第5話 微笑


「そうだったんですかあ。ビックリしましたよ」


 ビックリしたのはこっちなんだけどなあ。

 ユウは私のさっきの一言から一転、爽やかな笑顔に戻った。

 この先もこんな些細なことであんな恐ろしい事が起こるかと思うと心臓がもたない。未だにバクバクと恐怖を訴えている。


 いつの間にかテーブルの上は片付けられていた。それすら気付かないほど私は恐怖していたのだ。


「奈々子さんに弟なんていたんですか……やっぱり似てるんですかね」

「いやあ」


 私は曖昧な返事をしてから席を立った。喉が渇いてしょうがない。水を一杯飲み干してから、会話を続けた。

 ユウはカルガモの子供みたいに後をついてくる。


「似てないよ、全然」

「そうなんですか?」

「私は三兄弟で、あとは姉がいるんだけどね……」


 似てないんですか。とユウに続きを言われて頷く。

 私の弟も、姉も顔が良く要領も良い。人生の勝ち組を体現したかのようだ。私はといえば遺伝子のイタズラとも言うべきか。人の運命など世知辛いものである。


「こればっかりはどうしようもないけどね」

「そういうものなんですかねえ」


 ユウはあまり納得してないような顔で相槌を打った。


「まあ、僕は貴女以外興味はないですが」

「わあお……」


 これが通常の成人男性に言われたのなら気が動転して妙な行動を起こしていたかもしれない。私は冷静に驚くことしかできなかった。

 まあ、幽霊だしなあ。気に入られてもなあ。


 ピンポーン。


 チャイムの音が聞こえたので、私は慌ててドアを開けようと小走りでドアノブに手をかけた。奴は待たせるとすぐ文句を垂れるから。


「ちょっと待ってください!」

「えっ」


 ユウに後ろから叫ばれ驚いて身がすくんだ。振り返ると同時に、私をすり抜けてユウはドアに頭を突っ込んでいく。

 いくら霊体で物を自由にすり抜けられるといっても見ている側は奇妙でしかない。頭だけを突っ込んでいるので、こちら側からはドアから胴体が生えているように見える。


「えっと……」

「だめですよ、確認もせず開けたりしちゃ」


 そう言われればそうだ。啓太だと思い込んで急いでドアを開けようとしてしまった。

 一人暮らしなんだから気を付けないと。


「なんだか変なおじさんが立ってますけどまさか弟さんではないですよね」

「あ、明らかに違うね」


 ユウが止めなかったら一体どうなっていたことか。背筋が凍った。

 やっとユウは頭をドアから離してこちらを振り返った。心配そうな顔をしている。一応私もドアの窓から確認してみるが知らない人だった。


「とりあえず無視しましょう。なんだか変なチラシを持ってて危なそうですし」

「そうだね」


 私たちがこうしてドアの前でまごまごしている間にも何度かチャイムが鳴り響く。このおじさんはあきらめが悪いようだった。

 もし何も考えずにドアを開けてしまっていたらどうなっていたことだろう。簡単に想像がついて身震いをした。


「さて、部屋に戻りましょう。ずっと無視していればきっと帰っていきますよ」

「うん……ねえ、ユウ」


 何でもないような顔でこちらを見るユウに思わず笑みが漏れた。正体はどうあれ、自分の力になってくれる存在というのはありがたいものだ。


「ありがとね」


 ビシッ


 どこかの壁が軋む音がした。同時にユウの動きも止まった。ハトが豆鉄砲を喰らったような顔をして、口だけがぱくぱくと忙しなく動いている。ちょっと面白い。


「あ……あ、」

「うん?」

「うあああああああああ!」

「ん!?」


 突然絶叫するな! 驚いて体が跳ねてしまった。


「お、お礼なんて! お礼なんて!」


 顔を真っ赤にしてじたばたと暴れ回るユウにドン引きして後ずさる。一、二歩。予想より早く壁に背中が付いた。あんまり距離が取れなかった。


「お、落ち着いて」

「そういえば! 奈々子さん敬語やめたんですね!」

「あ、ごめんなさい」

「いいんです! そのままでお願いします! 嬉しいです!」


 会話をするごとに温度差が広がっている気がする。目を見開き興奮しているユウとは反対に、私は血の気が下がりっぱなしである。

 追い打ちをかけるように再びチャイムが鳴った。


「あは、やっぱり邪魔だなあ」

「あ、ちょっと!」


 ユウは興奮状態のままゆらりとドアへと飛んでいく。制止しようにも触れないのでどうしようもない。そのままユウは再びドアに頭を突っ込んだ。


「ぎゃああああああああ!」


 ドアの向こうから絶叫。そしてばたばたと逃げ去る音が続いて、やがてなにも聞こえなくなった。あのおじさんも、彼の事が見えたのだろうか?

 少ししてユウがしたり顔で振り返った。


「もう大丈夫ですよ。きっとこれでりたでしょう」

「わあ……」


 可哀想に。私は見ず知らずのおじさんに少しだけ同情した。ユウはなぜか恍惚こうこつとした表情をしている。この流れでどうしてそんな顔になるんだ。そう思ったがツッコミを入れる気持ちにはなれなかった。


「憑りついたのが貴女で本当に良かったです」

「そう」


 投げやりに返事をしたのに、ユウは嬉しそうに私の身体にまとわりついてきた。彼にとって私がどう思っているかなんてどうでもいいのかもしれない。ただ憑りつくことができれば、なんだっていいのだ。

 ぬるりとした動きで私の身体をなぞられる。ユウの身体が重なった部分が、ずしりと重く感じた。


「貴女はやさしい人ですね」

「優しくない」

「いいえ。やさしい人です」


 ユウが耳元でささやく。優しい声だけど、ぬるく絡みつくような声だった。底の見えない狂気に触れているようだ。

 本当にそうなのか、それともユウがそうしているのか、ユウの声以外には何も聞こえない。


「僕を拒めない貴女はやさしくて、かわいそうな人です」


 ……逃れることはできない。そんなことを思ってしまうような、そしてそれを受け入れるより他はないと感じさせるような声で幽霊はささやいた。

 もうすでに私は呪われているのかもしれない。


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