 でもクリスマスになると町は「それとこれとは話が別」という雰囲気になった。夕方、ミモリのアパートに戻ると、どこかの部屋からクリスマスソングが聴こえてきた。

 ダンスフロアに似た緑色のリノリウムの床に人の影が伸びる。

 部屋のドアを開けて、隣人のマーシャが現れた。


「お帰りなさい、ギー」

「マーシャ、ミモリの様子は?」

「薬のおかげで熱は落ち着いた。食べる元気はあまり無いみたいね」

「それはいつもだけど、いろいろありがとう。今日はもういいよ、感染したら大変だ」

「あなたもね」

「俺は風邪を引かないようになってるんだ。そういう設計」

「冗談を言ってる場合じゃないわよ。ギー、食事は? まだでしょう? 後で何かもっていくわ」

「おかまいなく」


 マーシャは、ばたんと音をたてて、隣の部屋に入っていった。

 この街の人間は、誰も俺の言うことなんか聞いちゃいない。

 彼の寝室は埃のにおいがする。

 ミモリがためこんでいる本の山のせいだ。寝室には本とベッドしかない。もうひとつある部屋には本しかない。

 しかも本棚が有効に使われているかというとそうでもなく、できる限り乱雑に収納されている。表紙が折れ曲がってもお構いなし。

 地球上すべての図書館職員の敵、ミモリはベッドの上でしずかに寝息をたてていた。

 まるで子どもみたいな顔だ。

 汗のういた白い額に、薄い茶色の髪がはりついている。

 ドアの開く気配に気がつき、ミモリは目を覚ましたようだった。


「おかえり。ギー……どうしても行かないといけない仕事があったんだ」


 体を起こそうとしたとたん、ひどい咳がでた。

 瞳も熱のせいで潤んでいる。


「寝てろよ、終わったから」

「ありがとう。君なら、うん。気がついてくれると思った」


 俺はベッドの脇に床にじかに座り、住宅地のラクガキ、それにリースのことについて話をした。

 ミモリは目を閉じたままじっと聞いていた。


「レスは納得してくれた?」と、ミモリ。「彼だと思ってたんだ。ずっと僕のことを見ていたしね」

「さあ……どうだろうな。わからないよ。俺には。あんなリースひとつで、そこまでする意味がわからない」

「《笑ってさよならしましょう》……」

「ん?」

「黄色の、小輪の薔薇の花言葉の意味だよ」


「ふうん」と俺は感心してみせた。


 レスの最後の言葉の意味がわかった。彼は、彼女の面影を探し、セシルが言えなかった別れの言葉を見つけたのだ。どんな気持ちだっただろう? ひどく残酷な、中途半端な気持ちだったに違いない。セシルの別れにレスは答えられない。もう二度と。それとも……でもそれは俺にとって無関係な人間の話だ。


「ミモリ、どうして毎日あんなふざけたことに付き合ったりしたんだ。探偵の仕事といっても、何かとくべつな報酬がもらえるわけじゃない」


 ミモリは理由はわからないが、微笑み、足もとにいる俺に視線を向けた。


「僕とセシルは似てるんだ」

「似てるって……どこが」

「僕は、誰かに必要とされる人間になりたい」

「え? 初耳だ」


 ミモリは笑うかわりに咳をした。


「きっと彼女もそうだったんだよ。誰にも何も求められないまま、ひとりぼっちで生きるのではなく、まわりの人たちの記憶に残るように、彼らのために何かをしよう、それから去ろう……としたんだ」

「でもミモリは記憶が戻ったわけではないんだろ」

「同じことだよ。人間はいつまでも地上にいられるわけじゃない。――レスも、今は別れがつらいかもしれないけど、いつか必ずわかってくれると思う。だって、僕だったら嬉しいもの。別れるときにはさよならが聞きたい。大切な人が心の底から笑って言ってくれるなら、寂しいけどとても嬉しいことだと思う」


 ミモリは他人のことなのにうれしそうだった。

 ミモリの機嫌と同じくらい体調がいいなら、俺もこれ以上の文句はなかっただろう。


「くだらないよ、ミモリ」と俺は言った。「必要とされるって」


 レスに対してあまり同情的になれない理由がなんとなくわかってきた。

 俺は怒っていると思う。とても。

 その深い怒りは、古いビデオテープにひそんでいる。

 ずたずたに引き裂かれ、くだけ散り、再生もできない無数の残骸の中に息をひそめているのだ。


「ミモリ……俺はひとりで五百キロの荷物を担ぐことができるし、言葉にも困らない。毒物やウィルスにも耐性があって、風邪ひとつひかない。寒いのも熱いのも平気だ。なにも感じない。だから普通の兵士の何十倍もの仕事ができる。そういうふうに作られて、そういうふうに生まれたからだ。必要とされるって、それだけのことなんだぜ」


 ミモリは目を閉じたまま、何も言わなかった。

 僕たちはもっと些細なタイミングで別れてしまうだろう……そのことを教えてくれた誰かは、もう、俺のそばにはいない。

 たとえ記憶を取り戻さなくても別れるときが来るだろう。そのときは、できることならば、きれいに消えたいと思う。何も求めることなく、誰からも何ひとつ奪うことはせずに。

 俺は立ち上がった。ミモリの手が伸びて、部屋を出ようとする俺の右手首を掴んだ。「ミモリ?」ミモリの熱をもった手の平が、握手をするみたいに、ぎゅっと俺の手を握る。「どうした? 気分が悪いのか?」


「ギー、大丈夫だよ。僕はね」


 大丈夫だよ、とミモリはもう一度呟いた。

 レスではないが、子どもなのはどちらかわからない。



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