第13話 少年のような、あるいは嵐のような
「マドンナ」に相当する表現が、男子にはないな、と思う。
表現は存在しないが、多分どこの中学にも一人くらいはいたんじゃないだろうか。
すごくカッコよくて、すごく人気があって、全校の女子が憧れの眼差しを向ける男子生徒。
彼──サッカー部のエース、足尾裕太も、そんなタイプの男子だった。
私のクラスの女子の多くも、彼と廊下ですれ違う度に小さな喜びを噛み締めていたし、彼の出る試合の応援に足繁く通い、黄色い声を上げていた。
足尾裕太の噂は、学年が一つ上にも関わらず、私のクラスにもよく聞こえてきた。学力テストですごい成績を出したとか、サッカーの試合でハットトリックを決めたとか。あるいは、誰それと付き合い始めたとか、誰それと別れたとか。
「あ、ヤコ!足尾さんが歩いてるよ!!今日もカッコいいね!」
同級生にそう話しかけられる度、困惑してしまう。彼の何が、そんなに良いんだろう。
顔立ちは整っていると思うし、文武両道なのは素敵なことだと思う。多くの友だちに囲まれているという明るいキャラクターも、魅力的であることは分かる。
でも、誰かを好きになることって、そんなに軽薄なことなんだろうか。ただの見た目とか、周囲からの評判とか、その程度で誰かを好きになるのって、なんか変なんじゃないかな。
だから、私は今日も、クラスの女子たちの噂話の輪からなんとなく距離を取り、図書室に移動する。
友だちのことは好きだ。でも、ずっと一緒にいたいとは思わない。まして、放課後に始まる無限とも思われる噂話に参加はしたくない。
本を読むのが好きだ。長々と噂話に興じるよりは、本を読む方がよっぽど得られるものが多い。
クラスメイトたちとも良好な関係を維持しながら、上手に輪から抜け出して、読書時間を確保する。私の世渡り術は、中学二年生にして既に十全と言っていいくらいにできあがっていた。
夕方の図書室。埃と木と、古い本のにおい。
ああ、ワクワクする。先人たちの知識や表現が、この部屋にたっぷり詰まっているのだ。今日も本を読んで、そんな先人たちの脳内に接近することができる。
カバンを置くために、いつもの指定席に行く。本棚に一番近い長机の、一番窓際の席。本へのアクセスがよく、外の景色という雑音がほどよく読書を捗らせてくれる、最高の席だ。
そんな最高の席にカバンを置いた時、ふと気づいた。
斜め向かいに座っている男子生徒は、学校中の女子の注目の的、足尾裕太だ。
着崩した制服、整髪料で立たせてある髪、細身だが、ワイシャツ越しのボディラインからはほどよくついた筋肉が感じられる。
彼の切れ長の目から流れる視線は、手元の文庫本に注がれていた。
どんな気まぐれなのだろう。
図書室の常連である私が見たことがないのだから、足尾裕太には図書室に通う習慣がないことは明らかだ。
おおかた、サッカー部の練習が急に休みになって、友だちだか彼女だかとの待ち合わせ時刻まで隙間があるから時間を潰すことにでもしたのだろう。
彼がいるのは特殊な状態だが、私にとってはいつもの図書室だ。あまり気にしないことにして、読む本を探しに行く。
本棚と本棚の間をしばらくウロウロして、私が手にとったのは今流行中のファンダジー小説シリーズの第一巻だった。
普段はあまり選ばない本だけど、今日の気分には合っている。昨日は骨太で長い科学史の本を読んでいたから、今日はライトな小説を読みたかった。
席に戻り、ページをめくる。軽い文章と分かりやすい設定。思った通り、サクサク読める。
静かだ。図書室には雑談をする者が誰もおらず、ページをめくる音だけが小さくあちこちから鳴っている。
強敵との戦いを機転で乗り越えたり、破綻しかけた仲間との人間関係を回復させたりしながら冒険は進み、一つの大きな試練を乗り越えたところで、本の最後のページにたどり着いた。「あとがき」には、シリーズについての作者の思いが熱く語られている。
すぐに読み終わってしまったな。
内容は淡白。サクサク読める軽い文体と相まって、一時間強で読み終わってしまった。
だが、内容は決して悪くない。多分にベタではあるが、ハラハラさせる展開やワクワクさせる設定、不安定な少年少女の心の成長を上手に織り込んでいる。流行の理由も分かるというものだ。
続きが気になる。シリーズ第二巻に進もう。
次の巻を手に取るべくイスを引き立ち上がろうとした瞬間、ふと思い至った。
──斜め前に座る男の読んでいる本は、同シリーズの第三巻だ。
うわ、と思う。恥ずかしい。偶然とは言え、全校女子の憧れである足尾裕太の斜め前に座り、同じ本のシリーズを読み始めたのだ。超ミーハー、話しかけられるのを待っているとヤツの行動だと思われてもしかたない。
この偶然に驚きつつ、しかたないから席を移動しようと考えた。この席で第二巻を読み始めるのは避けよう。足尾裕太に近づくために必死になっている女だと、思われるのは嫌だ。
移動してから続きを読もうと算段した私はカバンに手をかける。だが、立ち上がる前に、さらに驚くべき事実を発見してしまった。
足尾裕太は今読んでいる第三巻だけでなく、第二巻も手元に置いている。恐らく、こまめに本棚と座席を行ったり来たりするのを嫌って、一度に二冊持ってきて読んでいるのだろう。
──困るんだよな〜。そういうことされると。私が続きを読めなくなるじゃないか。
どうしようかな。「読み終わってるならそれ、もらってもいいですか」って言おうかな。いや、でもそんなことしたら余計に「足尾裕太に話しかけたくて一生懸命本を読んでいたヤツ」感が強まってしまう。
うーん、困った。
視界の端で、足尾裕太を見る。姿勢がいい。背もたれのない図書室の丸椅子に、こんなにまっすぐ座れるものなのか。
細くて白い指が、1ページずつ本をめくっていく。本を読む時の彼のクセだろうか。目は6割ほどに細く開いている。まばたきのたびに、長いまつげがわずかに揺れた。
──よし、このシリーズを読むのは諦めよう。
「足尾裕太に話しかけたいがために近くに座り、同じシリーズの本を読むヤツ」になりたくない気持ちが強かった私は、諦めて違う本を読もうと決めた。
決意と共に彼から目を逸らそうとした刹那、彼がこっちを向いた。目が合う。
私は気まずい愛想笑いを浮かべる。彼は無表情のまま、私の顔から、首、胸、そして手元の本に視線を移していく。
「あ、ごめん、もしかしてこれ読みたかった?」
そう言って、私にシリーズ第二巻を提示してきた。
なんて答えようかな。「いや、もう諦めたのでいいんです」かな。いや、意味分かんないなそれ。
「そうなんです。続きが気になってて」
結局、素直に本を読みたい気持ちを伝えることにした。実際、続きが気になるので読みたかったし。
「結構ハマるよね、これ。水中で酸素がなくなりかけるところ、手に汗握らなかった?」
そこで初めて、無表情だった彼の表情が崩れた。小さな笑顔。薄く開いていた目は、大きく開かれた。黒目がちの目が、私を見ている。
「そこ、めちゃくちゃハラハラしながら読みました。良い場面ですよね。危機を脱した後の主人公が、無言で仲間のミスを許すところも含めてすごく良かったです」
「だよね!!あそこがカッコよくてオレはついのめりこんじゃってさ!というかそもそも、シリーズを通して主人公の男気がすごくて……」
ハマっている本の話に乗っかってもらえたのが嬉しいらしい。彼は無邪気に、高いテンションで本の感想を語りだした。
なんだか、おかしくなってしまう。高い身長と恵まれたスペック、周りの中学生とは一線を画するおとなびた感じが好評を博している先輩なのに、楽しげに冒険小説の話をする彼は、周りの誰よりも少年だった。
結局、私たちはしばらく、本の感想を話し合った。先ほどまで自分が最高だと感じていた静寂を破壊する因子になってしまう罪悪感もあったけど、この少年のような先輩と、小声で本の話をするのは楽しかった。
「あ、オレそろそろ行かないと。彼女と待ち合わせしてるんだよね」
しばらく語り合った後に、おもむろに足尾さんは言った。荷物をカバンに入れて、立ち去る準備をする。
「めっちゃ楽しかったよ。ありがとう!また話そう」
そう言いながら見せる彼の表情は、今日一番の屈託のない笑顔だった。
「私も楽しかったです。ありがとうございます」
私の返事を聞いて彼は小さくうなずき、手元にあった二冊の本を差し出してきた。例のシリーズの二巻と三巻だ。
「読みかけの三巻の方は借りて帰ろうかと思ってたけど、キミの方が早く読み終わりそうだから、置いていくね」
そういうと、またニコッと笑う。白い歯が見える。
最初は無表情かと思ったけど、全然そんなことはなかった。この先輩は、とてもよく笑う。
「じゃあ、またね!」
立ち去り方に嫌味がない。言いたいことを言い残して、そのまま爽やかに立ち去っていく。
足尾さんはすばやく図書室の入り口まで歩いていき、ドアを開けた。ドアをくぐる前に振り返ってこちらを見た。目が合う。
私が小さく会釈をすると、彼は小さくほほえんで、胸の前で手を振った。ドアをくぐると、ドアはガラガラと音を立てて勝手に閉まった。
少年のような、あるいは嵐のような、そんな先輩だと思った。
彼がいなくなって手持ち無沙汰になった私は、彼が置いていった本に手を伸ばして、読み始めた。
ページをめくる自分の手を見ながら、彼の細くて白い指を思い出す。
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