第19話 彼女と後悔

 それからのことを、フェンはよく覚えていない。

 フェン、と自分の名前を呼ばれ、体を揺すられた。ぼんやりと視線を上げれば、オルフェの心配そうな顔が目の前にあった。彼が何事かを言っている。目の前の死体と、かろうじて息があるはずであろうダンシーを見て、僅かに眉を顰める。


 アッシュは、どこに。フェンはそう口を動かした。自分では問いかけたつもりだった。けれどオルフェからの返事はなかったから、実際にはフェンの口は動いていなかったのかもしれない。


「馬車を手配するよ。それに乗って先に帰ってて。あとは俺がなんとかしておくから」


 その言葉だけだ。フェンの耳が辛うじて聞き取れたのは。



*****



 フェンはゆっくりと目を開ける。


 夜会の次の日も、雨は降り続いていた。雨粒が静かに窓を叩いている。薬草の香りが湿っぽい空気に交じって、いつもより濃く香る。作業台ではアンジェラがすり棒を片手に、何かを書きつけていた。

 ベッドの上で、フェンは身を起こす。微かに響いた衣擦れの音に、アンジェラが降り返る。


「……ごめん、どれくらい寝てた?」

「二時間くらいね。いいわよ、まだ寝てても。休みの日なんだし……それに昨日、帰ってきてから良く寝れなかったんでしょう」

「いや……起きるよ。ドレスも返しに行かなきゃいけないし」

「そう? でも……」

「代わりに、というのも変だけど、お茶をもらえるかな」


 えぇ、それはもちろん。そう答えたアンジェラは、カップ片手に立ち上がって暖炉の方に近づいた。

 お茶をいれる静かな音。フェンの方に近づいてくる足音。それを聞きながら、フェンはちらりと窓を見やる。雨のせいか、外は昼間だというのにうす暗い。憂鬱な空模様はフェンの気持ちを表しているかのようだった。


「……ごめんなさいね」


 薬湯の入ったカップを手渡したアンジェラは、ぽつりと呟いた。それを受け取りながら、フェンは苦笑する。


「謝らないで。アンジェラは悪くない」

「でも……こうなることくらい、予想すべきだったわ」

「ドレスがボロボロになって返ってくるって?」

「そうじゃない、ってことは、あんたもよく分かってるでしょう」


 フェンは冗談交じりに言った。なんとかアンジェラを笑わせたかったのだ。けれど、アンジェラは真面目な顔で返すばかりで、フェンは小さく息をつく。


「心配しないで。何度も言ってるけど、アンジェラは悪くない」

「でも、」

「変装したいって言ったのも、襲われて抵抗できなかったのも、全部私の責任だ。だから、大丈夫」

「嘘よ」

「アンジェラ……」

「だってあんた、昨日帰ってきてからずっと、様子が変だもの」


 アンジェラに言い当てられて、フェンは視線を落とした。

 情けない顔をした自分自身が、カップの向こうからフェンを見つめている。

 フェンは小さく息を吐いた。


「……昨日の夜会で、襲われてたところを、殿下に助けて頂いた、っていう話はしたっけ」

「えぇ」

「その時に、お礼を言いそびれて……」


 言いさして、フェンは言葉を止めた。水面に映る自分が、そうじゃないだろう、という視線を向けている。その視線から逃れたくて、フェンは目を閉じる。


「……ごめん、違う……私、多分後悔してるんだと思う」

「それは、お礼が言えなかったから?」

「そうだけど……それだけじゃない」


 フェンはカップを持ったまま、膝を抱えた。



 ――……貴方は、何にそんなに怯えてるんです……?



 それはまさに、自分自身が昨日の夜にアッシュに放った言葉だ。何故そんな言葉が出てきたのか、フェン自身にもよくわからなかった。ただ、あの時の彼は、いつもの彼と決定的に何かが違っていた。何か違うということだけは、フェンにも分かった。

そうして、その言葉でアッシュは部屋を出ていき、それからずっと会っていない。


「私、彼を傷つけたんだ、と思う」

「お人よしのあんたが?」


 アンジェラが驚いたように目を瞬かせた。


「信じられないわね……あいつが傷つくってのも想像できないけど」

「私はそんなに良い人じゃないよ」


 フェンは自嘲気味に笑う。


「……良い人なら、殿下を追いかけて、慰めるんじゃないかな」

「じゃあ……あいつのこと、殺したいほど憎くなった?」


 アンジェラがぼそりと呟く。それにフェンの心臓がどきりとした。アンジェラの瞳が剣呑に眇められていたからだ。まるで、フェンが肯定すれば、今にもアッシュを殺しそうな勢いで。


 ――いいじゃないか。平然と人殺しをする彼のことが許せないんだろう? 自分の中の暗い何かがざわめいて、フェンの喉にせりあがる。


「それは……」


 フェンは言い淀んだ。口を開く。けれど、口にすれば認めてしまいそうで、認めてしまうのが怖くて、結局口をつぐんで。


「……どう、なんだろう」


 フェンは膝を抱える腕に力を籠める。立てた膝に顔を埋めた。

 雨の音が少しばかり強くなる。


「何が正解だったのかな……」


 フェンはぽつりと、そう呟いた。



 愉悦に浸れば良かったのだろうか。憎い相手を傷つけてやったのだから。

 恥じるべきだったのか。命を助けてもらったのに、お礼の言葉も言わなかった己自身を。

 糾弾すべきだったのか。簡単に誰かを殺す彼の行為を。

 それとも、同情すべきだったのか。彼の瞳に浮かんだ寂しさに寄り添うべきだったのか。

 けれど結局、どの選択肢も選べなくて、フェンはアッシュを追いかけることさえできなかった。

 その時に、気づいてしまったのだ。


 水の国のためと言うくせに、彼を憎んで見捨てることさえできない弱い自分に。

 彼の孤独に気づいたくせに、過去を全部捨てて傍に寄り添う勇気さえない自分に。


 中途半端で、自己満足に浸って、偽善に満ちている。そんな自分に嫌気がさす。


「やっぱり、あんたはお人好しね」


 不意に、カップを取り上げられた。フェンは少しだけ顔を上げる。カップを脇のテーブルに置いたアンジェラは腕を組み、呆れたようにフェンを見つめている。


「何が正解だったか、なんて……相手の気持ちを考えてなきゃ言えないわ」

「…………」

「あんた、考えてるんでしょ? 水の国の民のことも、あのバカ王子のことも……それに、そうね。多分私のことも考えてる」

「……それは、だって」

「そういう優しいところ、私は好きよ……でもね、フェン。何が正解かだなんて、どうでもいいのよ。結局」

「……え?」



「あんたはどう考えて、これからどう行動したいの?」



 アンジェラの言葉が、フェンの頭を思い切り叩いた。

 フェンは目を瞬かせる。

 どう考えて、どう行動したいか。

 自分が。


「私、が……?」


 弱り果てたフェンがアンジェラを見上げると、彼女は小さく笑った。


「教えてあげられないわよ。その答えは自分で見つけなくちゃ」


 答えが見つかるまでは、幾らでもここで悩んで構わないけどね。そう付け足して、アンジェラは片目をつぶった。

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