街の記憶

8 街の記憶




『あなたは誰?』



 日記帳が声を発したような気がして、あわてて表紙を閉じた。

 リドがこちらをちらっと見たけれど、すぐに視線を伏せて書類仕事にもどった。

 僕も何も言わなかった。


 どうやら亡くなったアモとミサの子が、手紙の送り主らしい。


 なるほどね。

 それは、考えてみたこともなかった。

 そもそも、アモとミサという住人の存在を、はじめて知った。


 もしも僕が名探偵だったらすかさず「関係者を集めてくれ」とか言う場面かもしれない。どこか、ソファがあって、そう、手頃な暖炉のある部屋に。

 もちろん動揺しているし、その事実をどう扱っていいのかについても悩ましいところだと言わざるをえない。


 死んだふたりの子どもが、なんの理由があって僕にメッセージを送ってくるんだろう?


 あなたは誰? だなんて……ふしぎな響きだ。


 子どもというものを僕はよく知らない。

 本によると時に不可解な、大人には予測不可能な行動を突然とるものらしい。

 きっと本に書いてあるとおりの生きものなんだろう。

 僕なら、この街の住民の誰に対してであろうとそんな質問をするわけがない。

 なにしろこの街の市民は、みんな記憶喪失なのだ。

 全員だ。

 僕もそう。例外はない。


 ミルドタウンという街には記憶喪失者しか住むことが許されていない。

 たとえ一部分でも、全体でも、ほんの一瞬でも、長い時間のことでも、みんな何かしらを忘れて生きているんだ。


 保安官のバルガドやリド、セブンスのマスター、それから、ギーも。


 僕が知っている範囲では、ギーの記憶はまな板の上で刻まれた野菜のようにずたずただ。有毒ガスを吸い込んで目覚めたときには既にそうだったという。


 ほとんど《ちゃんとしている》リドだって、婚約者の顔だけが思いだせずに、いつも彼女の影を追っている。脱落した記憶に婚約者の存在を感じるだけで、それが実在の人物だったかどうかは誰にもわからないのに。


 僕もまた、ミルドタウンに来た四年前からの記憶しか持っていない。

 生まれてから十四年間ほどの記憶のほうは脳みその中からそっくり姿を消していて、リドのように誰かを思い出すこともない。


 僕は自分が誰なのか、本当の意味では知らないのだ。


 調べようと思ってもミルドタウンという環境はそれを許さない。

 この街に一歩でも入ったら外に出ることはできないし、インターネットもない。新聞なんてもってのほか。書籍は政府の許可されたものしか読むことができず、許可がおりるのは太古の知識なんじゃないかと思うほど古い日付のものだけだ。

 テレビも、同じくらい古い番組を繰り返すだけ。


 だけど、忘れている、それだけで済んでいる僕たちはまだ良いほうだ。


 戦争や貧困から逃れてミルドタウンを訪れるために、怪しい薬剤や手術のせいで廃人となってしまったり、生活記憶まで失って、ケントルムの長期入院施設でつきっきりの介護を受けながら、赤ん坊から人生をやり直さなければならなくなった人たちだって珍しくない。


 だから……。

 あなたは誰? なんてこの街の人たちに聞いたら、笑われるだろう。

 誰も知らないんだ、自分がほんとうは何者なのかなんて。

 知っていたとしても、それが正しいかどうかの保証なんてどこにもない。

 

 このような特殊な事情をもつ人々を一か所に集めたのは、何かの実験だったのではないかな、とときどき夢想する。


 だけど実験が現在まで続いているかどうかは疑問だ。


 僕たちは、この街で暮らすだけ。

 毎日日記を書いて、ただ、それだけだ。


 それが実験だったとしても、そこにはなんの結論もない。

 成果も無いし……。

 誰かに報告しても、おもしろいとは思ってもらえなさそうだ。

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