第四章 私の中で私と私が戦う

第十二話 平助、小突かれる

 時の流れは未来へと進むもの。それは一体、誰が決めたのか。永遠に止まらない時の河は、無慈悲に二月十六日にたどり着く。


「おーい。置いて行くぞー」

「先に行っててくれ。後で必ず登校するから」

 その日、僕の足取りは異様に重たかった。別に学校へ行くのが嫌な訳ではない。むしろ学ばなければ、生き残れない。積極的に学ぶだけの心はあった。なのに身体が、僕を許してくれなかった。


「クッソ。どうしてこうなった」

 思わずボヤく。原因は予想がついていた。精神的な面が一つだが、とにかく体力がすり減っている。いくら睡眠やサキュバス能力による回復があっても、基礎体力そのものが落ちているのだろう。生活のバランスも、とても良いとは言えない。土台なくして家は建たず。身体を、鍛え直さなくては。僕は必死に、足取りを進め。


 結局、教室に着いたのは始業直前だった。

「危ねえな。よく間に合ったもんだぜ」

「今回ばかりは遅刻かと思った」

 机に突っ伏す僕。心配して机まで来てくれた雅紀。雅紀からわずかに視線をずらして、そっと隣の机を見る。そこは、無人だった。欠席なのか。夜に、備えているのか。


 僕の思いをよそに、予鈴はうるさく鳴り響く。

「じゃ、戻るな。体調に気をつけろよ?」

 雅紀が小走りで席へ戻って行き、再び一人になる。今日は、長い一日になるかもしれない。なんとなく、そんな気がした。


 一時間目。英語。

「よーし松本、この文を和訳しろ」

「トムは山へ草刈りに、ナンシーは川へ洗濯に……」

 ふう。宿題だけはしっかりやっておいた甲斐があった。当たるのを忘れてると、立たされるからな。


 二時間目。世界史。先生の話が長い。退屈だ。眠気覚ましに教科書をパラパラとめくると、中世ヨーロッパのページで手が止まった。魔女狩り。キリスト教の隆盛。

 そういえば、サキュバスってあっちの魔物だったっけ。彼女達は、いつ頃日本に来たのだろうか? 明治の頃なら鎖国もないし、上手いことあちこちに紛れ込めそうな気もするが。今度聞いてみようか。そう考えていると、不思議と顔が緩んできて。


「松本、どうしたニヤついて」

「あ、いえ。すみません!」

 先生にツッコまれてしまった。危ない。顔を引き締め直す。ともあれ、それ以外は無事に終わった。ああ、眠い。


 三時間目。化学。これは移動教室の上に実験主体だったので、気楽に終わった。眠気も覚めるので、実に良い授業だった。この状況ではありがたい。

 四時間目。古文。正直読めない。読めなくて悶えていたら、睡眠学習になりかけていた。反省。


 昼休み。教室の片隅で、雅紀と対面して昼食を取る。そういえば佐久場さんが転校して来てからは始めてだな、二人で食べるの。


「なんでえ、元気そうじゃないか」

「空元気だったらどうする?」

 購買で買った惣菜パンを二人して頬張り、喉に流し込む。目を合わせ、ニヤリと笑い合った。


「それだけ言えるのなら空元気じゃないな。安心したぜ」

「さあ、どうだかな。ところで今日は彼女とじゃなくていいのか、雅紀」

 二人だけの会話は、やはり気楽だ。普段なら言いにくいことも、サラッと言えてしまう。


「話を通したに決まってっだろ。『平助が元気なさそうで心配だから、二人飯にする』ってな」

「さすが雅紀」


 こういうところで案外抜かりがないのが雅紀だ。僕の友人にしておくにはもったいない。彼はいわゆるコミュ強の能力を活かし、クラスの人間関係においても中心の方にいるのだ。

 僕も彼のように振る舞えたら、どれだけ人生で得しただろうか。少なくとも、母さんと喧嘩別れはしなかっただろう。栄村さんを、自分の傍らに置くことができたかもしれない。


「なーに考えてやがる」

 焼きそばパンを頬張りながら、雅紀が僕の顔を覗き込んで来た。この友人は、空気を読まない。余計な一言でも、平気で言う奴だ。だが、その分自分に正直だ。そして、明るい男だ。


「俺のようになれてたら、とか考えても無駄だぞ? これはこれで、色々と痛えからな」

 僕の目を見て、奴は言う。その言い草が少しだけ気に触って、僕は意地を張った。

「誰が雅紀なんか。僕は僕で、雅紀は雅紀だ」


 次の瞬間、僕は軽く小突かれた。痛い。

「意地張ってるのは分かるぞ、バカ」

 ですよね。やっぱり腐れ縁。


「ん。まあその様子なら大丈夫か。俺は行くぜ」

「ああ、ありがとう」

 僕の態度に安心したのか、雅紀は最後のカレーパンを奪い取って席を立つ。


「待った」

「ん?」

 だが、僕はその制服の裾を掴む。なぜなら。


「それは僕の買った奴だから」

「おっと、バレたか」

 雅紀は軽く笑って、カレーパンを僕へ戻した。



 五時間目。数学。付いていくのが精一杯だが、それでも大学へ行くなら外せはしない。面倒臭いが、やらねばならない。


 六時間目。情報。パソコンを操るこの授業。目を盗むにはもってこいなんだけども。

「おいそこ、見えてるぞ。今はTubuyaitarの時間じゃあない」

「げっ、バレた」

「次やったら減点な」

 本職のせいか、教師が酷く厳しい。触らぬ神に祟りなし……。


 そんなこんなで、一日の授業が終わる。終わる、が。今日に関してはこれで安堵ではない。むしろここからが本番であろう。


「おーい、たまには三人で街行かねえか?」

「誘ってくれるのは嬉しいが、今日はやることがあるんだ。ごめん!」

 雅紀の嬉しい誘いを振り切り、なるべく自然に校門を抜け。後はゆっくりとアパートへ足を向けた。誘いに乗るのはマズいにしても、サキュバスに会うのは遅くにしたい。そんなややこしい気分が、僕を支配しているのだ。


 そうは言っても、断れない訳で。男には、約束を守らねばならない時がある。例え死ぬ可能性があるとしても、だ。

 時間を掛けてボロアパートに舞い戻り、ノロノロと準備をする。その時だった。服の間か物の間かに挟まっていたのか、白いお守りがポトリと落ちたのだ。


「ん? これは……懐かしいな」

 それは高校入学の際に、隣人から貰ったお守りだった。最近は留守にしていることが多いが、彼女は元気にしているのだろうか。もう三十にも近いというのに、結構あちこちに出払っている。


「思い出すなあ。『安全祈願にこれを持て』って言われたっけ。暫く身に付けてたけど、いつの間にか失くしてたんだよね」

 お守りを手に取り、じっと見る。どういう訳かお守りは、僕になにかを訴えているような気がして。

「……荷物の片隅でも良かったけど、シャツの胸ポケットに入れておこう」

 そのまま僕は、お守りを携帯することにしたのだった。

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