哲学少女 ユリカ

TT

哲学少女 ユリカ 「萌えとフェミニズム」

私は人より少しだけ「悩むこと」が好き。


インターネットや書籍でいろんな人の意見を見ては「ああでもない、こうでもない」と自分なりに考えてみることが好き。


自分で考え抜いて出した結論が、少なくとも自分に取っては最高の結論であるはずだ。


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月曜日の朝、3重にかけた最後のアラームと一緒に眠い目をこすりながら一週間が始まる。


私はユリカ。日本生まれでニューヨークの郊外に住んでいる大学生。

分野を問わずいろんなことを勉強したかったのでアメリカの大学に来たはいいものの、時折「日本でも変わらなかったかなあ」などと考えるごく平凡な女子大生。


「先週はオートミール週間だったし、今朝は目玉焼きにしようかな」


欲を言えば白飯に味噌汁、焼き魚……。やはり私は根っからの日本人なのかな、と思う。

多少海外に住んだ程度で「染まる」のは自分に芯がないか、勘違いしているだけだ。


ラジオをつけて、寝ている間に更新されたまとめサイトやSNSをチェックする。

どうやらVTuberがノーベル賞の解説をしたことで物議を醸しているらしい。


「私の可愛いアイちゃんになんてことを言うんだ」


くだらないことを呟きながら渾身の目玉焼きをトーストに乗せる。

半熟に盛り上がった黄身の上に山盛りの砂糖、そこにそっと醤油を垂らす。


「和の心をいただきます」


そんな和の心はどこにもないだろう、ともうひとりの自分がツッコミを入れるのを無視して朝食を頬張る。あ、お茶を入れ忘れた。



誰かさんたち曰く「萌えキャラは女性蔑視」だそうだ。

萌えと言うのは性的に消費される対象である、と言うことなのかな。

かつて「萌えなんてくだらない」と言っていた人たちがそれを盾に持論を展開するようになったんだから、それは大きな変化だよなあ、などと思うが問題はそこではない。



こうして何かをひとくくりにして「萌えキャラ」という批判をする人たちは実は本質的なことは考えていないのではないだろうか。主語が大きいと叩かれるなどとは言うが、問題は批判する対象への知識の浅さだ。何かを批判するのならそれ相応に知識をつける必要がある。



「日本人なんて〜」とか「アメリカ人は〜」と言う人にとっての「日本人」や「アメリカ人」と言うのは大概とても薄っぺらな概念である。それらは「性質」ではなく「集合」であって、「日本人ならばこう」「アメリカ人ならばこう」と言う一般化は暴力的だ。対象を深く知っていればそんな曖昧な定義はできるはずがないので、そう言う批判をする人は実は何も知らない。「あまり強い言葉を使うなよ」と言うやつだ。



お湯が沸いたようなのでお茶を飲んで落ち着こう。


今朝は何にしようかな、もらったアールグレイがなくなりそうだから飲み切ってしまおう。和の心はどうした、という心の声に「紅茶も緑茶も同じ茶葉だよ」と返す。おい一般化。



近所のアンティークショップで買った白磁のティーポットを温め、茶葉を入れる。オートミールに入れていたドライラズベリーが目についたので一緒に入れてみよう。美味しくなるかな?




紅茶が入るまでの間、ざっと双方の意見に目を通す。

反論側も「フェミニスト」という括りで応戦しているあたり、どっちもどっちなのだろう。



結局のところ立場や意見に善悪や貴賎はないので、どちらの立場に立ったっていい。それを自分の信念として据えることだけが必要だ。


「どうして萌えが消費されてはいけないんだろうなあ。私はアイちゃん好きなのに」


肯定派はあるがままにしたい言うのはわかる。しかし萌えが消費されることを否定する人たちは、どうなることを望んでいるのだろう?



きっと始めは「萌え」を殲滅したかったわけではない。「女性を守ろう」と言う意識がおかしな形で表出してしまっただけなんだ。私が立場に善悪などないと考える理由でもある。



しかし皮肉なもので、「女性を守ろう」と言う目的から出発した人が「被害にあう女性を撲滅しよう」とした結果「被害にあう女性そのものを消そう」としている。「二次元のキャラに女性としての人格を認めつつ、存在を否定する」理屈は少しちぐはぐだ。守るために殺す、まるでヤンデレの妹だ。



「スカートは扇情的だから痴漢されても諦めろ」は理論の暴力だけれど、「萌えで女性キャラクターを消費するのは良くないことだから萌えキャラを失くせ」と言うのも同じくらい暴力的だ。みんな極端なことしか言えない口になっちゃったのかな。タイプしてるんだから指か。



気になってティーポットの蓋を開けると、ラズベリーは生き返っていた。嘘。でもまるであるべくしてそこにあったみたいな佇まいで素敵な香りだ。きっと美味しい。



世の中にあるいろんなものは、偶然か必然かを問わず「そこにある」から現実なのだ。それをなかったことにするのは不可能なことで、それとどう付き合っていくかを考えるしかない。空腹は無くせないから美味しいものを作ってきたし、病気は無くせないので治療する方法があるのだ。



私がポリコレの一番の問題だと思うのは「問題に名前をつけてしまったこと」だと思う。


同性愛は悪ではないし、あるのだから現実として付き合っていくしかなかったのに、そこにLGBTという名前をつけてしまったがために「マイノリティー」としてラベリングされる人が輪郭を持ってしまった。「女性を守ろう」とする人たちによって「フェミニズム」が生まれ、「女性の立場」が誰かに守られる対象になってしまった。



その瞬間それらの現実は当事者の手を離れる。きっと本人の望まない議論がたくさん交わされているんだろうな、と思って少し悲しくなる。無関係な人たちの見当違いの努力は必ずしも幸せを運ぶものではない。良し悪しはなくとも、ヘンテコな努力というのは間違いなくあったのだ。



朝っぱらから考えすぎてしまったようで、気がつけば時計は8時前を指している。せっかく起きたのに遅刻しては元も子もない。淹れたての紅茶は猫舌の私には少し熱すぎるので、ボトルに入れて持っていこうと思う。大事なのは付き合い方だ。


ポットから移される紅茶はいつもと同じ色なのに、ほんのり香るラズベリーの香りで今日も一日頑張れるような気がした。

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