第35話 懇願


 ああ、消えたい。

 ついに私は開けてはいけないパンドラの箱を開いてしまった気がする。ユウが生身の人間だったらもっと恐ろしかっただろう。

 こんな事態になってもまだかろうじて自分の貞操が守られているのは奴が幽霊であることに他ならない。


「いやあ盲点でしたねえ、こうすれば物越しに貴女に触れるなんて」

「ご、拷問だ……」


 今私の周りにはハンドタオルが一枚宙に浮いている。もちろんユウがポルターガイストで浮かせているものだ。

 それが風に吹かれているかのようにヒラヒラと私の体を撫でていく。まるで猫じゃらしのような感触で、触れるか触れないかくらいの微妙な圧力で撫でられ続けている。


 首、肩、腰……と順番に体のラインをなぞられている。

 ツラい。もう呼吸困難で死にそうだ。


「あの、く、くすぐったくて死ぬ」

「敏感なんですね」


 時計を確認すると七時半すぎ。起きてから三十分くらいだろうか、思っていたより時間は経っていなかった。


 今、ここで私は一つの重大な問題に直面していた。一刻を争う緊急事態。

 まあつまり、トイレにいきたいだけなんだけど。くすぐられているせいで我慢もしづらい。


「あのさユウ」

「なんです?」

「五分、いや三分だけでいいんで腕をほどいてもらえないかな……?」

「どうして?」

「それは、察してもらえるとありがたいんだけど」

「逃げたいんですか?」


 それもある。と言いかけて寸前で飲み込んだ。これは言ってはいけない。


「そ、そうじゃなくてね。人間というものには生理現象というものがありまして」

「……ああ」


 もうどうでもいいから早くしてほしい。平静をなんとか保ちつつ、私は努めて穏やかに言葉を発した。


「なるほど、僕にはその現象がないので忘れてました」

「頼む……お願いします」

「そうしてあげたいのですが、どうやら干渉できないみたいで」


 は? 意味が分からず首を限界まで後ろにひねって縛られている腕を見た。タオルのようなもので縛られている。

 ユウが私の腕に触れようと手を伸ばしているけど、いつものようにスカスカと空振っていた。


「縛るときは普通にできたんですけど、もうこのタオルは貴女の体の一部になってしまったんでしょうね。貴女の服に触れないように、これにも触れなくなってしまいました」

「う、嘘でしょ」

「その絶望顔いいですねえ」


 私はてっきりユウが満足したら解放してもらえるのだとばかり思っていたので、予想外の回答に一気に血の気が引いていく。

 こんな状態じゃ日常生活はもちろん誰かに助けを求めることも難しい。しかもご丁寧に指の先までぐるぐるに巻かれて物を掴むことも出来ない。


「どうするのこれ!」

「まあまあ落ち着いて」


 こんなの誰だってパニックになるわ! 今は一刻を争う緊急事態なのにこんなもたついている時間はない!

 勢いでバランスをとって立ち上がった私の周りをぐるぐるしながら、今度はユウが焦りながら「ちょっと待ってください!」と声を張り上げた。


「こんなこともあろうかとほら、その結び目の長いところを引っ張れば簡単に解けるようになってますから、落ち着いて!」

「もっと早く言って!」


 なんの耽美も情緒もない。私は野性味溢れる動きでラックの角に結び目を引っかけて、勢いよく解いた。そして一直線に御手洗いへと駆け出したのだった。


 無事に、人間の尊厳は保たれたわけである。



 ***



「……ん、」

「どういう風の吹きまわしですかね?」


 事なきを得たあと、私はリビングまで戻ってきてゆっくり腰をおろした。そんなことをしてもさっき取り乱した恥ずかしさは消えないんだけど。

 そしてユウに背を向けて両腕を後ろに組んで差し出す。ユウは不思議そうに首をかしげた。


「縛るんじゃないの?」

「……自ら檻に戻る阿呆がいますか。おバカなんですか?」

「いや別にもういいならやらないけど」

「縛ります」


 結局縛るんかい。さっきまで使っていた大判タオルで再び私の腕はぐるぐる巻きにされ始める。


「何その不服そうな顔、嫌がってた方が良い?」

「良いわけじゃないですけど……嫌がって同然といいますか、受け入れられると思わなかったので」


 ここで常識人ぶるなよ。なんだか私の方がおかしな人みたいじゃないか。

 でもユウの顔は真剣そのもので、本当に今の状況に混乱しているように見えた。


「なんだか思っていたものと違います。奈々子さんが起きてきたときはいい感じだったんですが」

「テイクツーする?」

「そんなことをしても僕の主導権は戻らない気がします」


 ユウはあからさまにがっくりと肩を落としてため息をついた。本当に失礼な奴だな。

 奴の理想は分かったけど、起きた瞬間のあの得体の知れない恐怖が一日中続いたら私の精神がもたない。これで良かったと心から思う。


「最初は確かに怖かったんだけど、いつものユウだと分かったら私も通常運転になっちゃったんだよね」

「へえ……でも僕は本気だったんですけどねえ」

「本気?」

「ええ、そうですよ。貴女をここに閉じ込めて、逃がさないつもりでいましたから」


 話している間に両腕の固定は済んだらしい。背後にいたユウが私の前に回り込んできた。私の顔を下から覗き込みながら自嘲気味に笑う。


「でも目的は達成してるよ。私は逃げてないし、部屋から出てないんだもの」


 それはそうなんですが……とユウはもごもごと口を動かしながらうつむいた。何度か言葉にならない唸り声をだして、なんとか自分の感情を言葉にしようとしているように見えた。


「不安なんです。貴女がどこにも行かない、心が離れない確証がほしいんです」

「確証、ねえ」


 相変わらずユウの考えていることはよく分からない。正直な話、どうしてそこまで私をつなぎ止めたいのかも分からないのだけど。

 今度は私が首をかしげる番だった。


「縛られているのは、ユウの方だと思うんだけどなあ」


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