5章

【5章 前編】

 その日、昼過ぎから降り出した雨は、いまだ止むことはなかった。

 シトシトと庭の木の葉に当たる音から、ときにはザーッっと家の壁や窓を打ち付ける雨音に変わる。


 私は住み慣れたはずの自室に、若干の居心地の悪さを感じながらも、じっと部屋の隅に丸くなって、置かれた状況の深刻さからくる絶望感に愕然となって震えていた。


「どうすればいいのよ……」


 制服のポケットから、あの結晶を取り出して一心に見つめる。

 最初に見たときとほぼ変化はなく、リングが緩やかに自転している。


「この結晶の秘密も……そう簡単には解けそうにないし」


 部屋の置き時計は十七時を回ったところだった。


 玄関のあたりから少し慌ただしい声がしたあとで、自室に近い階段から足音が聞こえてくる。

 階段の板を踏む音はひとりぶんのものしか聞こえなかったので、由那かこの世界の『ミナ』のどちらかが帰宅してきたのだと想像できた。

 弱々しい足取りはこの部屋の前で止まり、ドアハンドルが静かに下りると、ゆっくりと部屋のあるじが入ってきた。


 …………!?


 何故か雨でずぶ濡れの姿になって、こちらのミナは消沈して帰ってきていた……。


 朝は晴れていたので傘を持って行かなかったのはやむをえないとしても、私は学校のロッカーに折りたたみ傘を常備していたので、こんな羽目になるはずはまずない……と思うが。


 自分の過去の記憶を振り返って、こんな日があったのかと思い出してみる。


 去年の六月十四日。


 ――そうだ。この日は雨の中、傘も差さずに家へ帰った……。


 それは、由那がシュウに告白をして、正式にふたりが交際すると決まった日。


 私は小さい頃から一緒だったシュウのことが、物心ついたときには好きになっていた。

 でも、それと同じくらい妹の由那も大好きだったし、由那もシュウのことが好きだということはわかっていた。


 だからこそ由那を傷つけたくなくて、仲のいい幼馴染として接するように心掛けていた。

 そこに、いつしか自然とマリアも輪に入ってきて、ずっと四人でこの関係を続けていきたいと願っていた。


 けれどこの日、ついに由那は告白をして、それまでのバランスは音をたてるように崩れてしまった……。

 私は、シュウと由那のふたりから切り離された気がして……。雨の中、傘を差すのも忘れて打ちひしがれながら帰ったのだった。


 ふたりは悪くない。いずれどちらかと付き合うことは、自然な成り行きだったはずなのに。


 ――結局は、私に告白する勇気が無かっただけ。


 引っ込み思案の由那からは、告白なんてするはずがないと……。

 ずっと変わらない関係が続くと、思っていた自分が甘かっただけだ。


 そうだ、由那はああ見えて、ここぞというときの決断力は私よりも早い。


 もしも、私がこの一年前の世界に時間移動してきたことに、なにか特別な理由があったとすれば……。

 過去のをどうにか改変したいと、心のどこかで願っていたからなのかもしれない……。





 タオルで拭いても、ミナの髪の先やスカートの端から、まだ水がしたたり落ちてカーペットを濡らす。


「…………」


 濡れそぼった制服や下着を脱いで、部屋着のTシャツと短パンに着替えると、いま脱いだ衣服を抱えて、ひとことも喋らず一階のバスルームへと下りていった。


 これはが通った道だ。これからもはその道を辿ってゆくだろう。


「ごめんね。過去は変えられなかったのよ……」


 私の存在は誰からも認識されない。人に触れることも、物に触れることも、声で訴えることも封じられる。


 人間が時間移動したとしても、その存在はあらゆる干渉を禁止される。

 ゆえにパラドックスは起きない。起きようがなかったのだ。


 過去は絶対に改変できない。歴史は絶対に改変できない。世界は絶対に改編できない。

 過ぎたことは全て事実の結果だ。それを無かったことになどできないのだ。


 ――――。


 それから一時して、お風呂から戻ってきた彼女は、晩御飯を食べることもなく、無言のままベッドの布団にくるまって身を潜めて眠った。


 私はそんな彼女を部屋の片隅から見守って、朝を迎えることにした……。





 夜中のうちに降り続いていた雨は止んだ。夜が明けるとカーテンの隙間から陽光が差しこめる。


 ケータイの目覚ましで起こされたミナは、ベッドから上半身だけ起こすと、大きく伸びをして起床する。


 そのあと、両の掌で自分の頬を一度、ぱんっ! と、張ってベッドから颯爽と抜け出した。


 もう踏ん切りをつけたように、表情には迷いが見えない。

 そうよ、私はそんなにヤワじゃない。切り替えの早さには自信がある。


 昨日とは別人のように元気を取り戻した彼女が、朝の準備にと部屋からいなくなったところで。


「よし!」


 私はあることを決意した。


「パラドックスよ……」


 これは最大の賭けでもある……。私がこれから起こす行動によって、誰かに未来が変わるような行動をらせて、私がこの世界へ来ない未来をつくる。


 パラドックスの結果、ここへ来る原因が無くなることで、その矛盾を解消するために、私自身の存在・主観は消滅するかもしれない。

 だけど、少なくともこの時間移動のループを絶つことができる。


 昨日の彼女を見ていたら、私は『私』を助けたいと本気で思った。

 それで救われる別の世界の『私』がいてくれる。それだけが希望だった。


 むしろこの現状を打破するには、それしか無いと言ってもいい。


 絶対にパラドックスが起きない法則ルールが成り立っているこの世界で、パラドックスを起こすのは並大抵のことではない。


 …………。


「それでも、あたしはやってみせるわ!」


 真っ先に確かめてみたいことがあった……。私は結晶を握り締めて自宅を出た。


 向かったのは近所にあるシュウの家。玄関の鍵はかかっていなかったので、無理なく通り抜けてそのまま中へと押しかけた。


「おはようございまーす。おじゃましますねー」


 誰かに聞き取れているはずもないが、一応挨拶ぐらいはして家にあがる。


 子供の頃から何度も遊びに来ているので家の中の構造はよく知っている。遠慮なく奥へと進んでシュウの部屋へ突入する。


『シュウ、まだ寝てんの? 早く起きなさい』


 朝、世話焼きな幼馴染が起こしに来る。なんて漫画みたいなお約束のシチュエーションなどとは、いまはかけ離れている。


 予想どおり部屋の中にシュウは居た。でも、来るのがまだ早過ぎたというのも否めない。


 すぐ隣で、私が見ているとはこれっぽっちも思いもよらないだろう。

 いま起きたばかりの様子で、大きなあくびをしながら寝ぼけまなこを擦っている。


 流し見程度の理由で点けられたテレビでは、どこも似たような朝の情報番組が映されていて、画面角の大きな時計は、ちょうどいまが七時になったことを告知していた。


「まぁ、起きてるならべつにいいんだけど」


 早速、シュウの目の前へと回り込んで、その顔を見据える。

 数秒、ぼーっとしていたシュウは途端に正気を取り戻した。


 ……!


 あの時と同じだ。またも完全に目が合った。


「やっぱり……」


 推測は確信に変わった! シュウはこの場に何かを感じ取っているに違いない。


「シュウ! あたしよ、見て!」


 シュウに私の存在を意識させる! 簡単にうまくいくなんて思ってはいない。

 一度で無理でも諦めるつもりなんてない。何度も何度も繰り返して、私に異変があったことを認知してもらう。

 いずれシュウが未来を変える行動を執って、私の時間移動の原因を止めてくれれば必ずパラドックスは起きる。やってくれると信じる。


「お願い……ここよ!」


 必死で心に訴えかける。

 シュウの視線の先は、見えないはずの私を捉え続けた。


 ――――!


 それは、いきなりのことだった。

 部屋の空気が一度だけ、どくん……と、大きく揺れ動いて、空間が凍りついた。


 シュウは、瞬間を写し撮った写真みたいに固まってしまっている。テレビの映像も一時停止されて、そんな中で動けているのは私だけのようだった。


「これは……」


 この感覚は前にも体験したことがある。

 右手に握り締めていた結晶を、一本ずつ指を開いて確かめる……。

 やはりあのときと同じだ。謎の結晶は、ほのかに紫色に発光している。


「なにが始まるの?」


 以前と違っていると思えるのは、リングは逆回転には戻らず、さらに順回転で加速を続けた。

 すると結晶から溢れ出した光は、幾筋もの放射光となって空間を照らしていく。

 放出される光線は際限なく増幅して、まともに直視できず目を閉じずにはいられない。


 頭の中から、また意識がだんだんと遠くなっていくのを感じた……。


 ――――。


 遠ざかっていた意識が再び明瞭になって、感覚が戻ってくるのを感じる。

 空間をすべて照らしていた光の爆発の閃光フラッシュが徐々に収まっていくのがわかった。


 私は強くつむっていた目蓋を、こわごわと開いて自分の存在を把握する……。

 これが二度目の体験だったおかげか、すでに普通の体じゃないからか、あの恐ろしい暗黒虚無の感覚に襲われることはなかった。


「ん……ここは……?」


 確かに、ついさっきまで私が立っていた場所。シュウの部屋の中で間違いない。


「…………!」


 けれど、いままで目の前にいたはずのシュウの姿がそこには無い。


「えっ!? まさか……」


 慌てて部屋の中を見渡す。やっぱりどこにも見当たらない。


「消えた!?」


 イヤな予感。額に汗が浮かび出る……。

 パラドックスを起こそうとした所為で、シュウまでおかしな事故に巻き込まれてしまった……?

 事態が飲み込めず混乱で呼吸が荒くなる。


「そんな……なんで」


 手の中には、あの結晶が残っている。それならシュウはどうなってしまったのか……?

 私の体は……。部屋の壁際に立て掛けてあったスタンドミラーに目が止まった。


「やっぱりダメかぁ、まだ映ってないものね……」


 期待はしていなかったけれど依然として体の状態は変化なく、近くのテーブルに転がっていたテレビのリモコンにも触れられなかった。


「とりあえず、何が起こったのか……ちゃんと確認しなきゃ」


 あせって気が付かなかったけれど、よくみると部屋の状況にも何点か不自然なところがありに落ちない。

 来た時には点いていたはずの、部屋のテレビがいつの間にか消されている。


「このパターンは前にも……。もしかして、また時間移動があったの?」


 窓の外もさっきよりは明るいし、ハンガーに掛かっていたシュウの制服もいまは無くなっているので、学校に行っている時間に飛んだという可能性があるとも想像できた。


「いまが一体いつなんだか、それをはっきりさせたいわよね……」


 シュウの部屋にはそれがわかるような物が見つかりそうになかったので、違う部屋に移ることにした。


 慌ただしく廊下を走り、居間に来てすぐに必要な情報の確認はできた。

 掛け時計は九時十分を指していたし、テーブルに置いてあった新聞の日付は、まだ去年の六月十七日と書かれている。

 丸二日と二時間が経過した計算になる。


「これって……、五十時間進んだってことよね」


 何故そうなったのか、今は冷静に考えられない。

 まずはシュウの安否を確認する必要があるので、私は高校へ駆けつけた。





 当時一年生だったシュウの教室を覗いてみると、そこには無事本体があった。席に着いてしっかりと、何事もなく授業を受けている姿があり、ひと安心といったところ。


「よかった……。また、あたしみたいにとんでもないことになったのかと思ったじゃないの」


 どうしてこうなったのか? 正確な理由はわからないけれど、簡単に推理をするなら、私が無理やりパラドックスを起こそうとしたことで、ある種のパラドックス防止処理が働いたのだと考えられる。


 それなら、本来パラドックスが起こる前の時間に戻されてしまいそうな気がするものだけど、今回のように強制的にパラドックスを引き起こそうという意思があれば、また同じ行動を繰り返し、際限なく過去がループする。


 そうなれば、先にいた『私』と更に戻ってきた私が、暴走したナノマシンのように無限に増え続けるのではないか?

 もしくは、六月十五日という時間が永久に進まなくなることも考えられる。

 なので、逆に時間を進めることで、パラドックスを修復するような処理で矯正されたのだと考えたほうが自然かもしれない。


「けど……これは使えるかもしれないわ」


 この過去の世界と元の世界の時間の流れる速度が同じなら、永遠に追いつけないと思っていたことが、いまはほんの少しだけ近づいた……。


「これを続ければ、元の時間に戻れるってこと!?」


 問題は……、元の世界があれから何時間進んだのか、計算しないといけないことだ。


 最初の時間移動では、六月十三日の午前六時十五分から始まって、十五日の午前七時までだった。この間に四十八時間と四十五分をついやした。


「そして、いまの時間は……」


 教室の時計は九時二十五分。これは、シュウの部屋で現象が発生してから二十五分後になる。

 合わせて四十九時間と十分あまりが経過したことになっているはずだ。

 つまり、元の世界でもそれと同じだけ時間が進んでいるに違いない。


 左手首にある腕時計のリューズを回して、になる位置に合わせて停止させた。


 教室では授業の真っ最中だったけれど、それには構わずシュウの座席の前へと歩み寄る。


「シュウ、わかる? こっちよ……」


 さっきの事象で、シュウが私を感じ取れるということが偶然ではないことが証明された。

 ならば、同じことがまた起こる。

 次の瞬間、シュウはノートをとっていた手を止めて顔をあげると、不思議そうに何かを探して眼を泳がせている。ついに視線をこちらに向けて、今回も確かに目が合った気がした。


「…………!?」


 だが、何も起こらない。失敗……?


「おかしいわね、結晶の状態は……」


 咄嗟に制服のポケットに手を突っ込んで、結晶を掴み引き出すと。


 ――――!


 再び、激しい縦揺れの地震をくらったかのように空気が大きく波打ち震えると、視界に入る空間は全て停止した。


「わかったわ! 必ずコレに触れることで反応してるんだわ」


 自宅の玄関先で出会ったときは、直接触れてはいなかった。

 二度目や今回も、私が結晶に触れているときにだけ現象は発動した。


「シュウは違和感として感じ取れてはいるものの、発動条件としてコレがスイッチになっているってことね!」


 またも空間は結晶から放出される光で満たされて、次第に気が遠のいていく……。





 …………。


 目を見開くと、さっきとそれほど変わらない教室の風景。


「えっと、どうなったの?」


 振り向いて教室の時計を見る。十一時二十五分と数十秒。

 黒板の日付は六月十九日……。


「やった! 思ったとおりだわ。ちゃんと五十時間進めてる!」


 一度に五十時間しか進めないというのはもどかしいけれど、いまはこの方法に賭けるしかない。


 そこから私は時間移動しまくった。移動前より二時間ずつ時間がずれるので、学校内・登下校時・家の中と、いつでも何処ででも。

 さすがにシュウが眠っているときは無理だったし、休日などで本人を見失ったときに探すのは大変だったけれど、とにかく諦めずにシュウを追跡して、その都度私の存在を認識させ続けた。


 こういうとき疲労しない体というのは、なかなか便利だった。

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