28



 ペンキの残りを掃除した。

 すべての工程を終えても、白い壁にはうっすらと赤い文字が残っていた。明日、上からもう一度、ペンキを塗らなければ消えそうにない。


 明日……。

 そのことばが、やけに遠く感じる。

 明日は何が起きるのだろう。

 ミルドタウンはいつも変わらない、小さくて退屈な街だ。

 でも今日と明日の間には、はっきりと、何かもっと別のものがある気がする。


 外が暗くなり、廊下の蛍光灯が点灯した。

 この古ぼけたアパートは明かりがあるほうが薄暗い気がする。

 脚立やバケツ、はけを一階の倉庫に片付けて、非常階段をゆっくりのぼる。そして遠くに目をやれば、夜に沈みゆく水平線の存在を感じた。潮風が頬をなぜる。

 部屋に帰ったあと、気を紛らわせるように紅茶の茶葉にやかんで沸かした熱い湯を注いだ。


 そうして、クレアが置いて行った封書を開けた。


 窓枠の端にはまだ、美しいオレンジの光と闇に混ざった空の色が引っかかっている。

 晴れていた。海は凪いでいる。

 風も穏やかだ……。かつてないほど。


 でもこれを開けたら。

 わかってる。

 かならず嵐がやってくる。


 ギーがどんなに僕を信じてくれていても、そのことが心の底から理解できたとしても、僕は自分のことを、自分の力では決められなかった。どうしても、それだけはできなかった。忘れてしまった過去にあるはずのものを無いとは言えなかった。

 無いふりをして、僕は僕だと言うことが。どうしても。

 愚かなことだ。

 ここにもしも自分が望まないことが書いてあったら、それを捨て去る勇気もまた、持てないのに……。


 要するに、そういう性分なのだ。

 どうしようもないんだ。

 こんな、誰もが自分のことを忘れた街に住んでいるのに真実に近づきたい。知りたいと思う。

 それが、揺るがない枠組みだ。

 僕という存在の輪郭を作っている。

 なぜかはわからない……。ずっと、わからなかった。

 でももう、それは終わりにする。


 そうしたら……。


 そうしたら、ギーに会いに行けるだろうか?


 封筒から一枚きりの短いレポートを取り出した。

 指先が震えた。わけもなく寒いと感じた。

 銃口を向けられたときでさえ、これほど怖いとは思わなかった。


 レポートのテーマはもちろん僕の過去についてだ。

 冒頭に市政府の責任において情報を開示すると書かれている。

 その範囲は《アモとミサ、夫妻の殺人事件に関するもののみ》とも。条件は黙って飲みこむしかない。

 明かされるのは僕が殺人鬼ダダとどんな関係があるのか……そのことだけだ。それ以外については、ほかのどんなことも公開されない。

 少しずつ読み進めていく。


 まずは、どうやら僕には家族がいたらしいことが記載されていた。

 両親がどうだったか、どんな国のどんな場所で暮らし何をしていたか、ということはひと言も書かれていない。


 ただ、妹がひとり、いたと書かれている。


 名前はわからない。年齢も容姿も何もかも書かれていない。

 だが、彼女は《殺害された》とはっきり書かれていた。


 殺人鬼、ダダによって……。


 そして、その第一発見者が僕だった。

 自宅近くで悲鳴を聞き、駆けつけたときにはもう手遅れだった。

 犯行後まもなくのことだった。

 ダダ本人と、かなり接近していたことになる。

 もしかしたら、ダダは駆けつけた兄に気がついたかもしれない。

 そういう可能性が高い。

 でも見逃した。二人ともは殺さなかった。

 妹の命だけを持ち去って、いなくなった。


 生き残りなのだ……。


 僕はその、生き残りの少年だ。

 ダダが殺し損ねた子どもなのだ。

 事件は話題になり、少年は新聞やニュースの餌食になった。彼はマスコミを避けるために名前を変え、故郷を去るしかなかった。

 ダダの信奉者であるアモとミサは、僕がその少年であることにいち早く気がついた。そして事件のことを少しでも知ろうと探っていたのだろう、と書かれている。レポートはそれで終わりだ。


 すべてを読み終えても何かを思い出すことはなかった。幸か不幸か、そこに記されている事柄は、まったく別の人間の経験のように感じられた。


 だけど、時折襲われるあの嵐の中で。

 夢の中で事切れた少女が誰なのか――それは、いま、はっきりとした。

 すべてが明らかになった。

 妹がいたんだ。

 ひとりぼっちだった僕に。

 家族が。


 悲しくもない。つらくもない。怒りも感じられなかった。

 ただ、虐げられたのがレポートに印字された妹ではなく、ギーやクレアだったら?


 ――そう考えたとき、やっと、体の真ん中ににぶい痛みを感じた。


 僕は殺人鬼なんかじゃない。

 そうじゃなかったんだ。


 深いため息を吐いた。

 スクラップブックをみつけてからというもの、息を吐くのははじめてだというほど、長い溜息だった。


 自然と部屋の中を見渡した。

 いつも二つずつ買いそろえてしまうマグカップや、甘いチョコレートやビスケット、キャンディがそこにある。

 何故なのかがやっと、やっとわかった。

 電停で、部屋の中で、街のあちこちで誰かが隣にいるような気がしたのは。ジュリに優しくしたいと思ったのは。あたりまえの風景を無性になつかしいと感じたのは、おとぎ話の登場人物に胸が疼くのは……。


 何故なのか……。


 涙が……。

 悲しくはないのに、涙がこぼれた。

 次々に落ちて止めることができなかった。

 枯れたと思ってもこぼれてきた。


 泣いているのは、かつての僕だ。

 忘れてしまった僕自身の過去が、失ったもののために泣いている。


 その夜、夢をみた。

 どこかの田舎の一軒家の夢だ。

 緑に覆われたその家のまわりには、他に民家はない。


 嵐はもう、吹いていない。

 とても静かで、太陽の光があたたかいと感じる。

 家の裏手には池がある。池のふちにつながれたボートが一艘ある。

 男の子がボートを覗いている。

 ボートはよせてくる風に、ただ静かに揺れている。

 《彼女》は、そこにはいなかった。

 血は一滴も流れていない。

 僕はひとりぼっちで、ここにはただ穏やかな風景だけがある。

 それは少しだけ哀しく寂しい光景にみえた。


 そこでは、いつも風は問いかけてくる。


 あなたは誰?

 あなたの痛みや、苦しみは、どこからやって来るの……?


 僕も問いかける。


 君だったの?


 他人の痛みとともに軋んでいた心。

 疼いていた過去にどうしても惹かれてしまう眼差し。


 痛いほど優しいものや、

 悲しいことがあるとわかっていて、

 それでも謎や秘密へと僕を近づけていったあの声は。


 全部、君だったの?


 答えを探し求めたのは。

 僕を探偵にしたのは……。


 そして君は声に、嵐に、風になった。


 きっと以前の僕は、君のことを大切に想っていたんだね。


 あのスクラップブックが彼のすべてだったんだ。思い出ではなくて、いまだに捕まらない犯人の手がかりが。


 そういうことなんだ。


 やっと理解できた。

 人が誰かを想う気持ちの激しさが、僕を苦しめたあの嵐だと。

 ギーが自分のことを省みず、僕を守ろうとしてくれたように……あの激しさが、かつての僕にもあった。


 大げさかもしれないけれど、あした、目が覚めたらきっと何もかもが変わる。

 新しい世界になるだろう。

 そうしたら、許せる気がする。

 僕のことも。

 僕のことを思ってくれた友達のことも。


 会いに行こう。

 そして言うんだ。


 ギーはなんて答えるだろう……。


 賛成するだろうか。

 それとも断られるだろうか。

 冬の間だけでもいいから、僕のアパートで一緒に暮らさないかって。

 どんな返事でもいい。


 会いに行こう。

 あした、目が覚めたら。

 かならず。






   『ミルドタウン』――了

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