第2話 「待って!やめて!終わり!」

 「はじめまして。今日からこちらで働かせていただくことになりました、伊藤孝太郎と申します」


 明るくはきはきとした前向きな好青年の登場に、彩音と千夏は目が点になってしまった。

 それもそのはず。

 朝の早い時間なのだから年配のおばさんだろう、と二人は予想していたのだが、その予想は爽やかな好青年の登場で瞬く間に覆ってしまったからだ。


「あ、はい、こちらこそ、よろしく……」


「あ、パートの桝屋千夏です。よろしくお願いします!」


 久方ぶりの同世代の新人配属にぎこちなく挨拶する二人。


「では、これから私はしばらく本社勤務だから。あとよろしくね」


「へ?あ!支配人」


 そう言い残して、三宅支配人は分が悪そうにそそくさと消えていった。


 スゥーーーッ カチッ


 不自然なほど静かに閉まってゆくドア。

 そのドアの動きは、一切の意見を受け付けない、という三宅支配人の意思表示を代弁しているようであった。


 千夏はゆっくりとドアに近づき耳をつけ、三宅支配人が遠ざかったのを確認し、安堵のため息をつく。


「よし、行ったな!」


 その様子を見ていた孝太郎と目が合うと、咳払いを一つしてからスッと背筋を伸ばし、改めて孝太郎に話しかける。


「そかそか、君が今日からここで働くパート君だったか!名前は……孝太郎だっけ?」


「はい。よろしくお願いします」


「とりあえず、空いてる男子ロッカーあったからそこ使って着替えよっか。こっちきて」


「はい」


 千夏がテキパキと案内を始める傍らで、彩音は顔を少し赤らめながらうつむいている。

 彩音のことなど微塵も気にせず、颯爽とロッカールームへ向かう千夏を孝太郎がゆっくりと追いかける。

 彩音はおもむろに顔を上げ、目の前を通りする孝太郎に話しかけようとするが、なぜだか声が詰まって話せない。

 通り過ぎて行く背中を追っても、もう遅い。

 再びうつむき目を閉じた時、耳元で優しく囁く声が聞こえた。


「あとで……」


 はっとして顔をあげると、そこには孝太郎の姿があった。

 彩音と目線を合わせることなく、意味あり気な一言を残してロッカールームへと消えていく。


 脳裏に孝太郎との甘い想い出が甦る。

 ロッカールームへ消えた背中を目で追い、感傷に浸っていたのも束の間。

 背後にただならぬ気配が漂う。


「あとで、ってなに?」


 びっくりして振り向くと、いつの間にか千夏が背後に立っていた。

 彩音の赤らんだ頬が一瞬で血の気の引いた白に変わる。


 孝太郎が現れてからというもの、赤くなったりもじもじしたり、さっきまでとどこか違う様子に、千夏は何か面白いことを感じていた。


「ねぇ彩音」


「ん?」


「バレバレなんだけど……」


 冗談でカマをかける千夏。


「な、なにが、かな?」


「あんた……あの新人君となんかあるでしょ」


「ナ、ナンニモナイヨ」


 まんまと千夏の策にハマり、テンパり出して発音が片言になる。

 その動揺に何かを確信した千夏は、躊躇なく追い討ちのカマをかけ始めた。


「完璧に怪しい。何年一緒に仕事してると思ってんのよ。嘘ついてもバレバレ。彩音のことなんて全部お・み・と・お・し」


 千夏の強引さに観念したのか、小さくため息をつくと、ゆっくりと口を割り出した。

 頬を赤く染め、上目遣いに千夏を見上げる彩音はほんとにかわいい。

 千夏と彩音では、ギリギリ頭一つぐらい千夏の方が背が高い。

 それでも彩音は平均的な女性の身長なので、千夏が平均的よりも高いのだ。

 そんな彩音がかわいくて、千夏はついつい彼女をいじめたくなる。

 ドキッとしていじめたくなる。

 同僚や親友としてではなく、一人の女性として。


「えと、多分、なんだけど……」


「ふむ」


「大学の時のね、部活の先輩」


「……。んで?」


 千夏は興味津々に彩音の瞳を覗きこむ。


「おわり」


 彩音は極めて聞き取りやすい滑舌ではっきりあっさりと答えた。


「それだけ?」


「……うん」


 思わず、千夏はくてっと肩を落とす。


「なにそれ!もっとえげつないの期待したのに!」


「なによ!久しぶりに会ったし、めちゃくちゃ恥ずかしいんだから!」


「もっとこー、エロくてドロドロした関係とかじゃないの?」


「千夏!私の学生時代にどんなイメージ持ってんの?」


「んー、エロい痴魔女とか?」


 そわそわしていた肩の荷が降りたようでさっぱりとした笑顔を見せる彩音に対して、千夏は何かが腑に落ちない様子で彩音を見つめる。

 わざとらしい彩音のその表情に、さっきとは別の何か怪しいことを感じ取った。


 ───先輩なら普通に話しかければいいのに何をそんなにあわあわしてるんだ?


 ───それに『恥ずかしい』ってなんだよ。久しぶりに会って『懐かしい』ならわかるけど、『恥ずかしい』って……はっ!


 千夏の妄想染みた誤解が解けたこともあり、安堵の笑みを浮かべて孝太郎を待つ。

 そんな彩音の顔を千夏は疑り深げにぎろりと覗きこむ。


「ねぇ彩音」


「な、なによ!」


「恥ずかしいって言ったよな?」


「う、うん」


「恥ずかしいってことは、あの新人君との間に恥ずかしい何かがあったってことだよな?」


「へ?」


 その瞬間、千夏の脳裏にある推測が舞い降りた。


「もしかして、新人君……いや、孝太郎のこと好きだったとか?」


 千夏の唐突な一言に、彩音は目を見開き、口をあわあわと歪ませ、一瞬で青ざめる。

 

「元カレか?」


 親友兼部下の一言に不意打ちを喰らい、急に目を泳がせる。

 反対に千夏は、一瞬でテンパった彩音を早くからかいたくてうずうずしていた。


「そ、そういう関係では、ないんだけどさ……」


 彩音の話を聞きながら、そろそろ着替え終わったかな、と千夏はロッカーの方へ視線を移した。

 その瞬間。

 彩音は勢いよく事務所の方へスタートダッシュをきった。

 千夏の視線が離れた隙にロケットスタートで逃げようとするが、行く手に千夏の腕がしゅんっと伸びてくる。

 千夏は逃走経路を遮り、そのまま彩音を壁に押しやって壁ドンの体勢に持っていった。

 恐怖と困惑で息を荒くし、千夏を見上げる彩音。

 何かの期待に満ちた千夏の顔がどんどん近づいてくる。

 そんな状況の中、彩音の意識は別のものへも向いていた。

 千夏ってほんとに美人だなぁ、と。


「あーもしかしてなんだけどさ。いつも彩音が酔ったときする話でさ……」


「待って!やめて!終わり!」


 危険な何かを感じたのか、千夏が最後まで言い終わる前に話をやめさせる。

 しかし、それでも追求をやめないのが千夏である。


「酔ってムラムラしてきた時に話すさ、大学ん時の……」


「黙れ!この顔面美人!!」


 ムキになった彩音の顔が、急に真っ赤に染まる。

 その顔色から察するに、何かに照れていることは誰が見ても明らかだった。

 その赤面を見て、千夏はニヤリとほくそ笑む。

 千夏は彩音と目を合わそうと彼女の顔の前で目を覗きこむが、彩音は顔を左右に振り抵抗を続けた。


「ねぇ、彩音が酔ってムラムラしたときにする想い出話でさ、のろけ話ってゆーか『寝込みを襲った先輩』ってさ……」


「ああーーー!終わり!仕事!」


「その反応は図星だな」


「ヘ?チ、チガウノ、アノネ……」


 あまりにテンパり過ぎてまた片言になった段階で、千夏は大人の対応としてそれ以上の追求を我慢する。


 こんなやり取りが仕事中も休憩中も、人目を憚らず繰り返される。

 もちろん二人のプライベートな時間はなおさら千夏が調子にのる。

 つまるところ、千夏はあわあわとテンパる彩音を見るのが堪らなく好きだし、一方で、彩音も千夏にいじられることが嫌とか嫌いとかではなくむしろ楽しいとさえ思っていた。


『からかいたがり』と『かまってちゃん』


 まさにそんな代名詞がぴったりの大人女子だ。

 もちろん、千夏の『好き』は色んな意味を含むのだが。

 彩音はそのことに気づく様子もない。



「着替え終わりました」


 壁ドンで見つめあっていた女子二人は、その声にびくっとする。

 孝太郎が音も立てず側に近寄ってきたのもあるが、話に夢中過ぎて孝太郎の存在を忘れていたのだ。

 とっさに壁ドンの体制から離れる。


「あ!あ!いや、なんでもないの」


「そーそーナンデモナイナンデモナイ」


 慌てて冷静さを装う彩音に対し、今度は千夏がびっくりして片言になる。

 孝太郎は自分のことで盛り上がっていることに、全く気づいていなかった。

 彩音と千夏はお互い目配せすると、どちらともなくさっと事務所のほうへ向き直す。


「じゃあ孝太郎。さっそく色々見てまわろうか!お姉さんが一週間で一つ上の男にしてやるから覚悟しとけ!」


「(一つ上の男って千夏がゆーと別の意味に聞こえるけど……)」


 自信たっぷりに話す千夏の背中に隠れて、孝太郎に聞こえないように小声で呟く。

 そして、孝太郎に気づかれぬように距離を取りながら、二人の話に耳を傾ける。


「ご面倒お掛けしますが、これからよろしくお願いします」


「おぅ!な、彩音」


「ハ、ハイ」


 急に話しかけられ変な裏声で返してしまった。

『私に喋りかけんな』という怒りの視線を千夏に送るが、千夏はお構いなしに話を続ける。


「あと、ついでにさ。職場では名字に『さん』付けな。千夏も彩音のことは朝倉さんって呼んでるから」


「(えっ!朝倉さんなんて初耳なんだけど!?)」


 再び小声で突っ込むが完全に無視される。


「わかりました。よろしくお願いします。桝屋さん、朝倉さん」


「よろしい、ではついて参れ」


「はい!」


「お!元気がいいねぇ!んじゃ彩音、あとよろしくー」


「あ、うん、わかった。……ってどこいくの!?」


 そう言って千夏は孝太郎を連れ早々と立ち去る。

 彩音には目もくれず、ただ前を向き歩く孝太郎の姿は、彩音の知るかつての『孝太郎先輩』とはどこか雰囲気が違っていた。

 孝太郎の背中を目で追っていたが、こちらを見た千夏の顔が一瞬目に入る。

 千夏のことをよく知る彩音は、その一瞬を見逃さなかった。

 孝太郎と話しながらも、彩音の方を一瞬ちらっと見てニヤリとほくそ笑むその笑顔……

 

 ──あいつ絶対よからぬことを企んでる。

 ──この後絶対めんどくさいこと起こる。


 彩音の第六感が騒ぎだした瞬間だった。




 ──そして数時間後、彩音の予想通りめんどくさい事件が起こる──

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