第18話-消えない、体温

「こっちが、弟の瞬。ほんで、こっちが石の下学園2年のヤコちゃん」

「よろしくお願いします!」

足尾さんそっくりの少年が、目の前で頭を下げる。私もそれに合わせて、ぎこちなく会釈をした。そうか、瞬という名前だったか。顔は確かに見た覚えがあるが、名前は記憶していなかった。

足尾家のリビングは、特に広くはないが、洋風の家具調度が揃えられていて、それなりに立派に見える空間だった。

私と足尾さんは大きめのソファに並んで腰掛け、弟の瞬くんは私たちの対面に椅子を置いて座った。私たちのソファと瞬くんの椅子の間には、一面ガラスのローテーブルがあり、テーブル上には紅茶が置かれている。足尾さんイチオシの銘柄らしい。


「今、受験勉強真っ最中で結構シンドいんですよ〜! 石の下学園の問題って割と平易だから、一つのミスが命取りになるじゃないですか?」

兄の足尾さん同様、誰にでもフランクに話せるタイプなのだろう。一言二言自己紹介を交わした後、瞬くんは話したいであろう受験の話をマイペースに展開しはじめた。

私は、それにテキトウに所見を述べていく。


受験の話や学校生活のことを楽しそうに聞いてくる瞬くんの顔を見ながら、私は中学3年生の時の足尾さんのことを思い出していた。

中学を卒業してからだいぶおとなになった彼よりも、今の瞬くんの方がむしろ、当時の足尾さんの印象に近い。

──あるいは、当時の足尾さんから感じた、いきいきとしたエネルギーを、瞬くんはまだ持っているからなのかもしれない。

彼は「生きるのを楽しんでいます!」と言わんばかりの力強さを溢れさせていた。かつての足尾さんと同じように。

今、足尾さんには、その力強さはない。


私と足尾兄弟の会話は、しばらく続いた。主に瞬くんが私に質問し、私がそれに返答し、たまに足尾さんが茶々を入れる、という流れだった。

こうして足尾さんの様子を見ていると、生きがいがなくなって絶望しているとは思えない。普通に楽しげに会話をしている、どこにでもいる高校生という感じだ。

だが皮肉にも、よく似た弟である瞬くんと比較すると、確かに活力のなさを感じた。

これは、足尾さんの絶望を知ってしまった後だからなのかもしれないけれど、瞬くんがこのまま3年を過ごしても、足尾さんのような雰囲気にはならないなという確信がある。


小一時間ほど話した。話題は、受験のことから学校生活のこと、そして全く関係ない雑談にまで、どんどん広がっていった。

「ちょっとお手洗いに」

と言い、瞬くんが席を離れる。話が盛り上がっていたから、そのまま同じ話題を、私と足尾さんが引き継いで話し続けた。

瞬くんが席を立ってから1分、足尾さんの様子が、少しおかしいことに気づく。

どこか物悲しいような、虚しいような、無気力な眼差しで、私を見ていた。

「どうかしましたか?」

思わず、会話を中断して聞いた。

足尾さんはやはり悲しげな目でこちらを見ながら、ゆっくりと言う。

「ヤコちゃん、オレのこと、どう思ってる?」


突然の質問に、驚く。

──この質問は、どういう意味だ。

彼は、どんな答えを求めているのだろう。私は、何を答えればいいのだろう。

「尊敬すべき先輩だと思っています。聡明で、社交的で、見習う点がとても多いです」

結局、私は無難な回答を選択した。これで、足尾さんの反応を見たい。

「男としては?」

ドキッとする。やはり、さっきの質問はそういう意図? 急になぜなのだろう。さっきまで、普通に楽しいおしゃべりだったのに。

まっすぐにこちらの顔を見続けている足尾さんの視線に飲み込まれそうになったので、一旦目線を落とす。少し大きめに息をはいて、冷静になる。

──うん、大丈夫、喋れる。

改めて足尾さんの顔に視線を戻して、回答を述べはじめた。

「正直、中学生の頃は憧れていました。足尾さん、学校一注目されていたカッコいい男子でしたから。でも、それは多分、少女の憧れでした。アイドルにハマるとか、手の届かないものに恋い焦がれるというか、そんな感じ」

そこで一旦言葉を止める。意識して間を作ってから、続けた。足尾さんに主導権は与えない。一気に言いたいことを言い切ってしまったほうがいい。

「あれから私もおとなになりました。少女の憧れからは脱したと思っています。足尾さんのことは今でもすごいなと思っていますし、尊敬しています。でも、それ以上ではないかなと。好きな男の子も、他にいます」

一息に言い切った後、なんだか恥ずかしくなった。かわいくない女の反応だ。「男としてどうか」と聞かれただけなのだから、もっと上手に切り抜ける方法はいくらでもあったと思う。もっと、相手の面子を潰さないようにやんわり伝えたり、可能性を残しておくような上手な表現もできたはずだ。よくできたなら、きっとそうするだろう。

でも、私はこれしかできない。雰囲気に飲まれないように、はっきり自分の思いを口にしたい。


「そっか。ありがとう」

足尾さんは、さして表情に変化もなく、そう言った。最初から一貫して、悲しげな眼差しを私に向けている。

「その、好きな男って、どんなヤツ?」

私は、”彼”のことを思い出しながら、答える。

「そうですね……。ちょっとひねくれてて、めんどくさくて、負けず嫌いで……でも、すごく知的で、話していると面白いです」

「ヤコちゃんに、似合いそうだね」

「そうなのかな……。そうだったら、嬉しいですけど」


沈黙。足尾さんの悲しげな視線が、私に注がれ続けている。

居心地の悪さを感じる。何か、次の一言を言いたい。何を言えばいいか。

そう考えていると、隣に座る足尾さんが手を伸ばしてきた。反応する間もなく、足尾さんの左手が、私の右手首を掴む。

「えっ…!ちょっと……」

驚いた私は抵抗しようとするが、強い力だ。とても振りほどけない。

「ごめんね。こうしようと思ったとき、どうしてもヤコちゃんが良いと思ったんだ」

「……? 何の話ですか……?」

「ん、生きがいの話だよ。この一年、サッカーに変わる生きがいになりうるものを考えて、色々試していたんだ。でもどれもつまらなくてね。あとはセックスくらいしかないなと思って、試す相手を考えてた」

背中が、冷たい汗でじんわり濡れる。

「冗談、やめてください」

「冗談じゃないよ。オレはこんな真顔で冗談言わない。ヤコちゃんも分かってるでしょ」

「私は断じて合意しないですよ」

「それは関係ないよ。オレはもう今後がどうなってもいいから。捕まろうが、そこら中から後ろ指さされようが、何も問題ない」

冷たい、無表情だ。穏やかで静かで、悲しい表情。彼の目は私を見ていながら、虚空を見ていた。

怖い。なぜそんなに揺らがない表情でいられるのか。こういうときは普通、もっと激情に駆られた表情をするものなんじゃないのか。なぜそんなに静かで、悲しい目をしているのか。

「なんで私なんですか?足尾さんなら、いくらでも受け入れてくれる女性を見つけられるでしょう」

「すぐにセックスさせてくれる女性は、ダンゴムシにはなかなかいないからね。いたとしても、そんなのバカ女ばっかりだ。オレは、もっとずっと賢明で、ゾクゾクするような女性が好きだ」

「そういう相手と、長く愛を育んだ上にあるセックスじゃダメなんですか」

「長く愛を育む、がオレにとっては苦痛で面倒だし、コストだからね。その先にあるセックスが生きがいになるかどうかも分からないままでやれる作業じゃない」

ゾッとする。本音をむき出しにしたこの男は、これほど冷たく感じるのか。見たことのない目つき、見たことのない表情、見たことのない足尾裕太がそこにいた。


「でも、すぐに瞬くんが戻ってきますよ」

「こないよ。あいつにはなんとなく話を通してある。もしかしたらこうなるかも、と。テキトウなタイミングを見て自然に席を外してくれ、と言ってあったんだ」

心臓が、早鐘を打つ。そんな馬鹿な。全て織り込み済みで、今までの会話がなされていたのか。私は、罠にかけられたのか。

「瞬くんは、足尾さんのこの計画の、味方をしたんですか」

「あいつを責めるのはよしてよ。あいつにとっては、オレは憧れの兄貴なんだ。その兄貴が生きがいを失って、今にも死にそうだから、なるべく支えてやりたいって思ってるんだろ。かわいい弟だよ」

「お兄さんを慕った結果レイプの幇助をするのだとしたら、めちゃくちゃ歪んだ愛情ですよ」

「おいおい、勘違いするなよ。弟はレイプの幇助なんてしてない。ただ、トイレに行くために席を立って、そのまま部屋で勉強を始めただけだ」

「卑劣ですね……!」

腹が立つ。自分の絶望を緩和するために他者の尊厳を踏みにじろうとしている足尾さんにも、兄の誤った行動を止めもせず、むしろ積極的に助長させる卑劣な弟にも、うっかり足尾さんの口車に乗せられてこの家に誘い込まれてしまった自分にも。


「大声、出しますよ」

「出してもムダだよ。隣の家までは割と離れているし、今は留守だ。それに、あんまりうるさかったらオレが口を塞ぐ」

逃れられない。私が口にする脱出の方法は、口にするそばから次々に潰されていった。

──ああ、逃げられないんだな。

そう思うと、強い絶望が頭上から降ってきた。私はここで、この男に抱かれる。嫌だ。目に涙が浮かぶ。

「助けて……!」

「ごめんね。ヤコちゃんにはホントウに申し訳ないことをしていると思う。でも、オレも必死なんだ。この絶望から逃れるために、やれることは全部やりたい」

そう言って、私に身を寄せてくる。

「嫌だ!来ないで!」

座っていたソファから立ち上がって、全身を使って振り切ろうとする。出口に向かって、必死に逃げようとした。

だが、私の右手首は残酷なほど強く握られていて、とても抜けられない。足尾裕太がグッと手に力を込めて左手を引き寄せると、私の肉体はいとも簡単にバランスを崩して、彼のもとに引き寄せられてしまう。

腕力も、体格も違いすぎる。

手を引っ張られた勢いでバランスを崩した私の身体もろとも、足尾裕太はそのままソファに倒れこんだ。

両腕を押さえつけられ、彼は私の身体に馬乗りになった。完全にソファに組み伏せられてしまった形だ。

暴れても脱出できない、と悟った私は、されるがままになるばかりだった。

気味が悪いと思いながら、私は足尾裕太を受け入れるしかなかった。

彼の手の熱さ、舌の熱さが、身体全体に染み渡っていくみたいだ。私はただ、早く終わるのを期待して待つばかりの無力な玩具。

行為の間、彼はずっと冷たい目をしていた。身体の熱さとは裏腹な、凍りつきそうな視線を感じるのが怖くて、私は途中で目を伏せた。


全てが終わった後、足尾裕太は服を着ながら言った。

「ありがとう。勉強になったよ。また一つ、試すことができた」

呆然と天井を見上げる私に、極めて冷静な態度で、礼を言う。

不思議と、あまり腹は立たなかった。ただ、悲しみだけが積もる。なんだろう、この感覚は。私まで、大事な感情を失ってしまったみたいだ。

でも、これ以上ここにいたくはなかった。私も手早く服を着て、乱れた髪を直す。

部屋を出る直前、口から、勝手に質問が飛び出してきた。

「その口ぶりは、セックスも生きがいにはならないってことですか?」

「うん。そうだね。他のものと一緒」

「私がレイプされたのは、まるでムダだったってことですね」

「いや、ムダじゃないよ。セックスはオレの絶望に効かないってことがわかった。それだけで収穫だから」

「一生、あなたを恨みますよ」

「覚悟の上だよ。ごめんね。一生恨んでいいし、被害届を出したっていい」

「そうします。二度と、私の前にあらわれて欲しくない」


そう言い捨てて、リビングのドアを開けた。玄関を出て、庭を歩く。家から漏れ出てくるオレンジ色の光が全身を包んだ。

気を抜くと泣き崩れてしまいそうだから、自分を奮い立たせながら、大きめの歩幅で一歩ずつ力を込めて歩いた。

庭から道に出ると、オレンジ色の光はほとんど見えなくなり、街灯の白い光に包まれることになった。

白い光に照らされた足元を見ながら、帰路を歩く。


足尾裕太の家はすっかり遠くなったのに、身体を這い回る足尾裕太の体温は、いつまでも消えなかった。

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