第4話 亡霊/5
いくつもの目がフレイセルの動きを追う。銃撃を受けて触腕の動きは鈍っているが、その眼差しの不気味さは衰えていない。まるで心の奥底まで見透かされているような不愉快さを覚え、フレイセルはすれ違いざまにひとつ、ふたつと目を潰していった。
さすがにこんな化け物と相対するのはフレイセルも初めてだったが、衛士隊の面々は銃弾や斬撃が効くと分かると攻勢を強めた。後方では召喚術の心得がある衛士が異形の送還のために詠唱を始めている。
趨勢を決するには、術者である男の制圧が不可欠だ。男の手の中には未だ『モルダナ』がある。フレイセルは異形の後方へとすり抜けようとし——唐突に、その視界がぶれた。
「少尉!」
胴に巻きつかれた、と認識すると同時に高く持ち上げられる。複数の目が怒りと殺意をもってフレイセルを睨めあげていた。
フィルはフレイセルをつかんで蠢く異形の腕を狙おうとしたが、狙いが定まらず引き金が引けなかった。撃てば、フレイセルを巻き込んでしまう。百発百中の腕前を持つフレイセルならともかく、フィルは半月前まで候補生だったのだ。恐れがフィルの判断を鈍らせる。
「邪魔だ!」
泥を帯びた触腕は簡単には振りほどけない。フレイセルは壁に叩きつけられる前に軍刀を異形の腕に突き立てた。黄緑色の体液が傷口から溢れ、腕の拘束が緩む。
しかし放り出された先には、にやりと笑う男の姿があった。宙にいるフレイセルにはなすすべがない。男はゆるりと腕を振って、呪詛を描いた。
その時、フレイセルの手首が熱を持った。ミルテがフレイセルに託した腕輪に施された魔術が効力を発揮し、呪詛を弾いて砕け散る。フレイセルはなんとか受け身を取り、床を転がるもすぐに身を起こす。ノフィと同じ緑色の、しかし死して色あせた瞳が、忌々しげにフレイセルを見た。
「また会ったな。どこまでも我々の邪魔をしてくれる」
フレイセルは身構えた。男の発言は、他に仲間がいることを示している。油断なく男を睨み返しつつ、フレイセルは軍刀の柄を強く握りしめた。
男の体はぼろぼろだった。フレイセルが撃った一発以外にも、交戦のあとが残っている。しかし男は他人の体を操っているからか、疲弊の色を全く見せない。フレイセルは舌打ちした。
「カレル=ベルジュの体から出て行け」
フレイセルを兄と呼び涙を流したノフィの表情が頭から離れない。兄の姿を借りた男にいたぶられ、彼女は深く傷つけられたはずだ。しかし、怒りに燃えるフレイセルもろとも、男は嘲笑う。
「この身は我が依り代、我がものだ」
「黙れ!」
フレイセルは一気に距離を詰めた。呪文の詠唱を封じるために、顎を狙って殴りつける。わざと大振りな攻撃で躱されたところを、後脚を振り抜いて命中させる。
ぐしゃりと確かな感触があり、男が屈み込んだ。すかさず、フレイセルは男の心臓に剣の柄頭を叩き込む。
肉が潰れる感触ではなく、何か硬いものが砕ける衝撃がフレイセルの手に伝わった。がくりと男の体から力が抜け、その影からまた別の男が姿を現した。
「何を……」
「先生が仰っていた。死体になりすますなら、心臓部に霊晶石を埋め込んで、それを触媒にするはずだと」
天文科の実験室に向かう道すがら、ヴェイルは男への対策を練っていた。それを思い出しながら、フレイセルはカレルの体を横たえ、『モルダナ』を遠くに蹴り飛ばして距離を取る。
「そして、死体は儀式に使わせない」
フレイセルが呟くと、カレルの死体が燃え上がった。ノフィが涙を堪えながらそれを見守る。触媒として酷使された指輪が砕け、ノフィの膝の上にぱらぱらと落ちた。
「さあ……どうした? 顔色が悪いな。ご自慢の魔術はもう使わないのか」
カレルの死体の影から現れた男は、痩せ衰えた老人だった。死体の皮を被っていたことで見えなかった疲労が、今は目立つ。
魔術の行使には交感を必要とする手前、集中力と精神力が求められる。異形の召喚という大技のあとだ、転移術という高度な魔術は使えまい。精神的疲労、それが魔術師にとっての限界である。
しかし、男は諦めていなかった。一瞬の隙をつき、フレイセルに掴みかかる。思ったよりも強い力で首を締め上げられ、フレイセルは呻いた。ぞっとするほど冷たい手と、落ち窪んだ眼窩からのぞく目は執念に燃えている。
「お前を供物に、門を開く——」
しかし、男の言葉は最後まで続かなかった。横合いから伸びてきた岩の手が、男の体を捕まえ、握り込んだのだ。
フレイセルは、それが
「観念なさい。もう手詰まりです」
それは聞き慣れた柔らかい声であり、やや怒りを孕んだ声でもあった。見上げると、岩人形の肩の上にヴェイルが座っていた。
「先生?」
部屋の反対側の入り口を半壊させて、彼は現れたらしかった。フレイセルが呆然としている間に、衛士たちが喚び出された異形を送還させる。実験場には、異形が暴れた痕と、男が準備していたであろう書きかけの構築陣が残された。
ヴェイルは岩人形からするりと降りると、瓦礫で構成されたそれをぽんと手のひらで叩く。すると、人形の体は糸が切れたようにがらがらと崩れ、男を埋めて山になった。
「ヴェイル=アールダイン……」
男がしわがれた声でヴェイルの名を呼ぶ。それは、縋るようでもあった。
「なぜ拒む? 君が見出したものだろう、祝福するべきだ。我々にはその準備がある……」
男の手が伸びて、ヴェイルの手を掴もうとする。フレイセルはヴェイルを引き寄せて、男の手を払った。男の言っていることは意味不明だが、ヴェイルに近づけさせてはならないという直感が働いたのだ。
直後、男の体がびくりと跳ねる。がたがたと体を震わせる様は、まるで操り人形のようだった。フレイセルはヴェイルを背中に庇い、軍刀を男の顔に突きつける。すると男の首がぐるりと捻れて、乾いた唇から女の声がした。
「——だが、モリス、君はもう少し慎重にことを進めるべきだった」
男は事切れていた。しかし、女の声はなおも続く。
「アールダイン、深智の魔術師。我々はいつでも君を歓迎するよ。我々に真理への道を示してくれたのは、君なのだからね」
それきり、男は二度と喋ることはなかった。
「今のは……」
フレイセルの問いに、答えるものはいない。しんと静まり返った地下室に、ぱたぱたと足音が響く。振り返ると、ノフィがフレイセルたちのほうへ一直線に走ってくるのが見えた。
「ヴァイラー少尉! 先生、」
傷だらけのノフィを見て、ヴェイルは驚き、走ってくるノフィを腕の中に迎え入れた。ヴェイルがノフィの頭を撫でると、ノフィはそれまで堪えていた感情を溢れさせるように、しゃくりあげた。
「ノフィさん……よかった。よく頑張りましたね。偉いですよ」
ノフィをなだめすかせるヴェイルを横目に、フレイセルは軍刀を鞘に収め、服の埃を払った。周囲を警戒し、先ほどの声の主がいないか探す。しかし観測手に尋ねても他に人の気配はなく、衛士隊はモリスという名の魔術師の死体を回収し、撤収することとなった。
「メイエル中佐、私、詳しいお話ができると思います」
ノフィの申し出を、メイエル中佐はまあまあと押しとどめる。
「まずは怪我の手当てから。夜も遅い。クライフ教授は聞きたがるだろうがね、まずは休息だ」
「はい。ご無事でよかった、ヴァイラー少尉」
おずおずとメイエル中佐の後ろから顔を出したフィルに、フレイセルは鞘にしまった軍刀を預けた。すると、全身から力が抜けるような気がした。久々の荒事に、フレイセル自身も思っていた以上に緊張していたらしい。
「しかし、先生、待っているようにと言いましたが」
ふと気がついてフレイセルが問うと、ヴェイルは気まずそうに視線をそらした。
「それは……その、教え子を守るのが先生の務めですから」
そう言って、ヴェイルはノフィの肩をそっと抱き寄せる。怪我の具合が気になるのだろう、心配するその横顔は、まるで親か何かのようだ。しかし、フレイセルは言っておかねばなるまいと襟を正す。
「国民を守るのが衛士の義務です。我々の現場に、迂闊に踏み入らないこと。おまわりさんの言うことは聞くものです」
いつかの意趣返しにそう言って見せると、ヴェイルは肩を竦ませた。はい、という返事に気を良くして、フレイセルはようやく、ほっと息をついた。
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