人魚姫

今日、喪服の男を二人、目撃した。

細長いメンソールの煙草を線香代わりに

独りは、木造モルタルのボロアパートに花とメザシを

もう独りは、高級マンションに花とカウベルをそれぞれ手向けていた。


三人目の喪服の男。

それは私のことだ。

彼女を想い美しい花だけをチョイスした極彩色の花束を抱えて『人魚姫』の絵本をバックに収めて私は、姉に会いに行く。


車で行けば直ぐの所だった。

私は、今一度、あの感覚を思い出したかった。あの大冒険は、子供の為にあった。

だから、姉さん。

あの時に従って、電車を選択したよ。

たかだか、380円の大冒険だよ。


平日の昼間。

海へ向かう電車は呆れるくらい空いていた。

誰一人いない車輌の端っこにもたれて、私は『人魚姫』のページを開く。

姉が何度も読み聞かしてくれた絵本。

綴じた糸はほつれ、ページの端が手垢で黒ずんでいた。


姉とは腹違いで歳が離れていた。

姉が赤飯を炊かれて赤面していた頃に私は産まれた。

父が蒸発してからというものキッチンドランカーに成り果てた母とは違い、理想的な母性で姉は私を包んでくれた。

姉は傷だらけだった。

白く決め細やかな肌に赤い痣が鮮明だった。

母に虐待されていたのだ。

血の繋がらない姉を罵倒する母と

暴力にうずくまる姉と

寝たフリをする私。

思い出すだけで、吐き気がする。


家庭環境は見事な地獄絵図だった。

私の救いは姉。

姉も私の存在が救いになっていたのだと思いたい。


ふと、絵本から目を離すと、じーっと私を見る幼い女の子と目が合った。

隣に座る母親らしき女性は眠っていて外を眺めるのも飽きた彼女は暇を持て余しているのだろう。

だから仕方なく、私を観察しているのだ。

私は彼女に近づき、花束から黄色い花を抜いてプレゼントした。

私の気まぐれに、彼女は全開の笑顔で応えた。


そうだ、あの時の私も笑顔で黄色い花を受け取ったのだ。

河川敷に咲く名も知らない小便臭い花だよ。

姉は、それを私の頭に挿すと、悲しげに微笑み返す。

「カラスが鳴くね。夕焼け小焼けが綺麗だね」

でも、カラスが鳴くからって帰るわけにはいかなかった。

追い出されたのだからね。

母はとっかえひっかえ男を家に連れ込み

数多の男に空洞の心を体液で満たしてもらっていたんだ。

朝までお家に帰れない。


姉は夕焼け空を見上げてぽつりと言った。

「海も赤いのかな」


海が見えてきた。

さっきの女の子は私があげた花をくるくると回して海の青さに心を躍らしている。

姉と見た海の色。本当に赤かったのか、それとも、青かったか。

思い出せない。

コールタールのような重たい黒色の上澄みを除けない。


海は静かに水面を揺らしていた。

私はしばらく水平線に目をやり、煙草を一服。

味がしない。咳き込むだけだった。


煙草を揉み消す。

波がつま先を濡らす。

その波が引く前に花束を海に放った。

ゆっくり、ゆっくり遠ざかる。

それに姉の最後の姿を見た。


殺していた感情が息を吹き返す。

波打ち際に額を押付けて、波を前髪で感じながら、嗚咽した。


姉さんが遠ざかっていく。

手を振っている。

私は手を振りかえす。

『強い子になれよ、じゃあな』

枕元で聞いた父の最期の言葉を繰り返し叫んで、沈む姉を見送った。


人魚姫は、海の泡になって消えたという。

儚く、美しく、消えたという。

愛する王子様を想いながら…


しかし、それは装飾の『嘘』だ。

人魚姫は、人間のまま、死んだのだ。


海の泡は、彼女が海中で吐き出した息の成れの果て。

もがき、苦しみ、死んだのだ。

居場所無き地上を憎みながら…


姉が最後に教えてくれた事。

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