第十四話 平助、抵抗する

 午後七時四十分。夕食の後片付けも終わり、僕はリビングのソファーに背中を預けていた。佐久場さんが、ここで休んでていいと言ってくれたのだ。

 それにしても、未だに口の中が熱い気がする。よくよく思い出せば、アレは佐久場さんの鉄板から送り込まれた訳で。そう考えると、頬まで熱くなってきて。


「こりゃダメだ。思考が持っていかれる」

 気を紛らわせるためにテレビをかけてみた。画面が大きく、画質も良い。しかし、どこか空しかった。これでは紛らわしにもならない。僕は一通りチャンネルを変えてから、静かに電源を切った。


「母さん。テレビ売ろうぜ。受信料分は浮くんだからさあ」

「ダメよ。ニュースぐらいは見ておかないと、いよいよ世間から取り残されちゃうじゃない」

 ボロアパートの自室に、母がいた頃の会話を思い出す。思えば、母がニュースを気にし始めた頃から。いや、それはどうでもいい話だ。僕が未だに古い小さな、見ないはずのテレビを捨て切れずにいるのは問題だけども。


 思い出は自虐を呼び、嫌な記憶を甦らせる。自分に腹が立つ。これなら、まだ先程の食事を思い出していた方が健全だった。カキフライは別にしても、だ。あの夕食では、だいぶ冷や汗をかかされたけど。佐久場さんとの交友が進んだかはともかく、とても有意義な会話だったとは思っている。

 佐久場さんの夢も、聞くことができた。まさか彼女の口から「いいお嫁さん」なんていう、ある意味俗な言葉が出るとは。背景は、いろいろとあるのだろうけど。


 しかしやはり退屈だ。佐久場さんは、先程から自分の部屋に立て籠もってしまった。自分が変貌するさまを見られたくないのだろう。うん、そりゃそうだ。普段の暴走バーストだってかなりギャップしかないのに、「覚醒」ともなればどうなるやら。


「くわばらくわばら」

 僕は垂らしていた足をソファに乗せると、そのままふんぞり返って頭を背もたれからのけぞらせた。そこで目にしたのは。黒に彩られた、双子のお山であった。おやまあ。って。ちょっと待て。


 恐る恐る身体を反転させる。いや。もうそろそろ時間だけど、認めたくない。僕の視界が目の当たりにした現実が、現実が。

「あらあら。はしっかり、私の望みを叶えたのね。いや、あの日ね。本体が啜っていた汁がこっちでも美味しかったのよ。さあ、今宵はたっぷり啜らせてもらうわよ?」

 佐久場さんの姿をした、紅い瞳の。サキュバスバニーガールだなんて。なんかそれっぽいポーズまで決めて、こちらを誘惑するように香りを振り撒いている。危険だ。これは危険だ。逃げ……。


「ダーメっ」

 弾んだ声と共に、サキュバスの指がパチンと鳴る。すると各所のドアが、ガチャリガチャリとひとりでに閉まっていった。怪談とかポルターガイスト?

「そんな訳ないでしょう? 私はサキュバス。オトコを逃さない術なんて、お手の物よ?」

 な。なるほど。確かに結界とかそういうの張れそうだよな、マンガ的に解釈して。って、そうじゃない! これ、考えを読み取られてる?


「察しが良くて、助かるわ。心が読めれば、相手の理想の女の子に化けるのも簡単だしね」

 クスクスと、ケラケラと手の内を明かすサキュバス。ダメだ。佐久場さんの痴態とは、全く比べ物にならない。これは恐らく、嬲り殺しだ。僕を絶望させて、その上で啜る気なんだ。

 呼吸が荒い。頬を汗が伝う。ダメだ。打てる手なんてない。こっちから攻め込む? ダメだ。相手は佐久場さんの身体だぞ。


「そうよ。貴方に打てる手はないの。大丈夫。殺しはしないから」

 間合いを取ろうと後ろに下がれば、サキュバスはジリジリと間合いを詰める。いつしか僕は、部屋の角にまで追い詰められていた。


 視界いっぱいに、佐久場さんの姿をしたサキュバスが映る。艶かしい肢体。その全てが、僕の下半身を熱くする。匂い立つ、鼻腔をくすぐるようなエッチな香りが。振り撒かれたエロスなオーラが。僕の頭がクラクラさせていた。ただでさえ僕を奮い立たせる佐久場さんの身体が、いつもよりも更に僕を煮え滾らせているのだ。


「よーし、よし。そのまま大人しくしててね。私が美味しく食べてあげるから」

 手を伸ばせば触れられる位置までやって来たサキュバスが、僕に向かって手を伸ばし。ほくそ笑んで。

「フフフ。ウフフフフ。……あぢゃああああっ!?」

 僕の左胸に指先が触れた途端、彼女は右手、それも中指を押さえて後ずさった。だいぶコミカルな悲鳴も添えて、である。その声が、飛びかけていた僕の意識を。無理矢理平常へと引き戻した。


「き、貴様!なにを隠している!? 十字架か? 聖書か? はたまた魔道具か? 差し出せい!」

 さっきまでの艶めかしさが崩れ落ちる。口調も変わる。慌てふためきつつも、今度は左手を突き出して来た。僕は為す術もなく倒される。その拍子に、白いお守りがポロリと胸元からこぼれ落ちた。


「おのれ、魔道具を持ち込んでおったか!」

「さっき見つけた、お守り……!」

 僕はなにが起きたかを理解した。恐らくこのお守りが、一応は悪魔属性を持つサキュバスに反応したのだ。そういえばあの隣人、妙にその手の勘が凄かったけど。まさか効力があるなんて。


「おのれおのれおのれ!」

 しかし目の前のサキュバスは。怯むどころか、怒りも露わに荒い息を吐いている。結局、命の危機には違いなかった。むしろ怒らせた分、もっとヤバいのかもしれない。


「キエエエエエエエーーーーーーーーーーーーーッ!!!!!!」

 そして、絶叫が轟いて。僕は目を閉じ耳を塞ぐ。ガラスが割れた音こそしないが、物凄い声だ。ピシピシ、となにかが体に当たった音がする。固いものではないようだけど。


「ハッ……ハッ……!」

 絶叫は十秒程続いてようやく止まった。これまでの人生で、一番長い十秒だったと思う。恐る恐る目を開けると、佐久場さんの体からバニースーツが吹き飛んでいた。生まれたままの姿で、そこに立っている。まとめ髪が解けて長い髪が逆立つように浮き上がり、怒りのオーラが彼女を包んでいた。


「っ!」

 呼吸が荒い。胸が痛いほどに脈打っている。僕はそっと、お守りを拾って。手の中に仕込んだ。このままでは、死んでしまう。


「子種袋の分際でぇ、小賢しい真似を!」

 全裸のまま、サキュバスが突っ込んで来る。これが彼女の本性か! 男を喰らう意志しかないのか!

「ちくしょおおおおおおおおおお!」

 もう匂いは感じない。意識や股間の滾りも。いつの間にやら吹っ飛んでいた。得体の知れない怒りが、僕を突き動かした。手に握り込んだお守りを、覆い被さろうとするサキュバスに向けて。目の前でかざす。せめて、これで。頼む!


「……ぐ、ぬぅ」

 僕の願いが通じたのか、サキュバスの動きがピタリと止まった。僕を睨みつけ、威圧する。だが僕だって負けちゃいない。これさえ凌げば、話ができるかもしれない。佐久場さんに幻滅まではしないかもしれない。その一念に支えられて、僕はお守りをかざし続けた。

 時間が引き伸ばされていく感覚。右腕も、それを支える左腕も痛い。睨み合う時間が、永遠に続くかと思われたが。


「その魔道具を下ろせ」

 長い長い沈黙の果て、痺れを切らしたのはサキュバスだった。

「断る」

 即座に返す僕。当然だ。下ろしたら僕が危うい。

「そっちこそ僕から十歩間合いを取って欲しい」

 飛び掛かれない距離まで離れてもらうのが先だ。


「ぐぬぬ!」

 サキュバスが唸る。再び睨み合う僕達。しかし今度は早くに決着した。サキュバスが、ゆっくりと下がっていく。それを確認し、僕はお守りを掲げていた右腕を下ろす。


「なにが望みだ。私とて、本体に死なれる訳にはいかない」

 気が付けば、全裸になっていたはずの姿が、黒のレオタードに舞い戻っていた。羽や尻尾をつければ、一般的に思い浮かべられるサキュバスの姿に見えるだろうか。


「その前に誤解を解きたい。僕は別に貴女を殺そうとかそういうことは思っていない。徹底的に抵抗したい訳でもない。貴女の言う本体、佐久場澄子さんと契約した以上。補給には協力する」


 僕は、「話」を切り出した。そうだ。確かに、強く抵抗する形にはなってしまった。しかし元はといえば、彼女の姿に身の危険を感じてしまったからである。

「ではなぜ、そのような魔道具を持ち込んだ」

 サキュバスは、僕の右手を指差した。そこには、未だにお守りが握り込まれている。


「昔知り合いから貰った。たまたま見付けて、用心として胸に入れていた。ここまで効果があるとは、思ってもいなかった」

 事実のままを言う。まさかこんなに強力なお守りだとは。


「そうか」

 僕の発言を受けて、サキュバスはポツリと言った。それきり、言葉は発せず。深呼吸を繰り返していた。落ち着こうとしている、ように見えた。逆立っていた黒髪も、いつの間にか元に戻っている。


 僕は推察する。彼女はサキュバスらしく振る舞おうとして、かえって過激になってしまったのだろう。多分、もう生命の危険はない。はずだ。僕は、静かに立ち上がった。紅い瞳が、僅かに下に見える。


「どうしましょうか」

 僕は問うた。補給、というか捧げ物は必要なのだろう。彼女は、僕のを啜りたい訳だし。だったらすることなんて決まってる、とも言うけど。


「ここで啜ってしまおうかとも考えてはいたが、気が削がれた。本体の部屋へ来い。色々と寝物語でもしながら、じっくり啜ってやろう」

 サキュバスはそう言って背を向け、階段へと歩み出した。長い髪の毛がフワリと靡き、僕はそれを見送った。

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