『思考の死角を突かれる喜びと進撃の巨人』

 『進撃の巨人』を見た。 契約している某TVにて全話放送していたので一気に見ることにしたのだ。


 評判は聞いてはいたし、興味もないわけではなかったけれど、生来の面倒くさがりが災いして今の今まで視聴しておらず、また私事ではあるけれど『十日間の自分の努力が消えたことによる虚脱感』と現実逃避がしたくて久しぶりにテレビのスイッチを入れた。


 

 一話目では足を投げ出して気楽に見ていた自分が四話目には起き上がり、一言


「うん……面白いな、これ」


 とワクワワしてテレビの前で体勢を変えた。


 そして五話目を見終わった後で自分が跪くように両手をつけて見ていることに気づいた。


 その両手は緊張するように堅く突っ張っていて、手のひらはジットリと湿っている。


 次回予告が終わり『視聴ありがとうございました』の画面が出ると同時に出た言葉は……、


「な、なんなんだ……このアニメ」

 

 その後は25話が終わるまで歯を食いしばり、天井に視線を上げ、ビクリと身体を跳ね、そして最後には大きくため息をついてから……安堵にも似た溜息をつくのだ。


 あまりにもあっさりと死んでいくキャラ達、爽快感も無く、救いも無く、時には目を瞑りたくなってしまいそうな場面が多々あり、心がかきむしられるような不快感が心底にいつまでもこびりつくようなストーリーだ。


 でも見ることを止めようとは一瞬も思わなかった。 


 不思議な感覚だった。


 見終わってから風呂に入りながらボンヤリと考えていたら、なんとなくその理由がわかってきた。


 作品世界はシンプルなまでに残酷なのだ。 それこそ夢も希望も無く。


 それに気づいたきっかけは二十一、二十二話だった。 それによって自身が『パターン化された思考』になっていたことに気づくことができた。


 今までに見てきたアニメや漫画によって無意識に築き上げられていた『お約束』、『定番』『パターン』『基本の展開』というものが排除された、あまりにも『無慈悲で希望の無いストーリー』がそれらの『思いこみ』あるいは『勘違い』を一蹴してくれたのだ。


 『自分が出来ないことを他人がやったことに対する対象への認識の差異を埋める行為を尊敬という』

 

 そんなような文章をいつだったか読んだことがある。


 自分なりにこの衝撃を表現するのなら、


『思考の死角を突かれたことによる痛烈な快感』


それによって俺はこの作品に痺れさせられていたことに気づいたのだ。


 もちろんアニメ自体の出来が高いレベルで完成されていたことも理解している。


 だからこそ目の下に隈をつくって同僚に気味悪がられ、明日も早くて眠いのにのにこの文章を書く気力があるのだ。  


 俺は『進撃の巨人』という作品に出会ったことで『偏見の壁の外側』に出ることができたことを感謝する。


 そしてこの長々と書いた文章が『駄文』『思いこみ』『チラシの裏』『売れている作品への媚び』と思われないような小説書きになりたいと思う。


 なぜならおれ自身も主人公のようにこの残酷で無慈悲な世界で無謀にも近い夢を見て生きているのだから……。 


 それこそこちらの世界の『巨人』に食われても、潰されたとしても……だ。



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