第26話-彼女の、装甲を剥がして。

寒いのは嫌いだけど、冬の朝はそんなに嫌いじゃない。

冬の朝は、身が引き締まる。多少睡眠が足りてなくても、マフラーに顔をうずめながら歩いていると、強制的に脳を起こされるような。コート越しに伝わってくる冷気が、全身を鼓舞するコーチになってくれるような。

久しぶりに前向きな気持ちで登校した月曜日の朝は11月最高の冷え込みで、すっかり冬の朝という様相を呈していた。街はいつもより静かだ。皆、寒さで口が重くなっている。


「おはよう」

教室に入ってすぐ、一週間以上ぶりにヤコに話しかけた言葉は、そんな当たり前すぎる言葉だった。

「……おはよ」

驚くヤコ。何度かまばたきをして、ちょっと唇を尖らせて、返事をした。

ずいぶん久しぶりに、ヤコの顔を見た気がする。彼女の肌は相変わらず驚くほど白く、長い髪は驚くほど黒かった。

教室の喧騒は、季節を問わず変わらない。あらゆる方向から、生徒たちの騒ぐ声がする。

挨拶と、何かもう一言くらい会話を交わそうと思ったけれど、言葉が出てこない。こちらを怪訝そうに見つめる眼差しが怖くて、結局は挨拶をしただけで自分の席に退散することになった。


少し敗北感を覚えながらも、概ね満足した気持ちで朝のショートホームルームを迎えた。大丈夫。久しぶりにヤコの顔を見ることができた。声も聞けた。それでいい。

明日は、もう少し話そう。何の話題がいいかな。いつも、朝はどんな話をしてたっけ。

かつて、毎朝のようにしてきたヤコとの会話を思い返す。オレたちは、いつも他愛ない話ばかりをしてきた。

読んでいる本の話、休日に起こったちょっとした笑い話、実験レポートを書くのがキツかったという愚痴。

他愛ないことばかりだったけど、安らかな時間だった。時にヤコは意外な切り口でオレに反論してきたし、オレはヤコの揚げ足を取ってヤコを怒らせた。

あの、安らかな時間を取り戻そう。とりあえずの目標だ。ゆっくりでいいから、あの時のふたりの会話を取り戻していく。他愛ない会話ができる喜びを、取り戻していく。

──とりあえず明日は、何か一言他愛ない会話をしよう。

そう決めて、退屈な数学の授業に向き合うことにした。



「おはよう」

「おはよ」

「何読んでんの?」

「”花火”」

「あ〜、ちょっと前に賞取って話題になった小説か。オレ読んでないや。どう?」

「ん〜、まあまあかな」

「そんなに気に入ってはいないんだ」

「そうだねえ。ちょっと無理して社会的なテーマを放り込んだ感があるかな」

翌日の朝の会話は、そんなところだった。ヤコの視線は本に向きがちで、会話を積極的に長引かせようという態度は見られなかった。ことさらに拒絶するワケでもないが、オレと会話をすることに積極的でもない。

だから、なんとなくぎこちないやり取りに終始してしまった。

それでも、オレは満足していた。久しぶりに会話のキャッチボールができた。笑えるほど小さな進歩だけど、それでもほんの少しでもあの頃の安らかな会話に近づいている。

思い返してみると、ヤコが非処女になった後の時期に惰性で毎日続けていた会話の方が、ずっとツラかった。表面的にはニコニコしながら会話していたけど、いつも傍らにはどうしようもない嫌悪感がつきまとっていて。会話をすればするほど、「もうオレはヤコを好きではいられないんだな」という絶望感が募るばかりだった。出口のない真っ暗な迷路の中でもがくだけの、本当にツラい日々だった。

それに比べると、今日のぎこちない会話の方がずっと良い。どんなにショボくても、ぎこちなくても、少しずつ前には進んでいる。この迷路には、出口からの光が指している。


「おはよう」

「おはよう」

「おはよう」

毎朝、ヤコに話しかけ続けた。

オレの朝の行動に慣れてきた彼女は、もう怪訝な目をすることはなくなったけれど、相変わらず積極的に会話を盛り上げようとする動きは見られない。

それでも、少しずつ会話を長くしていこうと決めていたオレは、あの手この手で彼女との話題を保ち続けた。彼女が興味を持ちそうなニュースを入手して教えてみたり、読み終わった本をプレゼントしてみたり、ノートを写させてくれと頼んでみたりした。

その全てに対し彼女は、拒絶もしなければ積極的な盛り上げもしない、という中立的な対応を続けた。

それでも心なしか、おそらく彼女も無意識な中で、ほんのわずかずつ、積極的に会話に乗り出してくれるようになってきた気がする。

オレとの関係性を必要以上に深めないために、意識して作っているであろうヤコの中立対応が、ほんの少しずつだけど、綻んできている気がした。徐々に、本来のヤコの対応に近づいている。

まるで、シューティングゲームの強敵みたいだな、と思う。何重にも覆われた硬い装甲で、本体は見えない。

プレイヤーは粘り強く攻撃を続け、分厚い装甲を少しずつ壊していくしかない。本体が完全に露出する、その時を目指して。

時々、シューティングゲームの主人公になった自分と、禍々しい装甲に守られたボスになったヤコを想像して、笑ってしまいながら、毎朝の会話を繰り返した。

変化をつけたほうがいいかと考えて、時々は昼休みに話しかけてみたり、ヤコの帰るタイミングに合わせて一緒に帰宅してみたりした。


オレの粘り強い攻撃がヤコの装甲を打ち砕いたのは、冬が終わる3月のことだった。

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