(三)藤村多江ノ手記

 最近夫の様子が、めっぽうおかしくなってしまいました。

 もはや私の知る夫はここにはいません。怪しく、そして時にはおぞましいとまで思ってしまうほどの彼の奇行に、私は終日悩まされ続けているのです。

 夫は今、隣の和室の窓を開け放して、縁側にあぐらをかき、何やらうわ言のようなことを一人、庭先に向かって延々としゃべり続けています。これが毎日のように繰り返されるのです。私はもうこれが恐ろしくって恐ろしくって、自分までがおかしくなってしまいそうなのです。

 端から見れば彼は痴呆症にでもなってしまったのではないかなどと思われるかもしれません。ですが決してそんなものではないのです。私には判っています。

 夫がこのように変わり果ててしまったのは、私に責任があるのです。全て私が悪いのです。あの晩、私があんな愚かな過ちを犯さなければ、夫がこんな風になることなどなかったのです。

 あの夜の出来事を、こうしてまた思い返してはここに書き起こすなど甚だ愚かしく、またお恥ずかしいことこの上ないのですけれども、夫がこうなってしまったことに強い責任を感じるうえ、彼への懺悔の意も込め、あのことをいつ何時も決して失念してはならぬという思いから、誰に向けるでもなくここにこうして書き記しておく所存です。

 

 あれはまだ寝苦しい夜が連日と続く盆明けのことでした。夫、信二郎の二つ上のお兄様である信太郎さんが連絡もなく突然我が家を訪れたのです。聞くとしばらくここに泊めて欲しいとのことだったので、私も夫も少し驚いてしまって、とにかくお義兄様に居間まで上がっていただきました。

 座卓をはさんで向かい合わせに座る兄弟にお茶を差し出してから、私も夫の隣に座りました。

 見ると、お義兄様はひどくやつれたご様子でした。幾分か頬が痩せこけてしまっているようにも見受けられましたので、私もただ事ではないと感じました。

 それから夫が、一体何があったのかと尋ねたところ、どうやらお義兄様はお勤めになっていた会社から解雇を言い渡されたそうなのです。

 お義兄様のお勤め先はここから電車を三駅分走らせたところにあって、夫と違って結婚もされていなかったため、会社の近くの賃貸物件でずっとお一人で暮らしていらっしゃったのでした。

 今回の解雇を受けて、一週間ほど途方に暮れながらそこで生活していらしたそうなのですが、いよいよ金銭的な懸念も募ってきたために、こうして藁をもすがる思いで我々夫婦のもとにやってきたとのことでした。

 夫とお義兄様は、子供の時分は仲が大変よろしかったそうなのですが、元来勉強熱心であった夫と比べて、お義兄様はまさに対照的で、学生の頃から遊び歩くことが増え、ご両親にも叱られてばかりいたそうです。故にご両親も、勤勉な弟を目にかけて、兄にはもはや何も期待していないといった雰囲気を家庭内に漂わせていたそうです。ご両親は少々お厳しい方達で、世間体などもよく気にされるため、こうした兄と弟での待遇の違いも十分に頷けるかと思いました。

 優れた弟と出来の悪い兄。こうした背景から、夫の自尊心がみるみる高まっていったのではないかと思います。それは自分自身の自尊心であり、藤村家全体の自尊心でもあったのでしょう。それ故か、夫は私と結婚した当初から、「あんなのを兄に持って恥ずかしい限りだ」などと言って、お義兄様のことをあまり良く思っていないご様子でした。

 なので、今回のようなことがあっても、夫はお義兄様にあまりいい顔をしませんでした。私はすっかりやつれておしまいになったお義兄様のことがなんだかとても可哀想に思えてならくて、夫の顔を覗き込んだのですが彼は自業自得だといった表情でお義兄様を睨みつけているのでした。

 それでいよいよ居た堪れなくなって、私の方からなんとか夫を説得しました。夫は、お義兄様が新しい職を見つけるまで、という条件で、ここで暮らすことを渋々ながらも認めてくれました。

 お義兄様は「ありがとう」と言いながらおいおいと泣いておられました。「いいんです」と私も宥めるのでしたが、夫は迷惑そうな、やれやれといった表情を浮かべていました。

 賃貸を退去し、必要最低限のものだけを持ち込んでお義兄様は我が家で生活を始めました。その他、家にあったものは全てお売りになったそうで、これから必要になるものはその金で賄うから余計な気は遣わなくて良い、と仰っていました。私達になるべく迷惑がかからないようにという、お義兄様のせめてもの気遣いだったのでしょう。

 ところが、お義兄様は新しいお仕事を見つけるのになかなか苦労していらっしゃる様子で、そのことで夫から咎められる機会が日に日に増えていったのでした。

 私は折に触れ、そんなお義兄様に励ましの言葉をかけていました。お義兄様が可哀想でならなかったからです。お義兄様は大変優しいお方でした。職を失われる前から、信二郎とはどうだ、などと何かと私のことを気遣ってくださっていました。

 夫は私のことをとても愛してくれていました。子宝には恵まれておりませんけれど、その分私のことを一番に思ってくれているようで、幸せな結婚生活を送ることができていました。そのことをお義兄様に度々申し上げますと、いつも大変喜んで聞いてくださっていました。

 ある時、夫の仕事中にたまたま我が家を訪れたお義兄様は、「僕は弟、いや家族全員に恥をかかせてしまって申し訳なく思っている。だから信二郎がこうして社会で活躍して幸せな結婚までできて、父さんと母さんを安心させてくれているのをとても嬉しく思う。だから兄である自分ももっと頑張らねば、と思うんです。もうあの時の僕とは違う。そういう気持ちでね」と仰っていました。私はこれを聞いて、対照的な学生時代を送った兄弟でも、大切な者を想う点ではやはり似た者同士であるのだとひどく感動したのを覚えています。

 それ故に、今回職を失って一番お辛いのは信太郎お義兄様ご自身だと思います。無事定職に就き、これからという時であったので本人もさぞかし肩を落とされたことでしょう。

 もう弟に恥はかかせられない。そういった思いもおありだったでしょうに、それでも私達夫婦を頼みにしてやって来られたその切迫した心中をお察しするに、とても同情せずにはいられません。

 そのうち夫はとうとう痺れを切らしたようで、お義兄様に、三日後に一度実家がある東北に帰って両親に報告してくるようにと命じました。お義兄様も、もうこれ以上迷惑はかけられないとお思いになられたのか、その場で三日後の夜行汽車でご実家に戻ることをお約束されました。

 さて三日後です。その日、夫は朝早くに勤め先へ出発していきました。なんでも会社の方でとても大きな事業に取り掛かるらしく、その日は泊まり込みで勤務をするとのことでした。まだ眠っておられたお義兄様を無理やりに起こして、今日自分はもう帰らないから、しっかりと親に報告してくるように、と念を押して家を出て行きました。

 午前中、お義兄様は外へお出かけになり、午後はお荷物の支度をされているようでした。夕食後、出発される前にと思い、私はお義兄様にお茶を淹れて差し上げました。お義兄様のために設けた寝室へ参りまして襖を開けますと、荷物をすっかりおまとめになったお義兄様は、こちらに背中を向けて何やら考え込んでいるご様子でした。

「お義兄様……」

 私が声をかけますと、お義兄様は少し驚かれた様子で、「あぁ、多江さん」と首だけをこちらに向けて仰いました。

「お茶を淹れたのですけれど、いかがですか」

「ああ、これは、どうもありがとう……」

 そうは言いながらもなかなかお立ちになろうとしませんでした。やがてお義兄様はすっかりうなだれておしまいになりました。その悲哀に満ち満ちた背中を見て、私は涙を堪えるのに必死でした。

「すみませんね、多江さん。結局転職先も見つからずに、一月も厄介になってしまって……」

「いえ……そんなこと仰らないでください」

 思えば、前のお仕事に就かれた時のお義兄様は、私の夫に対してようやく兄としての威厳を取り戻したようなご様子でした。お義父様とお義母様の金婚式のお祝いに、私達夫婦とお義兄様の三人で一度東北のご実家に伺った際も、多少のぎこちなさもありながらではありましたが、お義兄様はしっかりと一家の長男らしく振舞っておいでで、夫とのいかにも兄弟らしいやり取りも、とても微笑ましい光景でありました。

 そのことを思い返すと、現在のこの弱り切ってしまったお義兄様のお姿を見るのがとても辛く、私はつい目を逸らして溢れそうになる涙を指で抑え抑えしておりました。

 このままご実家に戻られれば、ご両親にも見放されてしまうかもしれない。そうなると、お義兄様は孤独の身となられてしまう。そう考えると、どうにかお義兄様をお救いすることはできぬかと、そればかり思案しているのでした。

 お義兄様のお気持ちを慰めたい。その思いから、その時の私がとった行動、それがすべての始まりだったのです。

 どうしてその時、あのようなことをしてしまったのでしょうか。私自身にも分かりません。気づけば私はお義兄様の背中にぴたりと寄りかかっているのでした。

「多江さん……」

 私は何も言いませんでした。戸惑ったお義兄様のお顔がこちらに向けられた時、私はそっとその唇に自らの唇を重ねてしまったのです。この一瞬ばかりは、私がこの人の弟の妻であることなどすっかり失念していたように思います。

 愚かでした。たった一時の情が、私を誤った行動へ導いたのでした。

 こう言うと言い訳に聞こえてしまうかもしれませんが、私にはそうすることしかできなかったのです。そうすることしか思い浮かばなかったのです。お義兄様の寂しいお気持ちを鑑みますと、孤独の恐ろしさが自分のことのように感じられ、安心していただきたいという思いから、私は彼に接吻するという、極めて短絡的な行為に及んでしまったのでした。

「ダメです、多江さん。どうして……」

 お義兄様がそう言って身を引かれた時、ああ間違ったことをしてしまったのだと思いました。

 どうして別の行動ができなかったのでしょう。どうして他の方法が思い浮かばなかったのでしょう。或いは私は、お義兄様がここへやって来られた時からこうなることを予期していたのかもしれません。いずれお義兄様の虚しさをこうして慰めて差し上げる時が来るかもしれぬと、そう思っていたのかもしれません。したがってそれは夫への裏切りであり、同時にお義兄様を蔑んだ行為だったということになります。そうなると、もはや救いようも何もございません。

 それでも尚、私は気付くとお義兄様の手を握っていました。同情する気持ちはいつしか愛おしさへと変わり、それは夫への背徳感を凌駕する程であったのです。戸惑うお顔はそのままでしたが、お義兄様は徐々に私の手の温もりを受け入れ始めているような、そんなご様子でした。

「お義兄様、信二郎さんは今晩はもう帰ってきません。今日は夜行汽車でお帰りになるのはお止しになって、明日の早朝、鈍行で帰られるのはいかがでしょう」

「いや、ですが……」

「私、これ以上お義兄様の寂しそうなご様子を見るのが辛いんです。もし私が少しでもお力になれるのなら、私でお義兄様が少しでも慰められるのなら……私自身も救われるような気がするのです。ですから今夜は私とご一緒してください。大丈夫です、今晩ばかりは、信二郎さんのことはお忘れになって……ネ」

 このような言葉をお義兄様におかけしたように思いますが定かではありません。なにせその時の私は一心不乱でしたので……。

「お風呂を沸かして参ります。お上りになったら私の寝室にいらしてください。お待ちしておりますから……」

 それからのことはよく覚えてはいません。夫への背徳感をもみ消そうとしていたのか、夫のこと自体忘れようと努力していたのか、いずれにせよ私は意識的に何も考えぬようにしていました。

 寝室に布団を敷いて、しばらく頭を真っ白にして座っておりますと、襖が少しだけ開いて台所の灯が差し込んできました。

 振り返るとそこにはお義兄様のお姿がありました。

 寝室でじっと待つ間、何も考えないようにしていた私でしたが、どこかでお義兄様が来られないことを期待していたように思います。自分から誘っておきながら、非常に勝手な期待なのですけれど、もしお義兄様がそのままご出発なさって、私が知らず知らずのうちに眠り込んでしまえば、お義兄様は私の慰めなど必要でなかったのだと、私の同情心にも諦めがついたことでしょう。

 それでも、お義兄様をそこに確認した瞬間、私は覚悟を決めたのです。

 寝室に一歩入られたお義兄様は、後手に襖をゆっくりとお閉めになりました。暗闇の中、寝室灯の橙色の灯が布団の上だけを照らす形となりました。

 そうして何も仰らぬまま私の隣にお座りになって、今度はお義兄様の方から私に口付けなさいました。そのまま布団の上に私を押し倒されましたので、先程まで何も考えないようにしていたのがまるで嘘のように、私の頭の中に様々な思いが突然沸々として参りまして、胸の高鳴りを抑えるのに必死で御座いました。

「本当に宜しいのですね……」

 私に乗りかかる格好となったお義兄様は尚も口を噤んだままでいらっしゃいました。それこそが、私に何も考えるなという合図であったのかもしれません。

 それから先は頭がひどくぼんやりとしてしまっていてあまりよくは記憶しておりません。おそらくはお義兄様もそうだったのだろうと思います。私達は二人とも、真っ暗な虚無の中から手探りで禁断の果実に触れてしまったのでした。

 夢か現かも分からぬまま、陽炎のような不確かに揺らめく心地が、ただひたすら繰り返されるばかりでした。あの時、開くはずのない襖が開き、眩い光が漏れ入ってくるまでは─。

 それはあまりにも突然の出来事でした。台所へと通じる襖が誰かによってすうっと開かれたと思うと、そこには逆光のために一眼では誰とは判らぬ黒い人影が確かに立っていたのです。

 私はそんな時でもなぜか冷静に、私のものかお義兄様のものかも分からぬ顔の汗の滴を指で軽く拭いつつ、その人影が誰であるのかをじっと目を凝らして確認しました。

 そこには私の夫、信二郎の姿がありました。

 私は今度こそ本当に夢を見ているのだと思いました。お義兄様に同情するあまり愛情を抱いてしまったことを、私の無意識が戒めようと見せた悪い夢だと本気で思ったのです。そうしてそのような夢であることをその瞬間どれほど祈ったことでしょう。しかし、どれほど夢と思おうと、それは何の疑いもなく、紛うことなき現実なのでした。

 どうして─。私はその刹那の内に、なぜ夫が帰ってきたのかということだけを考えました。すぐに彼への罪悪感なり謝罪の念といったものが思い浮かばなかったことは皮肉なことで、誠に羞恥の極みであります。

 その時の夫の驚愕や絶望感が入り乱れたような唖然とした表情は今でも忘れられません。

 夫は見てしまったのです。実家に戻ったはずの兄と愛する妻が、裸で重なり合う色場を。彼にとってそれは、悪夢のような光景だったに違いありません。

 三人の視線が奇妙にぶつかり合ったまま、どれほどの時間が経過したでしょうか。或いはそれはほんの一瞬間の出来事であったようにも思います。時が止まってしまったような静寂が、そこにはありました。その時、愕然とした表情のままの夫が驚きのあまりに卒倒してしまったのです。

 見ると、泡まで吹いてしまっている状態でしたので、私も何が起こったのか訳が分からずに、涙が出て呼吸すら満足にできませんでした。お義兄様が必死で私を落ち着かせようとする声、次いで夫に駆け寄る声が聞こえていたような気もしますがよく覚えておりません。一方の私は、泣きむせびながらただただ「ごめんなさいごめんなさい」と言い続けていました。

 気づくとお義兄様は、夫を抱きかかえていらっしゃいました。私もハッとして寝着を乱雑に着まして、押入れから夫の布団を取り出して急いでそこに夫を寝かしてもらいました。

 やがて夫も落ち着いた様子で、寝息をスヤスヤとたて始めたので私達もひとまずは安心いたしました。

 横たわる夫を挟んで、私とお義兄様は無言で座っているばかりでした。二人とも、今しがた起こった出来事を受けてただただ呆然とし、これからどうしたものかと考えあぐねていたように思います。

 夜が明け始め、寝室にうっすらとした明かりが徐々に入り込んできましたので、私はお義兄様に、実家にお戻りいただくよう催促しました。お義兄様も夫のことを心配されているご様子でしたが、半ば無理やりにでもお帰りいただきました。

 全ては私が悪いのです。私がお義兄様をお誘いすることがなければ、あんなことにはならなかったのです。夫とお義兄様、双方に迷惑をかけてしまった、そのあまりにも大きな責任は、すべて私が負わなければなりません。

 玄関を出て行かれる時、お義兄様はまだ後ろ髪を引かれているような表情をなさっていました。無理もありません。

「お義父様とお義母様には、お仕事のことだけをしっかりご報告なさってきてください。信二郎さんのことは私の責任ですから、どうかお気になさらず……」

 お義兄様は何も仰らず、静かに首を縦にふるような仕草をされましたが、それでもやはり、不安げなご様子でした。

 夫が目を覚ました時はただただ詫び続けるしかないと思っていました。そうして、お義兄様を責めるようなことだけはしないよう懇願するつもりでした。

 しかし、いざ横たわる夫を目の前にしますと、このまま目を覚まさなければ、と心のどこかで期待してしまうのでした。私はつくづく、悪い女です。

 その日の夕方ごろでしたでしょうか。夫がついにその目を開いたのは。

「信二郎さん……」

 私がそう声をかけますと、夫はしばらく辺りを見回しておりました。そうしてその目線が私の顔を捉えますと、その虚ろな眼で私にこう言ったのです。

「あの……、あなたは、誰でしょう─」


 これが、私の犯した過ちの全てです。あれから二月ほどが経ちました。

 後から夫の勤め先の同僚の方に聞いた話によりますと、あの日、会社での大きな事業のために夫を含めた社員数名が泊まり込みで業務に取り掛かっていたそうなのですが、思いの外話し合いが行き詰まってしまったそうで、一度各自で仕事を持ち帰ろうということで急遽全員が帰宅することになったとのことでした。

 本当に情けないことなのですけれど、夫が目を覚まして、私に誰かと問いかけた時、心の奥の方で安心してしまっている自分がいたのです。ああ信二郎さんはあの光景を目にした衝撃で記憶を喪失してしまったのだ、と瞬時に悟ったのです。

「私です……。多江です」

 確認のため、自分の名前を夫に告げますと、尚も微妙な表情を浮かべているばかりだったので、本当に何も覚えていないのだと確信しました。そうして咄嗟に、

「……記憶を、失くされたのですね……」

と言うと、夫もようやく、自分が置かれた状況を把握し始めている様子でした。

 記憶を失くしたとなれば、私がお義兄様と不義をはたらいたことも、夫は当然覚えていない─。こう考えると、愚かしくも私は肩の荷が下りた気分になったのです。

 こうして私は、夫の記憶喪失を都合のいいように利用することにしたのです。夫は自分自身のことだけはわずかながら記憶している様子だったので、毎日少しずつ、新しい情報を彼の記憶に付け足していきました。ただ、私のことは、聞かれてもあやふやに答えるだけにとどめました。もちろん、私達が夫婦であることも。少しの刺激でも、夫が記憶を取り戻してしまうことにつながるのではと考えたからです。

 誠に身勝手なことなのですけれど、私はまだ夫のことを愛していました。だからこそ、こうして彼が記憶を失ったのをいいことに、また一から、私達が愛を育んでいけるよう画策していたのです。私がこうして献身的に支えることで、夫が再び私に恋心を抱いてくれることを、私は密かに心待ちにしていました。

 夫には、新しい私を認識してほしかったのです。そうして、私自身もあの出来事を徐々に忘れてしまうことができれば、と考えていました。ただ、罪悪感はそう簡単に拭い去ることはできません。そもそも、こうして夫と新しい恋を始めようとすること自体が、あの大きな罪の延長であるということに気づいて、私は徐々に自分がしていることに迷いを感じていくようになったのでした。

 そう思いつつ、つい夫の前で悲しい表情をしてしまっている私を夫が心配そうに見つめているのを知りながら、私はその視線に耐えられずにその場を離れては、見えないところでおいおいと泣いてばかりいました。私が泣ける立場ではないことは分かっていたのですけれど。

 そんな奇妙な生活が始まって一週間ほどが経過した頃でしょうか。夫の奇行が顕著になり始めたのは。

 それまで、記憶を失ったこと以外は何不自由なく生活できていたように思っていたのですが、ある時私が外出先から家へ戻ってきますと、夫が何やらうわ言らしきことを一人で口にしているではありませんか。

 そんな夫の奇妙な様子を見て、私はついに気が触れてしまったのだと思いました。私とお義兄様の情事を知ってしまったショックで、記憶が吹き飛んだだけでなく、精神まで病んでしまったのだ、と。

 恐る恐る、夫に近づいて耳を傾けてみますと、どうやらただのうわ言ではないようなのでした。

 夫は、何か物語めいたものを淡々と誰にともなく語っているような口調だったのです。そこには私の名前も登場している様子だったので、私はいよいよ恐ろしくなってその場で耳を塞いでしまいました。私が夫の心の中では一体どのような存在なのか、聞く勇気すらありませんでした。

 夫は、そうして一人で語っている時以外は、まるで別人のように、いたって普通の記憶喪失患者でした。それ故に、いつまた夫が奇行にはしるかもしれぬという懸念が常に私を取り巻くようになりましたので、こっちまで気が狂いそうになってくるのでした。

 そうやって一人で何か口にしている時、夫は決まって和室の縁側に座るので、私はいつもそれが始まると襖を閉じ切ってそこを離れるのでした。それでも漏れ聞こえてくる夫の声に戦々恐々としつつ、私は耳を塞いでそれが早く終わらぬものかとじっと耐え忍ぶばかりです。

 彼が一体どのようなことを語っているのか、気になる気持ちももちろんありましたが、あれだけ真面目で誠実であった夫がこのような状態になってしまったものですから、恐ろしくてとてもではありませんがそれに聞き入る勇気を奮い起こすことなど私にはできませんでした。

 こうして私は、一人で喋っている時の夫は本当の夫ではないのだと自分に言い聞かせることによって、無理やりにでも心を落ち着かせるようになりました。


 お義兄様はと言いますと、あの後東北のご実家に戻られて、ご両親にひどくお叱りを受けたそうです。それからは地元で転職先をお探しになり、二週間ほどで新しいお勤め先が無事決まったとのことでした。夫がこんな状態になってから、お仕事が決まったというのはなんとも皮肉なことですが。

 そのお知らせをお義兄様からお手紙でいただいたので、私もその喜びを申し上げると共に、現在の夫の様子をお伝えしましたところ、お義兄様はやはり大変にご心配なさっていました。

 そんな折、偶然にも夫は、自分に兄弟はいたのかと私に尋ねてきました。私の方から誘ったとはいえ、自分の妻を妾にとった実の兄のことですので、私がお義兄様のことを安易に教えてしまえば夫が全てを思い出すきっかけになるのではと恐れたのですが、そういつまでも隠しておくこともできないだろうと考えまして、あまり多くを語らぬよう慎重に兄弟の存在を明かしました。

 夫は何も思い出さなかったようですが、私は彼にお義兄様のことを語ったことによってより一層の罪悪感を抱くようになってしまいまして、しばらくはその申し訳なさから、夫の顔を見ることができませんでした。

 そうして徐々に夫の顔を見ることに尋常でない程の辛さを感じてしまうようになり、ある時私はとうとう箪笥からマスクを取り出しまして、毎日それをつけて夫と接するようになったのです。マスクをつけることにより、夫から私の顔へ注がれる視線の圧迫を逃れられるような気分になれましたし、また私自身も夫への視線を曖昧にしつつ表情を隠すことができましたので非常に楽な気持ちでいられたのです。愛する夫の顔を見るのが辛いというのは、自分の都合だけを考えた実に利己的なことで、大変お恥ずかしい限りなのですけれど……。

 ある日の夕食時でした。食事の際はマスクを取らなければならず、できる限りマスクはつけておきたいと考えましたので、私は夫と食事時間を別にすることにしたのです。夫を台所に呼びまして、その日準備した夕食を出しました。すると食事中、夫はこんな奇妙なことを口にしたのです。

「スミダさん、ここの病院食はなかなか美味いですね」

 私は一瞬訳が分からなかったのですが、よく聞いてみるとどうやら夫は私を病院の看護婦か何かと勘違いしている様子なのでした。

 夫はついに、私と一緒にいる時でもおかしなことを口にするようになってしまたのだと私は思いました。しかし、私はすぐにこのマスクが原因なのではと考えました。そうして試しにマスクを取ってみますと、夫はしっかりと、私を私として認識したのです。

 夫が一人で語る物語の中に、スミダという看護婦でもいるのでしょうか。よくは分かりませんが、一般的な看護婦がいつもつけているマスクと、私のそれが夫の中で重なったのだと考えています。

 この法則に気がついたのは、私にとって好都合でした。以来私は、夫の前で「多江」と「看護婦のスミダ」という二つの人物を使い分けるようになりました。

 その頃、お義兄様からしきりに夫に会いたいと連絡をいただくようになりました。私は夫がお義兄様の顔を見てあの時のことを思い出してしまうのではと恐れたのですが、お義兄様がどうしてもとおっしゃるので、私がその場に居合わせない、という条件で承諾しました。お義兄様と私が同時に夫の前に現れれば、あの光景を思い出す可能性が益々高まってしまうと考えたからでした。

 そうして後日、お義兄様がうちにいらっしゃいましたので、私は玄関先でお出迎えしました。前のお仕事を解雇された時の少々やつれてしまった印象は今やどこにもなく、見違えるほど清々しいご様子でいらっしゃいました。精神を病んでしまった夫と比べますと、あの頃とはまるで兄弟の立場が変わってしまったと感じて、なんだか虚しく悲しい気持ちになりました。

 お義兄様にはそのままお入りいただいて、私は入れ替わりの格好で玄関を出てお義兄様がお帰りになるまで外出することにしました。

家の中にいると、嫌でも彼らの話し声が聞こえてきて辛くなってしまうと考えたからでした。

 しかし、どうしても夫とお義兄様のことが気がかりで、私は少々早めに家へ戻ってきてしまいました。お義兄様がまだ中にいらっしゃることを玄関にある靴で確認した時、「おい、信二郎!」とお義兄様が大きな声をあげるのを聞きました。

 後からお義兄様にお聞きした話によりますと、すっかりおかしくなってしまった夫に対してお義兄様は少々強く当たってしまったそうです。

 そろそろお義兄様にはお帰りになっていただいた方が良いと思い、私はマスクをつけ、二人がいるお部屋の襖を静かに開きました。

「あの、藤村さんのお兄さん、ちょっといいかしら」

 看護婦のスミダとしてそこに現れた手前、このように奇妙な言い方でお義兄様をお呼びする形になってしまいました。このことはお義兄様にきちんと後で説明しておきました。

 夫はその後、お義兄様に強く言われてしまったせいか、自分が記憶喪失になったことに強い疑問を感じるようになった様子で、私にしきりにその理由を尋ねるのでしたが、私も答えを曖昧にしてしまうばかりなのでした。


 こうして、今に至るまで、夫には全てを明かさぬまま奇妙な生活を続けてきました。日に日に増していく夫の奇行によって、私もいよいよ限界を覚えてきたのでこの手記を書くに至りました。

 思えば、お義兄様との色場を夫に見られてしまったことが私の罪の終わりではなかったのです。その後夫が記憶喪失になったことを利用して彼との関係をやり直そうとしたことも、すべて自らを苦しめる結果となった立派な罪です。自業自得としか言いようがありません。

 今、隣の和室で一人、延々と語っているのも、まるで夫が私のその罪を咎めているかのように錯覚してしまって、私は益々耳を塞ぎたくなるのです。

 一体何を語っているのでしょうか。私には、それを聞こうとするのはあまりにも恐ろしくてできませんし、もはや聞きたいとも思いません。

 先程外出先から戻ってきた時、すでにこの独り語りは始まっていました。私は耳を塞ぎながら、急いで和室の襖を閉じました。それから居間の座卓の上を見ますと、そこにあるものを発見したのです。

 それは、青色の花が印刷された白い封筒でした。中には手紙も入っていたようです。そこには「多江さんへ」と書かれていました。

 私は昨日、夫が箪笥にしまってあったその便箋を手にとってじっと眺めていたのを思い出しました。そして今日、私が外出している間に、その便箋に何かを書き起こしたものと思われます。

 座卓の上にその便箋が置いてあるのを見た時、私は思わず身震いしてしまいました。そうしてすぐに居間の方からお庭に出まして、火を起こしてその便箋を燃やしてしまいました。

 何が書いてあったのでしょう。ですが、愛する人が気を違えてしまったのです。そんな人が書く手紙など、読む勇気はありません。ともすると何か突拍子のないおかしなことが書かれているかもしれないのです。もしそんなものを読んでしまえば、私の中で愛する人が本当の愛する人でなくなってしまうかもしれません。それが怖くて、つい咄嗟にそれを燃やしてしまったのでした。

 私はこれから、どうしたらよいのでしょう。罪の上に罪を重ね続けて、もはや逃げ道すら失ってしまいました。

 たった一度の過ちが、こんな地獄を見せるものだとは、思ってもみませんでした。全てはこの愚かな私が招いたことなのですから、受け止めながら生きていくしかありません。

 夫が突然笑い出しました。それもとても大きな声をあげて。

 嗚呼、なんと恐ろしい笑い声でしょう。こんなことが今までにあったでしょうか。その大きな笑い声は、閉じ切った襖からもはっきりと漏れ聞こえてくる程です。

 夫に何が起こったのでしょう。ただ、そう思ったところで確かめる術などありません。私が和室に入って行って、夫のそばまで寄っていけば話は別なのでしょう。ですが何度も申し上げております通り、私は恐ろしいのです。とてもではありませんが今の夫に近づくことなどできません。

 愛しているのに、こんなにも愛しているのに─。私のような悪魔が、他にいるでしょうか。

 所詮この愛も偽善的なものなのでしょう。夫のことを愛しているのは事実です。しかし、どうしても恐怖心から自分を護衛することを優先してしまうのです。

 もはやどんなことを言っても言い訳めいて聞こえてしまいます。どのみち私はこの罪を一生背負って生きていかなければならないのですから、今更何を言っても無駄なのでしょう。そろそろこの手記も、終わりにしたいと思います。

 私が犯した大罪、そして背負うべき十字架の重さを、自分自身に言い聞かせ、そしてまた生涯忘れることがないようにと書き始めたこの手記ですが、書けども書けども、益々辛くなるばかりでなく、夫への罪悪感で私自身の精神が崩壊してしまいそうになるため、書き終わり次第、これも燃やしてしまおうかと思います。

 夫の笑い声が一段と大きくなっていきます。耳を塞いでも、その狂ったような声の余韻が私の脳みその奥をつんざいてクラクラとなるような、そんな気分です。

 人は本物の悲しみの底に達した時、涙を通り越して笑うと言われています。夫も今、そんな状況なのでしょうか。そんなことを考えると、私自身もいよいよおかしくなってしまいそうです。

 いっそのこと、私も笑ってしまいたい気分です。しかし今の私には、涙を流す資格すらありません。加害者が流す涙など、雨水の一滴よりも価値がないものです。

 それにしても不気味です。愛する人の悲しみの果ての笑い声程、不気味なものはありません。

 夫の精神の中では、今何が起こっているのでしょう。

 分かりません。彼が一体何が可笑しくて笑っているのか、さっぱり分かりません─。

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