第9話-私のこと、抱けるの?

「そっちの、赤いマーカー取ってくれない?」

「これ?はいよ」

「ありがと」


放課後の図書室。オレとヤコはいつもどおり肩を並べてポップを書く仕事をしていた。

他の図書委員はバタバタと動き回り書架の整理をしている。オレとヤコはポツリポツリと会話をしながら、ポップを書く。表面的には、先月までと何ら変わらない穏やかな時間。

でも、オレとヤコの間には不穏な空気が流れていた。会話は妙にテンポが悪く、お互い会話に乗れていないのがわかる。


気分が悪い。

図書室の長机に配置されている丸イスは、一つ一つの間隔がかなり近い。図書室が混むことは稀なので、生徒たちは基本的に一つ飛ばしで座って、隣との間隔を確保する。

オレとヤコがポップを書く作業をするときは、一つ飛ばしでなく隣り合わせになるのが常だった。なぜそういう不文律ができたのか、今となっては記憶にない。

いずれにせよ、かつてのオレはこの不文律をとてもありがたく思った。お互いの動きによっては肩が触れ合うほどに近い間隔。お互いの手元を覗き込んで、自然に会話を始められる間隔。

そんなありがたかった不文律が、今はオレを苦しめている。すぐ真横に非処女がいるという嫌悪感が湧き上がり、会話を楽しむどころではない。理由の分からない汗が出てくる。


椅子を少しズラしたい、と思った。ヤコと反対側に、数十センチだけでも椅子を動かしたい。だが、それはどうなんだろう。ヤコにさとられたら、不愉快な気持ちにさせるかもしれない。「私が非処女だから、避けようとしてる」という認識を与えるかもしれない。

少し悩んだ後にヤコの方を見ると、集中してペンを走らせている。今なら、彼女も気づかないだろう。

なるべく、なるべく自然にペンを置き、椅子をズラした。

一瞬、ヤコのペンが止まる。マズかったかな。

若干の緊張感をもってヤコを見ていると、すぐにまたペンは動き始めた。よかった、作業におけるただの空白の時間だったか。


オレも、また作業に戻る。ほんの数十センチの距離が増えただけで、気分の悪さは少しマシになった。

作業に戻る。どうせ今日は身が入らないし、ポップはさっさと完成させて早めに帰ってしまおう。


「ねえ、結構ぶっちゃけたこと、聞いてもいい?」

ポップ作りに集中していると突然、ヤコがオレに質問を投げかけてきた。ヤコの視線はポップにあるが、手は止まっている。脳のリソースを、会話に使おうとしているのだろう。

そして、身構えてしまう。心臓が高鳴る。ヤコが話の前置きをするのは珍しい。今までにないくらい、重大な話であることを示唆している。

─さっき椅子をずらしたことがバレて、それについて問い詰められるのだろうか。

それとも、別の何かについてか。いずれにせよ、ヤコからの質問を避けるつもりはない。彼女にはまっすぐに対応したい。

「いいよ」

装飾を取り払って、簡潔に答えた。彼女から出てくるであろう、重要な話の切り出しに備える。


彼女の視線がポップを外れた。ゆっくり、顔がこちらを向く。銀縁のメガネのフレームが、照明の明かりを反射していた。

少し躊躇する。視線は落ち着かずに、右を見て、左を見て、それからオレの顔に向く。ギリギリ聞き取れる音量で、「その……」という声が彼女の唇から漏れた。それから、本題。

「違ったらとんだ自意識過剰なんだけど、私のこと、好きだった?」

言ってから、ヤコは恥ずかしそうに目を伏せる。白い肌は心なしか赤くなっているような気がした。


彼女が、どういう意図でこの質問をしてきたのかは分からない。

この話の着地点がどこにあるのか、彼女が確かめたい真意は何なのか。

頭を巡らせてみても、答えは出ない。オレにできることは、正直であることだけだ。

「うん」

彼女の目を見る。気恥ずかしいけど、目をそらさない。嘘っぽかったり、茶化したりしたら負けだと思った。


「そっか。ありがと……」

彼女は少し微笑んだが、特別嬉しそうという様子ではない。ここまでは織り込み済み、と言った感じだ。語尾の雰囲気が、本題はここからだという彼女の意図を感じさせた。

少しの沈黙。


「その……私が非処女になって、私のこと、嫌いになった?」

消えてしまいそうな声。細められた目。落ち着かない指先の動き。

彼女がここ一ヶ月の間、ずっと苦しんでいたテーマだろう。下劣なクラスメイトに指摘され、それを毅然とはねのけながらも、その言葉は彼女に刺さっていた。

大なり小なり的を射ているあの山本の指摘が、現実に発生する事態としても、彼女を苦しめていた。


なんと答えればいいのだろう。

嫌いになったのかと言われれば、答えはノーだと思う。オレは彼女の性格を、美貌を、知性を、好きなままだと思う。

だが、生理的な嫌悪感があることもまた事実だ。オレはこの一ヶ月、嫌悪感を乗り越えられないかとずっと考えてきたけれど、どうも無理そうだった。

抗いがたい嫌悪感は胸にあり続ける。だが、彼女のことは好きだ。

そんな矛盾した状態は、あり得るのだろうか。

──あり得る。あり得るのだと思いたい。

そうじゃないと、悲しすぎるじゃないか。オレの初恋が、想いが、美しい思い出が、生理的な要求によって無下に破壊されるなんて、悲しすぎるじゃないか。

「いや、キミのことは、好きなままだ」

少しの沈黙を越えて、まるで自分に言い聞かせるように、オレは答えた。視線はずっと、まっすぐヤコの顔を見たままだ。嘘だと思われたくない。目はそらさない。


ヤコは、今度は少し嬉しそうにした。目尻が少し下がるのが分かった。ほんの僅かな、表情の緩み。

だが、すぐに引き締め直した。メガネの銀色のフレーム越しの目が、少し大きくなる。ヤコは、更に何事かを言おうとしている。

ヤコが次の言葉を紡ぐまで、やや時間があった。間をとったり考えたりするための時間という感じではない。どちらかといえば、勇気を絞り出しているという感じだ。

ヤコの視線は落ち着かない。天井を見たり、本棚を見たり、次の発言への躊躇を振り払うために、必死になっている。

0コンマ何秒の逡巡を経て、覚悟が決まったらしい。彼女の視線ははっきりオレに向けられた。まっすぐ、オレの目を見ながら、口が動く。

「じゃあ、私のこと、抱けるの?」


──時が、止まる。

図書室のザラザラした長机の感触が妙に鮮明だ。机と、机に置いた腕の間に汗がにじんでいる。

ヤコの目は、オレの目をじっくり見ている。圧力を感じる。その吸い込まれそうな大きな黒い瞳が、病的なまでに白い肌が、異様な迫力を帯びていた。荘厳な美術品を前に立ちすくむように、何も言えなくなった。

彼女らしからぬ、直接的な質問。その問いが、頭の中を駆け巡る。

─オレは、彼女を、抱けるのか。

ヤコが処女を失ったことを知ったあの月曜日から、そのテーマについて一度も考えなかったワケではない。というよりも、何度も何度も考えてきた。自分だけの部屋の中で、繰り返し想像した。


抱けない。


あの人生最悪の月曜日が来るまでは、彼女の身体をこの腕の中に収めることができたらどれほど幸せだろうと思っていた。

時間はかかっても、そんな幸せを掴み取ることができるだろうと思っていた。

ヤコの非処女の匂いを嗅いでから、もうその幸せを得ることはできないのだと痛感した。一緒にいるだけで、図書館の椅子程度の間隔をおいて隣に座るだけで、気持ち悪さがこみ上げてきた。このいかんともしがたい生理的嫌悪感を押し殺して、セックスできるのか?

何度考えても、結論は「不可能」しかなかった。


こんなとき、何を言葉にすればいいのだろう。

不可能だよ、と伝えることはできない。オレ自身、その結論が受け入れられなくて、何度も何度も想像をやり直してきたのだ。

オレ自身ですら納得できていないものを、彼女に伝えられるワケがない。

かといって、嘘もつけない。


結局、あれだけ強い意志で、目はそらさないと思っていたのに、オレの視線は徐々に下がり、彼女の首に、胸に落ちていった。

言葉が、何も出てこない。

オレはもともと、口下手な方ではない。必要なときにお世辞も言えるし、嘘も方便だと思って、付き合いのために必要な嘘はガンガンついてきた。

そうやって社会は回ってるんだから、何の問題があるんだよ、変に誰かを傷つける本音を言う方が悪だろ、と、言ってのけた。

そのオレが、何も言えない。嘘がつけない。彼女を傷つける本音も言えない。


彼女の制服を背景にして、光を浴びて動く大量の埃が鮮明に見えた。

静かだ。今日の図書室は書架整理の図書委員が動き回っているからとても賑やかなはずなのに、そんな騒音がはるか遠くの世界のもののように感じる。この世には、オレとヤコしかいなくなってしまったように感じる。

静かな、海底みたいなふたりだけの世界の沈黙は、ものすごく長く感じた。答える言葉を持たないオレと、まっすぐな目で答えを待つヤコは、無限の沈黙の時間を過ごした。


「なんて。突然ごめんね、答えにくいこと聞いちゃって」

ヤコの声が、沈黙を打ち砕く。柔らかい声と同時に、ヤコの表情が突然穏やかになる。薄いピンク色の唇がゆっくり釣り上がり、目つきからも険しさが消えた。

右の口角にわずかなシワができる。いつもの、ヤコの微笑みだ。

「マジメだよね、キミは。ありがとう」

ヤコの表情はいつもどおり自然だった。穏やかで、落ち着いた表情。

「珍しくマジメな雰囲気出したら疲れちゃった。今日は体調もよくないし、もう帰るね。私の分のポップは明日完成させることにするよ」

そう言いながら、ヤコはゆっくり立ち上がり、カバンに私物を詰め込み始めた。穏やかな表情は崩さない。表情も声もずっと自然だが、無理しているなと思った。この自然さは、彼女の凄まじい名演技だ。悲しみを上手に隠す、一世一代の名演だ。


なにか、なにか言わなければ。彼女の質問に答えられないまま、彼女をイタズラに傷つけたままで終わりたくない。

でも、何を言えばいいか分からなかった。先ほどの質問の答えも、その質問に沈黙で答えてしまったことの言い訳も、彼女を引き止める言葉も、何も出てこない。

図書室の埃っぽい空気を吸う口が乾いている。口はなにかを言おうとするのに、喉から声が出てこない。


「じゃあね。大丈夫だから、気にしないで」

そう言って、彼女は図書室のドアに向かって歩いていく。背中で、長い黒髪が揺れる。古い図書室の床は、彼女が一歩歩くたびに、小気味いい低音を響かせた。

ドアが開いて、彼女が通過する。バタンと音をたてて、ドアが閉まった。


オレは結局最後まで、一言も発することができなかった。


先ほどまで彼女が座っていたスペースを見る。いつもよりわずかに遠い場所にある、図書室の丸イス。

オレが上手く対応できなかった彼女の質問を、異様な迫力を見せたあの瞬間の彼女を、最後に穏やかな表情を浮かべた彼女を、思い出す。

ああ、傷つけてしまったな。

そんな自責の念と悔しさの中で、今の彼女の様子を想像する。図書室を出て、廊下を歩いて、玄関を出て、今頃は校門を通過しているだろう。


想像の中の彼女の泣き顔は、美しかった。

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