第1章-3

「おい、誰だ、そこにいるのは」


 声と共に、雪トは拾い上げた石を無造作に投げた。木の幹に当たった石は、木陰に潜んでいた何者かを驚かすに十分だったらしい。


「わぁっ!」


 情けない悲鳴と共に、転がり出て来たのは、町人風の身なりの男である。


「し、失礼いたしましたっ!く、喰わないで下さい!」


 いきなりの命乞いに、鬼の二人は呆気に取られた。辺りは既に、闇に包まれている。鬼の二人には、星明りであろうと昼と変わらずにものを見ることができるが、人間にそれはできまい。

 だのにこの男は、明かりひとつ持たずに暗闇に潜んでいたのである。

 訝しく思い、火白は腕組みをして地面に這いつくばった男を見下ろした。

 土埃を浴びているが、着ている物には良い生地が使われている。懐具合も悪いようには見えない。ともかく、夜の街道に潜むにはふさわしからぬ人間に見えた。

 打ち伏していた男は、火白たちが何もしてこないことに気づいたのか、そろそろと面を上げる。品の良い顔立ちの、三十そこそこの男だった。


「わ、私を喰わないんで?」

「妙なやつだな。何故俺たちが人を喰うと思った」


 火白も雪トも、鬼の証である角は隠している。多少不自然さはあるかもしれないが、人間と変わりない格好をしているはずであった。


「そりゃ、その……先ほどから、この暗闇で平気の平左でおられたようですから。……お前さん方は、鬼なのですか?」


 火白と雪トは顔を見合わせた。確かに、新月の夜に川原でやいのやいのと騒いでおれば、真っ先に妖物を疑うだろう。二人揃って迂闊だったと言わざるを得ない。


「応。おれらは鬼よ。だがま、人を喰おうという気はない。それより、この暗闇は人には危険だろう。とっとと帰れ帰れ」


 しっし、と犬の子でも追うように火白は手を振った。だが男は、すぐには立ち去ろうとしなかった。土の上で膝を揃えたまま、面目無さそうに頭をかいたのだ。


「それがその……」


 男は何か、歯の奥にものが挟まっているような言い方をしながら、立ち上がる。一度、着物の裾を払って立ち上がる。と、思う間もなく裾を正して、もう一度地面に頭を擦りつけた。


「お願いでございます!鬼と仰るなら、どうか血を分けてくださらないでしょうか!」

「はっ?」


 やおら這いつくばった男に、火白の口から間の抜けた声が出た。


「無茶なこととは分かっております!ですが曲げてお頼みします!どうか、そちら青い鬼様の血を、大皿ひとつ分頂けないでしょうか」

「お前、急に何を言い出す」


 低い声を出した雪トである。体が頑丈な鬼であろうが、血を大皿一枚分も取られるのは、ただ事ではない。

 まして、いきなり主の血を出せと言われれば、雪トの目つきが剣呑になるのも至極当然だった。見た目だけで言うなら、自分の半分以下の青年にすごまれ、男は更に縮こまる。しかし、言葉を翻そうとはしなかった。


「雪、伸すのは待て待て。お前が殴ったら、この御仁、心の臓が止まってしまうぞ」


 一方、青い鬼様と言われた火白はといえば、先に雪トがとさかに来るのを見たから、然程驚けなかった。鬼であっても人であっても、先に怒ってくれる者を見ると頭が冷えるのは変わらないのだ。

 しかし、それにしても血を寄越せと言われても、はいそうですかとは言えぬ訳があった。

「お願いいたします!鬼の血がなければ、芯太の……私の息子の命が危ないのでございます!」


 男は確かに、自分は江戸の商家の者であると名乗った。福禄屋という目出度い名を掲げた小間物屋の通い番頭で、名は幸七郎こうしちろうと言った。

 その福禄屋の跡取りで、幸七郎とお千絵ちえの長男である芯太が、明日をも知れぬ重い病にかかったのだという。


「お医者様にも匙を投げられました。なんの病かさっぱりわからぬと」


 十日ほど前、急に元気がなくなったと思ったら、いきなり寝付いてしまったのだ。平時から体の弱い妹のお夏と違って、芯太は八歳になるまで元気そのものだった。七つの歳も、何の障りもなく超えてきた。

 訳がわからぬ。しかし、事実として八歳の跡取りは布団の中で小さな体を火照らせて苦しんでいるのだ。

 幸七郎が弱り果てて縋ったのが、神仏の類であった。霊験あらたかという、観音様におすがりしたところ、その帰り道に観音の使いだという如何にも神々しい女が、声をかけてきたのだという。


「それが、鬼の血かい?」

「は、はい。鬼の血を、大皿一杯に飲めば、きっと病は治るからと」


 元々鬼の血は、世間に知られてはおらぬが万病の薬なのだと、その女は言った。非常に美しく、浮世離れした美貌に、幸七郎は心が動いたそうな。

 しかし、鬼の血である。

 薬屋に行けば手に入るものではない。そもそも、幸七郎にとっては鬼など絵草子の中でしか見たことはなかった。

 どうすれば手に入るのかと、途方に暮れた幸七郎に、女はさらにあることを囁いたそうだ。


「この川に、氷上というところから流れて来た鬼が出るのだと、そう言われました。今晩行けば、川原に出る鬼がいると、青い髪の若い鬼に頼み込めば血を分けてくれるだろうと」


 幸七郎は懐から、白木の鞘に収まった小刀を取り出す。見た瞬間に、火白の背中にぴり、と痛みが走った。退魔の刀というのは本物であるらしい。


「勝手な話を抜かすな。退魔の刀で斬られて、無事で済む鬼がいるものか。まして、血を寄こせなんて」


 退魔の刀を見て怒りがぶり返したのか、雪トは男を睨みつけていた。普段は黒い瞳の底に、鬼の証である金色の光が瞬いている。それを見て、幸七郎はまたもごくりと喉を鳴らした。

 だが、逃げ去る気はないのか、そのままお願いいたしますと繰り返すばかりである。


「雪、眼が光っておるぞ」


 とりあえずそう言いながら、火白は幸七郎の前にしゃがんだ。


「幸七郎とやら、おれはお主に血をやれん」

「そ、そんな……」


 それでは芯太は、と唇を噛む彼の眼の奥に、思い詰めた光があった。それを見て、親なのだなぁ、と火白は思う。

 思い詰めてやらかしそうな辺りが、妙に雪トと似ていた。火白は煙が出ている煙管を、くるくると手の中で回した。


「落ち着け。やらん言うたのには訳がある。鬼の血をそんな幼子にやれば、薬になるどころか、飲ませば死ぬぞ」

「はっ?な、何を仰います」


 声を引っ繰り返す幸七郎である。火白は構わずに続けた。


「聞け。鬼の……まぁ特におれの血は、飲めば、その者を鬼に変える代物だ。小皿に一杯飲んだだけでも、下手をすればただ暴れる化け物に成り果てる。まして、病で身の弱った子どもになど与えてみろ。大皿一杯どころか、小皿一杯で死んでしまう」


 故に血はやれん、と火白は言い切った。なんとはなし、雪トと眼が合う。


「そ、それでは……」

「偽の話を掴まされたってことだよ、あんた。それとも、我が子を鬼に変えたいのかい?どんな形であれ、生きててほしいかい?」


 やや意地の悪い言い方をしながら、雪トは問いかける。幸七郎の顔は、真っ青になった。


「い、いえ……決してそのようなことは……しかし」


 今度こそ力が抜けてしまったように、幸七郎はへたり込んだ。彼にしてみれば、とにかく血さえあればと思い込んでいたのだろう。

 が、それにしては、のめり込みすぎていると思わなくもなかった。

 怪しい女の言うままに、振るったこともないだろう刀を持って、いるかもわからぬ鬼を暗闇で待つなど、仮にもお店の主である幸七郎がやるだろうか。

 些か以上の軽挙だと感じられた。

──────だが、なぁ。

 どのような人間であれ、追い詰められれば、当たり前の思慮分別は頭から消し飛ぶだろう。口ぶりからして、幸七郎が自らの家族を痛いほど大切にしていることは伝わった。

 ちょうど間近に、思い詰めると割と何を仕出かすかわからぬ従者がいるだけに、火白には幸七郎を愚かと嗤えなかった。

 火白は己の青い髪を手でかき混ぜ、へたり込んだ店主の肩を軽く叩いた。


「おい、幸七郎とやら。へたり込むのもよいがおれの話を聞け。鬼の血はやれんが、鬼の薬は作ってやれぬこともない」

「は?」


 雪トと幸七郎の声が綺麗に重なる。


「おれも里……故郷では、薬師の真似事もしていたし、人よりは長く生きておる」


 そこらの人の医者より病は見て来たぞ、というと、六助はがばと身を起こした。


「本当ですか?」

「嘘はつかんよ。だがとにかく、その子どもを診んことにはどうにもならん」


 人間の医者に皆匙を投げられ、神仏に詣でて謀られたというなら、鬼に頼るのも悪くはあるまい、というと、幸七郎は迷ったようだった。

 迷うということは、心が揺れているのだ。


「……わかりました。では、私について来てください」


 幸七郎が頷いたのは、それからほどなくのことだった。

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