第35話 彼女と孤独

 赤い炎。青の燐光。暗闇の中で全てが舞っている。上も下も分からない。どこまでも落ちていく。

 誰かがフェンを呼んでいた。それに応じなければとフェンは思った。だから口を開いた。

 けれど、答えに惑う。惑うがゆえに、声を上げられない。


 どの立場の自分が、求められているのだろうか。

 火の国の銀の騎士としての自分なのか。

 水神の加護を受ける巫女としての自分なのか。

 それとも――。




 フェンは目を開けた。

 浮かび上がるのは暗い天井だ。周囲に人気はない。身を起こす。毛布が腰元まで滑り落ちる。

 窓の外に浮かぶ月は、引き絞った弓弦のように細い。白銀の光が差し込み、夜闇を僅かに薄青色に染める。


 そこは、王城の中の自分の部屋だった。フェンは額を押さえる。誰が自分をここまで運んだのかは、考えなくても分かった。意識を失う前の暖かさはしかし、今は傍にない。そのことがひどく不安を呼び起こして、フェンは我知らず、毛布を握る手に力をこめる。


 あれからどれくらい経ったのか。そもそも、あの後どうなったのか。考えれば考えるほど、思考が暗闇に囚われていく気がする。

 静寂が何かを囁いているようだ。それが嫌で耳をふさぐ。その時だ。


 乾いた音を立てて何かが床に落ちた。のろのろとフェンは視線を向ける。

 小さな紙きれだ。それを拾い上げ、開いたフェンは瞠目する。


 見知らぬ筆跡だった。アッシュのものではない。

 綴られていたのは、王都の、とある場所の名前。


 ――巫女様


 暗い期待に満ちた眼差しと共に、老いた男の声が蘇る。この場所でフェンを待つということなのだろう。思わず紙切れを握りしめた。声にならない声を上げて、そのまま顔を手で覆う。


 息が苦しい。

 後悔が心臓をしめつける。喉の奥で悲しみが詰まる。自分の民にあんな顔をさせてしまったことに対して。自分があの時、水の国を救えていたら、こんなことにはならなかったのだろうか。


 ぎゅっと目をつぶった。手が、力なく胸元に落ちていく。その先で何か固いものに当たる。それにフェンは、そっと目を開く。


 指先にあたったのは、ペンダントに嵌った赤い石だった。

 深い紅色は、夜闇に沈むことなく静かに輝いている。


 紛うことない彼の色を、フェンは縋るようにぎゅっと握りしめた。僅かに暖かい。そんな気がする。


 ―― 一人になろうとするな


 アッシュの声が蘇った。ぶっきらぼうで、けれど優しい声が。


「……そうだ、私は一人じゃない」


 ぽつりと呟く。それだけで少しだけ気持ちが落ち着いた気がする。

 一つ息を吸って、吐き出す。


 考えなくては。彼らをこのまま放っておくわけにはいかない。再び手の中の紙を見つめる。

 何か他に手がかりはないだろうか。彼らを止められるような手かがりは。右手で赤の石を握ったまま、記憶を必死に掘り起こす。


 ――巫女様はご存知ないのですか?


 ふと引っかかったのは、壮年の男の言葉だった。爆発が起きているのだと、彼は言った。水の国の村だった場所ばかりが狙われている、と。ダリル村の彼の父親はそれに巻き込まれて死んだ、と。


 爆発……あるいはそれは、不審火と言い換えることもできないか。

 ダリル村でも不審火の騒ぎが起きていた。自分とアッシュはそれを調べに行ったのだ。結局、村に入ることは叶わなかったが。

 その時に、炎に行きあった。だからこそ、フェンはアッシュの前で巫女としての力を使う必要があった。

 そこまで考えて、フェンは顔を上げた。唐突にある考えが浮かぶ。弾かれたようにベッドを飛び出す。慌ただしく部屋を出る。


 息急き切って部屋に戻ってきた時には、彼女の腕には一枚の地図と、綴じられた分厚い紙束が抱えられていた。

 地図をテーブルに広げる。引き出しから、黒と青の二色のインクと羽ペンを取り出す。


 紙束を開く。

 それは騎士団の派遣記録だ。火の国で何かしら事件が起こった時には、騎士団は必ずといっていいほど派遣される。今回の不審火の件も例外ではない。

 燭台に火を灯す時間も惜しかった。暗がりの中、月明かりを頼りに細かい文字を追う。その中で、炎や火事といった記述の文章を見つけては、詳細を読み込んでいく。


 思えば、妙な話だったのだ。

 王から言い渡されたのは、不審火の犯人を捜すことだった。

 犯人を捜す。そういうからには、不審火の仕組みには種があるはずである。野盗からゲイリーを救った時には、彼は馬車が爆発した、と言っていた。夜会で踊る羊ダンシーと名乗る男を追い詰めた時にも、爆発が起こった。


 夜会に出席していた婦人たちは、踊る羊ダンシー率いるルルド商会が怪しげな取引をしている、と噂をしていた。彼の身柄はユリアス直属の兵に引き渡されて久しい。そしてその取り調べの末に、彼が一連の不審火の犯人だということが明らかにされた。

 つまり順当に考えれば、彼らが爆発を引き起こすような仕掛け……あるいは武器を、扱っていたことになる。


 じゃあ、全ての爆発が踊る羊ダンシー達によるものだったのか。フェンが引っかかったのはそこだった。


 野盗に襲われた時、アッシュの目の前に突如として現れた紅蓮の炎。あるいはディール村で子供たちを襲っていた禍々しい炎。

 その二つは、どう考えても何かを仕掛ける余地があったとは思えない。そして共通するのは、炎と共にフェンが妙な気配を感じたことだった。

 あの時に感じた気配は、水の神と契約した時と同じだ。さらにいえば、ディール村で相対した時には、炎の主は神と称することを肯定している。

 裏を返せば、フェンが経験した二つの出火に関しては、踊る羊ダンシー達が関与していなかったことになる。


 ならば、どこまでが人為的なものだったのか。


 爆発。不審な人の出入り。あるいは前触れもなく炎が上がった。そう言った類の文言を、出火現場周辺の聞き取り調査の記録から拾い上げる。その上で、人為的な出火が疑われる場所を青のインク、それ以外を黒のインクで囲い、それぞれ日付を書き記していく。


 時間は飛ぶように過ぎた。窓の外の空が白み始める。冬の朝日が弱々しい陽光を室内に投げかける。出来上がった地図が白く染まった空気の中に浮かび上がる。

 それを見て、フェンは自分の心臓が氷の手で掴まれたような錯覚を覚えた。


 黒の印の数はさほど多くない。場所に規則性もない。火の国の全土で……しいて言うなら、火の国の領地だった場所だけで散発している。


 問題は青の印だ。

 そのほとんどが、火の国の辺境――元々水の国だった村につけられている。その数は十数。例外は、王が不審火の犯人を捜すよう言い出すきっかけとなった王都内の宝物庫での爆発と、フェンが躍る羊ダンシーを追い詰めることとなった夜会での爆発だけだ。


 火の国の商人が出入りした後に炎が出ている。壮年の男の言葉が蘇る。目の前の地図が、その事実を肯定する。フェンは唇をかみしめた。止まりそうになる思考を必死で巡らせる。地図の上に手をつく。食い入るように、青の印を目で追う。そこで、もう一つの事実に気づく。

 幾つかの出火は、踊る羊ダンシーが捕えられた後にも起きている。


 ルルド商会は、犯人ではない。

 ではじゃあ、誰が。


 臓腑が捻じれるような気持ちの悪さがフェンを襲った。

 水の国だけが狙われている。この一点だけをとれば、犯人は水の国に恨みを持っている人物、ということになる。だが、水の国の民が火の国の民を恨むことこそあれ、その逆があるだろうか。


 むしろありうるとすれば……そう例えば、水の国の民が傷つくことが有利に働く立場にある人物なのではないか。


 不意に怖くなった。

 ありえない可能性が頭をよぎる。だがそれを否定するだけの情報も、肯定するだけの情報もフェンにはない。

 もどかしかった。犯人が分かれば、この騒動を止めることができるだろうに。


 けれど、これを解決したところで、昨日会った男たちを止めることができるだろうか。彼らの悲しみを癒すことができる? 死んだ人間は二度と戻ってこないのに?

 フェンの蒼の瞳が揺れる。掌の下で、地図がくしゃりと音を立てて歪む。

彼女の心が狭間で揺れた。


 火の国の銀の騎士として、不審火の犯人を見つける必要があった。水の国の民が、この状況を容認するはずがない。放置すれば再び戦が起こり、火の国の民までも巻き込まれることになる。そして犯人を捜すために必要なのは情報だ。それも彼女の推測が正しいのならば、で得る必要がある。


 一方で水の国の王女として、生き残った民を見捨てることもできない。水の国は滅んだ。それでも彼らは、かつての自分が守りたいと思った大切な民なのだから。


 ならば、自分のとるべき行動は。

 そこまで考えて、どちらの立場にも矛盾しない選択肢が、一つだけ浮かぶ。浮かんで、胸がぎゅっと痛くなる。

 薄く唇を開いて、喘ぎにも近い呼吸をする。胸元を必死にまさぐる。再び深紅の石を握る。指先が白くなるほど力をこめる。


 彼に、会いたい。

 不意にそう思った。そして一度その考えに取りつかれれば、もうどうしようもない。

 がたりと音を立てて、フェンは椅子から立ち上がる。地図もインクも書類も、なにもかも置き去りにしたまま、彼女はアッシュの下に向かって駆け出す。



 会って、話がしたい。そうすれば、どう返してくれるだろうか。

 馬鹿げた考えだと一蹴してくれるだろうか。

 お前らしいと鼻先で笑ってくれるだろうか。

 仕方がないと不器用に笑って、もっといい案を考えてくれるだろうか。



 身勝手だと分かっていても、フェンはそう願わずにいられなかった。

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