明日の黒板

青い向日葵

ハル

 ハルちゃん。君は、物心ついた時から、ずっと僕の傍に居た。 僕等のような関係は幼馴染というありふれた言葉で、いとも簡単に説明されてしまうのだろうね。

 自分の意思などゆうに超えた何か宿命とでも言うべき偶然の巡り合わせによって、家族と同じくらい、否、おそらくそれ以上の頻度で日常のそこかしこに君の姿を見て、僕は今日まで平穏無事に生きてきたのだ。それは本当に幸福な日々だった。


 少し色素の薄い柔らかな細い髪は、絵本に出てくる水彩画の異国のヒロインのように眩しく煌めいて緩やかな波を作り、陽の光に溶け込んで、僕の視界の中できらきらと、いくつもの絵を描く。

 幼い頃の君は、同じ歳の僕のことをナツくん、ナツくんと無邪気に呼んで、毎日欠かさず玄関まで迎えに来ては、降り注ぐ太陽の光のもとへ有無を言わさずいざなった。

 僕は、春子という名の君をハルちゃんと呼んだ。言葉を覚えたての幼児にルの発音は難易度が高く、一人でこっそり何度も練習した記憶がある。美しい君の名を正確に、美しく呼ぶ為に。


 僕は、夏男という名前に似合わぬ小柄で色白の痩せっぽちだったから、君が積極的に連れ出してくれたことには親も少なからず感謝していた。今でも逞しい肉体とは言えないが、特に病気もせず健康に育った。

 高校生になってから急激に背が伸びて、ようやく君の背を越えた。そう、やっとのことで。毎晩、膝が痛くて眠れないこともあったけど、どうやら成長痛というものらしく、著しく身長が伸びる時に発生する独特の痛みらしい。どこまで伸びるのかと思ったが、平均に追いついた程度で止まってしまったみたいだ。痛みも治まった。

 君は女子の中では背の高いほうだから、僕等の視界に広がる景色の高さは、それほど変わらないだろう。


 儚げな外見と裏腹に男勝りの活発な少女であった君は、いつしか勉強熱心な優等生に成長していて、素足で野原を駆け回ることもやがてなくなり、走る速さを競ったり、裏山で綺麗な葉っぱや木の実を拾ったり、おたまじゃくしの泳ぐ池を覗き込んだりする代わりに、受験生になった僕等は、分厚い辞書と問題集の束を片手に図書館へ入り浸るようになっていた。

 君の家は、僕の家より数段裕福だった。だから君は、おそらく私立の女学校へ進学するのだろうと誰もが何となく思っていたのだが、君は、ぎりぎり徒歩圏内にある県立高校を受験して、僕等はまた同じ学校への同じ道を通うことになった。


 しかし僕等はもう、親しげに互いの名前を呼び合い手を繋いで駆け回った幼いあの頃とは違っていて、それぞれ新しい高校の友達とバス停で待ち合わせをしたり、或いは一人でイヤホンの音楽に意識を傾けながら黙々と通学し、いつの間にか、幼馴染との距離は最早もはや他人と等しく遠いものになってしまったのだった。

 時の流れとは、何て残酷なんだろう。そうこうしているうちに、三年生になっていた。


 僕等は、すっかり別々の生活を送っていて、君の望む進路のことだとか、僕の家庭のふところ事情だとか、そんな細々としたプライベートは互いに知る由もなく、瞬く間に時間だけが過ぎて行った。

 僕は、家がどちらかと言えば貧しいという事実をよく理解しているので、国公立大学の受験を念頭に置いて、通信制の予備校に登録し、家で淡々と勉強していた。課題をやって郵送すると、添削されて返ってくる昔ながらのアレだ。

 お陰様で、成績は何とかキープ出来ていた。


 進学校と呼ばれるような高校では、三年生は文系と理系にクラスが別れ、まったく別の授業が行われる。学校生活の全てに渡って暗黙のうちに受験対策が最優先され、生徒の中にはピリピリとした雰囲気が常に漂う。

 僕は周りの様子をなるべく気にしないようにして態度を変えずに登校していたが、あからさまに友達付き合いを切ったり、好きなのに彼女と別れたり、またはそんなに好きでもない女子と適当に付き合って精神のバランスを取っている者もいた。


 皆、一体何をやっているんだ。受験と恋愛を天秤にかけるなんてナンセンスじゃないか。相手の気持ちとか、肝心な人と人としての意思疎通はどこへ置いてきたのか。

 僕は、僕の手を引っ張り回して野山を翔けるハルちゃんが好きだった。僕の手を離して、静かに落ち着いて勉強するちょっとすました顔の春子も好きだし、女子にありがちなグループというか派閥に囚われて主体性を失うこともなく、孤高とも言うべき態度で背筋を伸ばして佇む君が、ほんの少し羨ましくもあった。


 幼かった昔とは光の種類が違うけれど、君はいつだって、うっとりするほど眩しい。

 僕は、自分からは決して手の届かないような、幼馴染という特別枠がなかったら、接点を見つけられないようなキラキラした君が、やっぱり好きだ。

 ハルちゃん、好きだよ。

 何度、君に告げただろうか。恋なんて知らなかった小さな子供だった僕は、素直に胸の中の温かい気持ちをいつでも君に伝えた。

 君は、とびきりの笑顔で喜んでくれたね。君は今、その瞳に何を見詰めているのだろう。


 何ものにも縛られず奔放に生きているようで、大人しく控えめにも見える不思議な君の眼差しは、真っ直ぐに前だけ向いているように見える。その前方に、僕の未来はあるだろうか。

 わからない。それでも、僕は君が好きだ。

 卒業したら、もう会えなくなるかもしれない。今度こそ、ご近所では居られなくなって、本当に離れ離れになってしまうだろう。

 せめて、想いはきちんと伝えなくちゃいけない。僕は、着々と受験の準備をしながら、いつも君のことを考えていたんだ。

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