2) emergency sign

 水中花への着床によるホモ・サピエンスとしての生存方法が確立されたら、ホモ・サピエンスから新たな可能性が生まれる。それが十四年前の理論だった。胡桃は今となっては、人間の種の保存の可能性に拡がりを作ることの意味自体を深く思索出来ないでいる自分を知っていた。何故生き存えなければならないのか? 何故人工生成性の生物ではいけないのか? 何故人工知能たちが行き交う街ではいけないのか? ──何故、胡桃は生きていなければならないのか?


「つまり心の法則なんだ」

 扉が開いた瞬間31に口早に云った。

「ドクタ97。娘という表現は止めて欲しいの」

 水槽の側にいた97が振り向いた。

「私は生物学上人間の女性だったから、過去に卵巣を提供しただけ。そうでしょう? 娘という単語とは関係無い」

 97が近付いてきた。

「気を付ける」

「ごめんね」

「いえ」

 何故ごめんねなどと云ったのだろう。脊髄が痺れるような眩暈に似たものが一瞬走った。

「心の法則って?」

 31が遅れて問い返す。

「……心って何だと定義する?」


 胡桃は水槽に近付いた。試験体の水中花は、透明感で云えばクリオネに似ているとのこと。深い時代で云うところの、人魚というものにも似ていると巷では云われているらしい。が、ここから見える水槽の試験体に顔面などは無い。彼らは、x・y・z軸上を動く点でしか無かった。


「心って何だと定義する? 思考?」

 31は翡翠色の瞳で胡桃を見返した。

「思考の形とは別のものだと思います」

「誰かが死んだら、心はどうなるのかな」

「ドクタは何について考えているのですか」

「つまり、生存している物体の臓器や脳……いや、遺伝子かな、それとも? もっと細かく見よう。何だってただの分子だろう? 心なんて概念は誰が考えたのかな」

 97が振り向いた。

「私は心とは、脳の電子信号というだけかと」

「死んだら無意味?」

「無意味の定義は?」

 97の眼は赤い。綺麗だな、と、ふっと思った。RGB数値でこれくらいだろう、と連想した。実際には元々装着しているアイ・レンズを通して測定出来るのだが、ファンシィな空想に留めた。


「じゃあ、生命って、つまり何だろう?」

「その議論は何の意味があって?」

「そうだね……」

 胡桃は溜息を吐いて本音を云った。

「私、消耗しているね」

「飲みものを?」

 97が近づいてくる。

「作ってきますよ」

「気分転換をしたいから私が入れるよ。97は何が良い? 31は?」

「私は珈琲、ブラックで」

「自分は紅茶を。アールグレイのティーバッグがあります。扶桑の動きを引き続き監視しています」

「たぶんそれでは違うわ」

 胡桃はまた眉間を顰め、それから冷静になるよう努めた。必要なのは解析結果だけなのだ。

「x・y軸から虚軸と実軸に変換したら良いと思う」

「ドクタKRM?」

「トコロイドを計算している時点で、それが本来のやり方じゃないかな。古典的だと思うけど。そうだね、中等部生が習うようなことだよね。でも……」

 最近はどのレヴェルの数学教育がされているのか、チェックし忘れていた。プログラミングから育った人間には、発想しないことかも知れなかった。

「扶桑は十四歳だし、そんなものでしょう」

 31は眉を上げた。

「扶桑のみ、虚軸と実軸に座標変換して式を取ります。KRM博士、流石ですね」

「きみには古過ぎる解法だったから気付かなかっただけだよ」

「複素数平面かぁ」

 97が呟いた。

「教育というより、個体素養の方面を決定するときに、簡単なプログラムでインプットされた話でしたね」

「そうだよね」


 部屋の隅で、ポットから湯を注ぎながら、単なる水に皆それぞれ違った味を求めるのだ、と思った。それは胡桃の気分を少し癒す。自分に作ったのはカフェラテだった。どれだって単なる水なのにね。生き物らしいじゃないか。97は濃いブラックが好きだと知っているから、丹念にドリッパに湯を注いだ。労ってやりたい気持ちがある。アールグレイのティーバッグは、伝統的な銘柄だった。31らしいなと思う。メイディと云えば西暦1900年から作られているメーカではなかっただろうか。続くものは続くんだな、と思った。人が死んでも、紅茶の味は継続して伝えられる。


 カップを三つは両手では持てないので、自分のカフェラテはサイドに置いたまま、紅茶と珈琲をふたりに運ぼうとした。

「あ、取りに行くから、そこで、」

「自分でも計算はしてるけど確認。複素数平面での式は立てたよね?」

 胡桃は遮った。

「はい。それから積分しています。……くっそうちょっと厄介だなあ」


 ふふっと笑いそうになった。こんなに有能なのに初等数学には手こずってしまう97が可笑しい。単純な計算問題などの叩き上げ世代ではないからなあ、と思った瞬間、31が大きな声を出した。


「ドクタKRMッ!」


 照明が消える。


「なに?」

「動かないで! 危ない!」

「なに? ライトは?」



──点灯。


──点灯。


──点灯。


 ラボの電子音声が発令しているがライトが点かない。


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