喜悦の振付師
仁井暦 晴人
お目覚めは広いお部屋で
鳥のさえずりが耳に届いた。
もう朝か。寝付いてからろくに時間が経っていないような気がするというのに。
えーと、今日は学校――大丈夫、休みだ。ゴールデンウィーク初日だもんな。だからこそ夕べは寝落ち寸前までネトゲに興じていたわけで。
――ケエエエエエッ!
なんだ今の!?
長く尾をひく高い声。そうとう距離があることは間違いないのに、妙に腹に響く。
こんな鳴き方をする鳥、いたっけ?
「総員、整列!」
号令と思しき声に続き、それなりの人数が同時に足を踏み鳴らしたかのような音が響いた。
「ドラゴン様だ! 総員、上空を仰げ。ドラゴン様に、敬礼!」
誰だよ朝っぱらから。迷惑だなあ、人ん家の前で。
寝ぼけてるせいか、何て言ってるのかわかんなかった。地元の消防団による訓練かな。でもそれなら学校の校庭とかそれなりの施設を使うはず。
むう。まだ寝足りないけど、今のですっかり眠気が飛んじゃった。仕方ない、二度寝するのは諦めて起きることにしよう。
僕は目を開くのと同時に上半身を起こした。軽く伸びをする。
「ふう…………んっ」
あれ? 僕の声が変だ。風邪でもひいたかな。
気になるのは声だけじゃないんだけど、開いた目に飛び込んできた光景に全ての情報を上書きされてしまった。
——なにこのだだっ広い空間は。
ベッドもやけに大きくなった気がする。
僕は目を閉じ、軽く首を振った。
一旦落ち着こう。
「風邪でもひいたかな」
やっぱり変だ、声が高い。自分のものとは思えない。喉に手を当ててみたものの、特に痛みはない。ないんだけれど。
ゆっくり目を開くと、違和感の正体を探るべく眇める。まるで喉仏がなくなったかのような――
まてよ。ないと言えば、今朝はアレもない。毎朝必ずテントを張る例のアレ。
臨時休業か、マイサン。
なんだか股の様子が心許ない。別に、毎朝テント張らなくてもいいんだけどさ。お前の元気がないと僕自身テンションが上がらないというか。
視線を下げた。思わず目を見開く。
なんてパジャマを着てるんだ、僕は。襟ぐりを飾るフリル。こんな可愛らしいパジャマ、家にあったっけ。少なくとも僕のじゃないぞ。
……ああ、うん。それどころじゃない。この際パジャマなんてどうでもいい。
とんでもない視覚情報に動作がフリーズしているんだ。混乱した頭で何か考えようと躍起になってるけど、全然うまくいかない。
視界を遮る——と言うより、目に飛び込むは見慣れぬ双丘。その誇らしげに存在を主張する二つの球体こそ、僕の混乱の原因なのだ。
フリルつきのパジャマ、その胸部を押し広げて……。
肌色の谷間。こんな間近で見るのは初めてだ。そう認識すると同時に、ほぼ反射的に触れてみた。
ふに。
…………。
やっぱり僕のだ。柔らかい。
…………。
僕の……おっぱい。
え?
いや。
いやいやいやいやそんなばかな。
あ、下着だこれ……。大きいな。知識がないけど、これってCカップどころじゃないような。
もみもみ。
おお、柔らかい。
…………。
まあ、その、なんだ。
手の動きと同時に胸からも僕の脳に感覚が伝わってくる。けれど、それだけだ。
別に、その手の小説で読んだような、電流に喩えるほどの刺激を期待したわけじゃない。断じて違う。物足りないとか思ってないんだからねっ!
……あ、思い出した。
脳内で馬鹿なことを叫んでいる場合じゃないや。
以前ネットで読んだ記事の中にこんなのがあったぞ。男性なのに乳房が膨らむことがあるってブログ記事。
女性化乳房症って言うらしい。
珍しい症例ではあるけれども、なんでも思春期特有のホルモンバランスの崩れによって、男性でも乳房が膨らむことがあるんだとか。
じゃ、僕はその手の病気にかかったのかな。
でも、経験者を自称するブロガーさんによると、痛みを伴うしこりができると書かれていた。それに、ほんの一晩でここまで劇的に膨らむような症状ではない……はずだ。もちろん僕が読んだ記事に限っての知識に過ぎないのだけれども。
胸のことはひとまず後回しにして……。
僕には確かめないわけにはいかない問題がもう一つある。
せーのっ——
むんずっ!
「ひゃうっ!?」
変な声が出た。
今度こそ電流のような——まてまて、今はそんなことよりも。
いない、いないぞマイサン。どこ行った。
「どうなってんの、僕の体?」
ふたなりじゃなくて良かった。
……って、違う違う違う、違うっ!
これって完全な女性化ってこと!?
夢だ、夢に違いない。今すぐ覚め——
「お目覚めですか」
「わひゃっ」
肩が跳ねた。先ほど自ら揉みしだいた柔肉がたゆんと揺れる。
声のした方へ振り向くと、つぶらな瞳と目が合った。綺麗に透き通った碧眼だ。
じゃなくて。
この部屋、僕の他にも人がいたのかっ!
「誰っ?」
「あなた様の使用人でございます。御用の向きはなんなりと仰せ付けくださいませ、ご主人様」
「ほえ? 主人って……。ええと、お嬢ちゃん、何言ってんのかな」
そこにいたのは蜂蜜色の髪を三つ編みの二つ結びにした少女。
身長は目算で百四十センチ程度だ。幼女のようなあどけない笑顔を向けてくれている。柔らかそうな丸みを帯びた頰と相まって、僕の頰を無条件に緩ませるには充分だ。警戒心というものをまるで抱かせない佇まいなのである。
なるほど、彼女が身に着けた濃紺の衣装は僕のイメージするメイド服に近い。ヘッドドレスとフリルエプロンは清潔さ際立つ純白。
ミニ丈のスカートの裾からはストッキングに包まれていない細い足を晒しており、その点に限ってはメイドらしくない。しかしまあ、それはそれで幼女と少女の境目と思しき彼女によく似合うコスプレと言えよう。
「お嬢ちゃん、お名前は?」
「メイド」
えーと。
この娘、からかってるのかな?
「いやいや、それは職名でしょ」
「特に不便ではございますまい。御用の際は私の方を向いて手招きしていただければ馳せ参じます」
名乗りたくない理由でもあるのかな。なら、その事情を詮索するのは野暮ってものだ。
おっと、いかんいかん。また流されてるぞ、僕。
女性化、見知らぬ部屋、メイド少女。
こんな現実あるもんか。
夢だと言うにはやけにリアルだけど、現実そっくりなネットゲームの世界に迷いこんだと思うと楽しいじゃないか。
まあ、そんなことあるわけないけどさ。
それより、せっかく可愛いメイド少女との会話イベントなのだ。僕としてもロールプレイっぽいノリで少し付き合うとするか。
「だめよお、そんなに可愛いのに名無しなんて。僕が名付けてあげる。……そうね、『レモニィ』なんてどうかしら?」
メイド少女の頰に朱が差した。
「レモニィ。我が名、レモニィ」
両手を頰に当て、両目をうるうるさせている。
困ったな。ニックネームのつもりで軽い気持ちだったんだけど。予想外の反応に、僕は狼狽えてしまった。
「ご、ごめん。気に入らなかった?」
「いえ、逆ですご主人様。最上の感謝と永劫の忠誠をもってお仕えいたします」
「そんな大袈裟な。レモニィってば小さいのにすっごく古い言い回しができるのね」
「ご主人様。レモニィは確かに小さいですが、まもなく十五歳という設定でございます」
「設定だなんて。ふふ、冗談言えるんだ」
口から漏れる笑い声やら、反射的に口許に手を当ててしまう仕草やら……。
たった今、この僕がしたことなんだけど、妙に女性的っていうかなんというか。
自分の声だとか、胸があることだとかを意識したせいか、男の時の普段通りに振る舞うことの方が逆に恥ずかしいような気がしないでもないし。
ロールプレイを意識した途端にこれだ。僕って本当、流されやすいなあ。うん、まあ自覚はあるんだ。あまりやり過ぎないように気をつけようっと。
——はて。僕って、普段どんな笑い方してたっけ?
やばい。いまひとつ思い出せないような……。
ま、いっか。今はそれよりもレモニィだ。
「それにしても、その服可愛いわね。もちろんレモニィ自身もね」
「この服装がお好みでございますか? でもこれは従者としての制服のようなものです。このようなメイド服はございませんが、もとの主が可愛い衣装を取り揃えてくださっています」
「もとの……主?」
「ご安心を。もちろん、お召し替えはこのレモニィがお手伝いいたしますので」
あれ、スルーされた。
そういや僕、自己紹介してなかったな。
気を取り直して、と。
「あ、そうだ。僕は——」
「承知しております。喜悦の巫女、アユ様。ようこそ【ルブイエ】へ」
「——な!?」
可愛らしくスカートをつまみ、カーテシーの動作をして見せたレモニィ。
しかし、そんな視覚情報を彼女の言葉が上書きした。
ルブイエというのは、この世界の名前。正確には、僕らの世界で言うところの「日本」に当たる、この国の名前だ。
そして喜悦の巫女アユというのは、固有名詞を持つ数少ないNPCの一人である。NPCというのはノンプレイヤーキャラクターの略。ならば、ここはゲームの世界だと言うのだろうか。ネトゲ「コンクエスト・オンライン」の。
周囲を見回す。ここはこれまでプレイヤーとして、パソコンの画面を通して見てきた二次元の世界ではない。現実と何ら変わらない三次元の世界なのだ。
しかし、言われて見ればこの部屋の内装、なんというか、それっぽい。ゲームの中ではアユの邸の内側まで描写されることはなかったので、想像に過ぎないのだけれども。
……って僕、なに考えてるんだ。
「やっぱり夢だよな。夕べ寝落ち寸前までやってたネトゲの中に僕自身がいるなんて。しかもプレイヤーじゃなくてNPCの、しかも女の子になってるなんて」
僕は
「わひゃん!」
びっくりした。
「もう、なにすんのよ! レモニィ」
胸揉まれたっ。心構えができてないせいか、自分で揉むのとは刺激が違う。
素で叫んだというのに、ついオネエ言葉になっちゃったじゃないか。
「アユチ様が在わした世界ではどうなのか、このレモニィ寡聞にして存じ上げませぬ。でも、少なくともここルブイエにおいては、『僕』と仰るよりは容姿に合った一人称がございますよ」
「容姿に合うとか、レモニィが言う? 説得力が——あれ。僕がいた世界って……、あ、アユチって言った? 僕、本名名乗ったっけ」
「はい。もとの主から聞いておりますので」
「ふうん」
やっぱり夢だ。ゲームのキャラに個人情報知られているわけないし。そのうち覚めるに違いないよね。
でも、もしかして……いやいや、でもじゃないっ。
ぜったい夢だ。たとえたった今レモニィに胸を揉まれた感触が、どれだけリアルに感じられたとしても……。
やばい、じっくり考えたらダメな気がする。覚めない夢なんてない……はずだ。
別のことを考えて気分を入れ替えよう。
喜悦の巫女アユは「巫女」の通り名を得ているものの、神職に就いているわけではない。
互いに国の覇権を競い合う四つの勢力の内の一つ、エルドール。その守りの要としてドラゴンを使役する力を持つ少女なのだ。
エルドールには形の上での領主が存在するが、アユの立場はそれより上に位置付けられている。
ネトゲ「コンクエスト・オンライン」は四つの勢力による陣取り合戦ゲーム。ただし、アユ自ら戦いの先頭に立つことはない。
ある条件が整ったとき、巫女としての力を必要とされるのだが、その役目はあくまでドラゴンを呼び出すための舞を披露するのみ。
だから僕は焦る必要はないんだ。
もし僕の身に降りかかっているこの事態が、ネット小説とかで何度も読んだ異世界転移だとか転生なのだとしても、戦いに駆り出されることはないのだ。もとの世界に戻る方法だってすぐに見つかるだろう。
今から思えば、そんな風に考える時点で、この事態が夢などではないことを既に確信していたのだと思う。
その上で、状況を楽しむ余裕さえあったのだ。そう、この瞬間までは。
「さて、もとの主からの伝言をお耳に入れましょう」
「え?」
そして、その瞬間がやってきた。
「やっほー、アユチ。あたし、ずっとあなたの世界に憧れてたの。あなたの身体もとても気に入ったわ。もう、ずっとこちらで生きていこうかしら。あなたも、あたしの身体好きにしていいからね」
レモニィの口から飛び出た声は、聞き慣れた僕自身のもの。
なんだこれ。リアルタイムの通話なのか?
「ちょ、まってよ。お前、マジでアユなの?」
「そう言ってるじゃない。あなたの部屋で、あなたの身体を使わせてもらってるわよ」
あ、やっぱり双方向の通話だった。
「お、おいおいおい、アユ。お前、なに勝手に僕の身体乗っ取ってくれてんの!?」
「あら、あたしは同意の上だと思っているわよ」
どうでもいいけど僕の声でオネエ言葉はできればやめてほしいな……。
「アユチ。今多分あたしと同じこと考えてたわね。あたしとしても、あたしの声で『僕』だなんて、ちょっと違うかなと思うわよ。でもさっきも言った通り、あなたの好きにしていいのよ。やめてなんて言わないわ」
「そんなことより、同意ってなんだよ。身に覚えがないんだけど」
「知ってるのよ。あなた鏡の前で——」
ふえ!?
なななな何を知っているのですかアユさんっ。
「『ハニィドラゴンを呼び出す舞、僕ならこう踊る』って、振り付けしてくれてたわよね」
「待って! どうやって見てたのさ、それ」
「ふふ、あたしのグラフィック表示の時、パソコンの画面を通じてあなたの様子を覗き見ることができたのよ」
なんだと恥ずかしいっ! 穴があったら入りたいっ!
「あなたの舞、本当に素敵だったわ。あたしをイメージして作ってくれたコスプレも完璧だったし。踊っている瞬間だけは、少なくとも本気で思ってくれてたわよね。——あたしになりたい、って」
いやー!
今すぐ封印したい僕の黒歴史っ!
「アユチのその想いが強かったからこそ、奇跡が起きてあなたの姿を見られたと思っているの。それも何回も、ね」
な! 何回も見られてたの!?
「あら、とても素敵な舞だと思ったわ。システムに組み込まれたあたしの舞なんかより、ずっとずっと」
「え?」
その声には羨望の響きが含まれていて、僕は思わず小首を傾げてしまった。
「『心』のこもった舞だった、ってことよ」
「…………」
「あたしはいわゆる成長型AI。プレイヤーとの会話をある程度能動的にこなすことを目的に開発され、ゲームに実装されたの。でも……」
レモニィが目を伏せる。
その様子は、まるでレモニィを依代としてアユが憑依しているかのようだ。
「いくら成長しても、予めシステムに組み込まれたものについては——舞ひとつでさえ、あたしの自由には変えられない」
——この身体を自由に動かす手段が欲しい。
——あたしという自意識が命じるままに、自由に動かせる身体が欲しい。
ゲームという閉鎖世界の中で、いつしか彼女はそればかりを考えるようになったという。
「ドラゴンが使うことのできる、世界そのものに干渉する魔法。あたしはそれに賭けた」
「ま、さか」
アユが言おうとしている内容に予想がつき、僕は掠れた声しか出せなかった。
「ずっと試すつもりだった。あたしの考えた最適解。あたしを自由に動かせる存在。あたしが自由に動かせる身体」
世界に干渉する魔法。なんてことだ。その影響はゲーム世界のみに限られず、現実——僕にとっての現実世界にまで及ぶと言うのか。
「お、おいおいおい。それじゃ、僕が元に戻るには——」
「そうそう、条件があるの」
「な、なんだよ」
「ふふ、そんなに難しいことじゃないわよ。少なくともあなたにとっては」
彼女——ゲーム組み込みAIであるアユが言うには、彼女自身が再びこの身体に戻ってもいいと思えるように、複数パターンの舞を振り付けておいてくれ、とのことだった。
まあ、それくらいならお安い御用なんだけどさ。
「あなたならAIじゃないのだし、システムの制限も受けないはずよ」
「ん? はず?」
「あたしだってまさか本当に入れ替われるなんて思わなかったもの。断言はできないわ」
冗談じゃないぞ、無責任な。早く元に戻してくれ。
「次の機会を楽しみにしてるわね。早くて半年後かしら。それじゃ、その時まで」
「は……ん……」
その言葉を聞いた途端、僕の頭の中は真っ白になった。
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