第25話 夢現の世界に嬉しいも悲しいもないわ(夕霧談)

 二人は見合ったまま動かずレイラの生唾を飲み込む音だけが響いた。

 覚悟を決めたようにレイラが黙って頷くと、煙管キセルが下に傾くのを感じ取ったのか、夕霧は苛立ちを隠そうともせずに煙管を引き寄せ掴むと出口の襖へと投げ付けた。

 レイラは突然の出来事にビクッと体を震わせた。



「馬ッ鹿みたい! あなた分かってるの? ここが、どんな場所なのか? 年季が明けた遊女がどんな暮らしをするのか? 幸せになんてなれない。常に死合わせだわ!」



 突然の夕霧の剣幕に物怖じしないレイラも気圧されており、突っ立っているのが精一杯だった。



「何で、そんな自分の事でもない願いに自分の一生を棒に振るのよ。子どもだから分からないでしょうけど、あなたには帰る場所も待つ人もいるのでしょ? 」



 ようやく落ち着きを取り戻したレイラは煙管を拾うと、見様見真似で吹かしててみせた。



「夕霧の匂いがかすかにするのぅ。わらわも後五年もすれば似合うじゃろうな」



 レイラの言葉に夕霧は思わず表情を緩めた。



「十年の間違いじゃないかしら。でも、胡蝶なら似合いそうね」



 レイラは満足そうに笑うと煙管を夕霧の手に握らせた。



「わらわは、たまたまイチと出会えたから生きておるが、出会えてなかったら死んでるか遊女になってるかじゃろうな。わらわが遊女になっても年季が明けるまで勤めて必ずイチの所に戻る。まぁ イチのことじゃから莫大な大金を用意して年季明けもせずに身請けするじゃろうから死ぬよりはマシじゃ。今のうちイチには金を貯めてろと文でも書こうかの」



 夕霧はレイラに手招きをしレイラが近付くと、引き寄せ抱き締めた。



華奢きゃしゃね。もっと食べなさい。胡蝶、良いわあなたが本気なら私も政吉様に会いましょう。でもお兄様には会いたくない。お兄様はあたしを売ったもの」



 咄嗟にレイラは離れると夕霧の膝に両手を置いて夕霧を見上げた。



「それは違う。道休どうきゅう……刀宗とうしゅうも坊主に騙されておったのじゃ」



「嘘ね。お兄様はお金で私を坊主に売って、自分だけ良い暮らしでもしてたのでしょ。私を手篭めにした坊主が言ってたもの。抵抗しても無駄だと。私は兄に売られたから帰る場所も待つ人もいないと。そこから私は現実を捨てたわ」



 レイラは自分の言葉だけでは伝えきれないのが、もどかしいのか地団駄を踏んでは、両手で拳を握り夕霧の腿を叩いた



「そんな初めて会う坊主と、優しかった兄のどちらを信じるんじゃ! 馬鹿なのは夕霧の方じゃ!! 」



 両方の手から振り落とされるレイラの握り拳を夕霧は掴むと、そのまま上へと持ちあげた。レイラの目からは涙が零れ落ちていた。



「胡蝶。理由なんて後付けでどうにでもなるのよ、私はお兄様を憎んでいるし恨んでいる。待っても待っても来ないお兄様なんて知らない。私は夢芽なんて知らない。私は『夕霧太夫』だわ。だから夢芽何て知らない子の為に泣かないで」



「そちの兄の想いを言葉で伝えられない、わらわが歯痒く、そちの兄に申し訳なく泣いておるのじゃ」



 掴まれていた手を夕霧が離すとレイラの腕は、だらんと下がり膝から崩れその場に座り込んでしまった。



「胡蝶、政吉様の命は長くないのよね。明後日の昼過ぎには政吉様の元に向かいましょう。こんな悪夢は早く終わらせて、普通の夕霧でいたいわ」



「分かったのじゃ。明後日の鐘の音が昼八ツ(午後14時に)を告げたら出発じゃ」



「分かったわ。私が向かうから待ってて良いわよ。それと準備があるから、もう出てってちょうだい」



 その言葉にハッとするとレイラは立ち上り頭を下げ座敷を後にした。

 段梯子を降りていると、下で鈴蘭が待ち構えていた。



「夕霧太夫の座敷にいたのかい。サンザ様が表で待ってるから早く行きな」



 急いで階段を降り小走りに表へ出ると、勝手口を過ぎた当たりで首根っこを掴まれ、ひょいっと上へと持ち上げられた。



「レイラ、俺の脛を良くも蹴ってくれたなぁ。 弁慶でさえも泣く程痛いところだぞ」



 レイラは宙吊りのまま顔だけを三左衛門に向けた。



「なんじゃ。そんな事を言いに来たのか? わらわは忙しいのじゃ」



 三左衛門は舌打ちしながらレイラを地面に降すと手を差し出した。レイラは不思議そうに眺めてから三左衛門の手を握った。



「だぁー 何でお前と握手しなきゃならないんだよ! 文だよ、文。道休の文にも書いてあったんだろ? 作戦決行日と内容が! だからお前も返す文とかあろうが」



 三左衛門が手を振り解くとレイラは握手した手を見つめ、着物のたもとに擦り付けた。



「なんじゃ 汚いのう。握手しなくて良かったなら、しなかったのじゃ。文も訳あって一枚目しか読んどらん」



「俺の手は汚くねーから。意外と潔癖症だからな。あ~ やっぱりか。道休の言ってた通りだわ。もし、レイラが手紙を読んでなければ伝えてくれと言われててな。二度手間だが道休らしいな」



 三左衛門はキョロキョロと辺りを見回してから、しゃがみ込むとレイラの耳元に手を当てがい話し始めた。

 聞いていたレイラは途中途中で唸ったり笑ったりと忙しかった。



「良かろう。わらわもその通りに動こうぞ、時間は昼八ツ過ぎじゃ」



 三左衛門は立ち上ると袖から布袋を取り出しレイラの手に握らせた。



「ほら、市蔵からも預かってたんだが、金平糖だとよ。市蔵もお前には甘いよなぁ」



 レイラは布袋を受け取り紐を解くと、目を輝かせた。



「ほぉ。袖の下と言うやつじゃな。お主も悪よのう」



 三左衛門は大袈裟に胡麻をする様に手を揉んでから肘でレイラの頭を小突いた。



「ウヘヘへ。レイラ殿には負けますぜ」



「笑い方が気持ち悪いのじゃ」



 レイラはひじで小突かれたのにムッとしすねを蹴ってから急いで中へと戻っていった。後ろからはまたも三左衛門の悲鳴が響いていた。



 雑魚寝部屋へ戻るとレイラは瑪瑙めのうを通じ琥珀を呼び寄せ、琥珀がやるべき事を説明した。

 琥珀はそんな簡単な事で良ければと快諾し、後は明後日を待つばかりであった。



 明後日、鐘の音は八ツを告げ少しすると雑魚寝部屋へ夕霧がやってきた。夕霧は花魁特有の帯を前結びから、通常の後ろで結んでいた。



「瑪瑙。わらわは夕霧姉さんに芸事を指導してもらう故、遅くなりそうじゃ」



 部屋を出ていこうとしたが忘れ物でもしたかの様にレイラは戻ると、薬研やげんの隣に置いてあった布袋を指差した。



「これは大切なものじゃから、わらわが戻るまで見ておいてくれんかのう? 」



 瑪瑙はキョトンとしながらも頷いては、手を振って見送ってくれた。



「夕霧よ。手を繋ぐのじゃ」



 夕霧とレイラは手を繋ぎながら内証を抜けようとすると、鈴蘭が声を掛けてきた。



「手なんて繋いじゃってどこに行くんだい? 」



 不安からか夕霧の握る手に力が入りレイラは力強く握り返すと、雑魚寝部屋から腹に手を当てながら苦しそうに歩いてくる瑪瑙の姿が映った。



「す 鈴蘭姉さん。お腹がい……たい……」



「変なもんでも食ったんじゃないのかい? まったく」



 尋常ではない痛がり方にレイラも心配すると、瑪瑙はうずくまりながら叫び出した。


「いたい。いたい。いた~い」



「もう いやんなっちゃうね。お前みたいな禿に反魂丹はんごんたんは勿体ないけど仕方ない、持ってくるからお待ち」



 鈴蘭がいなくなると瑪瑙は蹲りながら顔を上げて片手で丸を作り微笑んだ。



「瑪瑙、恩に着る。瑪瑙は千両役者じゃ」



 レイラと夕霧はその間に福来屋を出ると、夕霧はいったんレイラの手を解き、空いた手に持っていた被衣きぬかつぎを腰の帯の辺りで結び、顔を覆うと前方でつぼねた。



「夕霧よ。被衣で両手が塞がるのは致し方ない。わらわの後を着いて来れるかの? 」



 夕霧が頷くのを確認してから一目散に大門へと向かった。陽も高く人通りもそれほど多くはなかったが、夕霧太夫の顔は花街では知られているので、早く出るに越したことはない。

 大門付近では各妓楼から金で雇われた自警団染みたゴロツキ供が溜まっており、駆け落ちや逃げ出すものがでないように見張っていた。

 レイラは大門の少し前で立ち止まると、うろつく琥珀の姿が見えた。



「ぐぬぬ。琥珀は首尾良くやっておるが、サンザはどうしたのじゃ!」



 琥珀は大門の前を行ったり来たりしているだけで、怪しんだ見張りが琥珀に声を掛けようとした時であった。



「女を追えーーーー」



 レイラの後ろからは大声で叫びながら走ってくる三左衛門の姿があり、その姿はだんだんと大きくなっていった。そしてレイラを追い越そうとした際に三左衛門は横目でチラリとレイラを見た。



「うっ 酒臭いのう! あやつ絶対に飲んでおったな!」



 三左衛門は酔っているのか赤らめた顔とデカイ図体を揺らしながら叫ぶと、うろついていた琥珀が走り出した。



「見張りども、その女は逃げようとしている捕まえろ! 」



 ゴロツキ供は花街でも一目置かれている三左衛門に怒鳴られると、一斉に琥珀の後を追い始めた。



「ボーッとしてんじゃねーよ! 奴を追えーー お オェーーーー」



 大門が空になるのを見届けてからレイラと夕霧は走り出し、膝に手を付き息を切らしている三左衛門の横をすり抜けた。



「なんじゃ! サンザの最後は吐いているのではないか! この、よたろうが! 」



「うるせー 旅籠屋で道休が待っているから、そこに向かえ。俺はやる事はやっただろ、早く行……ゲァ、ビチャボトボトボトボト」



「酒が抜けとらん内に走るとそうなるのじゃ。熊丹丸ゆうたんがんでも飲んどくのじゃな」



 後ろ向きに走りながら三左衛門に告げると、レイラは前に向き直り少し走ると大門を潜り抜けた。



「よし旅籠屋に向かうのじゃ」



 レイラは隣で息を乱す夕霧に話し掛けたが、被衣のせいで夕霧の表情までは見えなかった。

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