離れたくない…

初めてきた福岡は、私が予想していたより遥かに美しく、とても華やいだ街だった。

駅前には東京の街並みと変わらない程、発展していた。しかし、そこには東京都は少し違う暖かみを感じた。マクドナルドや、東急ハンズが入ったステーションビル、大きくてとても広いタクシー乗り場、オープンカフェになっているスターバックス、何もかも東京にはごく当たり前にあるものだったけど、何処か新鮮で何処か懐かしい情緒が溢れる街がそこには溢れんばかりに広がっていた。

そして、何よりもいつもとは少し違う純正…

子供に戻ったかのように楽しそうにはしゃぐ純正。彼は自分の事を「コドナ」という。これは人気俳優の「窪塚洋介」さんの本、「放尿」に書いてある表現の一つで、

子供の心を忘れないまま育った大人という意味であった。彼は窪塚さんの大ファンだ。彼も認めている通り、受け売りの言葉の一つだった。

俗に言う「ピータパン症候群」の一つだと私は思ってる。

いつも現実を直視しない、子供のような夢ばかりを見ている彼…

一つ間違えば詐欺ともいえない言動…

大した事でなくても、深く考え込んでしまう姿…

彼が芸能人でなければ絶対に許されないであろう行動…

今までの私の中では正直、彼は大嫌いなタイプだった。

いい加減でだらしがなく、おまけに時間にもルーズ。本当に最低な男だなって思っていた。彼と出会ったのは有名映画監督「橋本亮介」さんが行う「ワークショップ」だった。

つまり、監督が私たち新人相手にお芝居の指導をしてくれるとても神聖な場所。

今年の5月に行われたワークショップは誰しもが受けられる訳ではなく、幾つもの難関を通る事が必要で、有名な俳優さんから名の知れない新人まで全ての人にオーディションが課せられ、書類審査から始まり、三次くらいまでの審査に合格しなければならないとても過酷なものであった。私がそのワークショップに参加したのは、そのワークショップの中から監督が選んだ人には必ず次作の映画の配役が与えられるという条件が付いていたからである。とてつもない好条件だった。

私はどの時まだ、とある都内の私立大学の演劇サークルに入るくらいの、ど新人だった。まず、オーディション料を支払うため、毎朝「マクドナルド」でアルバイトをこなし、お昼からはお好み焼き屋さんで働いてようやく支払えるだけの金額がかかった。私はそんなに裕福な家庭環境で育っている訳ではなく、まして、そのアルバイトから学費も支払っていかなければならず、本当に切り詰めて生活して何とか払える金額だった。それでもいつかは尊敬する女優さんの「大竹しのぶ」さんに一歩でも近づきたいとの思いだったし、今回のワークショップの監督の作品も好きだった。

努力すれば、必ず役がもらえる。監督が直に指導してくれる。こんな好条件はなかった。だから、必死で貯めたお金を支払った。

そのワークショップの初日から遅刻してやってきた男が純正だ。

ニット帽にサングラス、おまけにガムを噛んで、耳にはイヤホンを付けて音楽を聴きながら、まるで何事もなかったかのように、入ってきた。私たちが自己紹介をしている中、決して謝る事すらなく自分の席に着く純正を見て正直、世の中にこんな最低な人がいるんだ…ってある意味軽蔑していた。監督には一言、何やら説明していたようだけど、私たちには挨拶一つもしない人。人が自己紹介をしている中で一人、音楽を聴きながら台本を読んでいる姿に半ば、軽蔑を通り越して呆れるくらいだった。でも、その中の女の子たちがザワザワとし始めた。

「つーか、まじ、ヤバくない!」

特に女子高生達の集団がざわめいている。中には写メを撮っている子もいた。「何なんだろうこの人は…」私だけが知らないだけで、かなりの有名人らしかった。だからといって、あの態度は許されないと私は思った。私の中では最低な男に変わりはない。目鼻立ちは整っているがこれといってずば抜けてカッコいいというわけでもないのに自信だけはたっぷりの彼。頭がいかれているのかとも思った。


そんな彼が自己紹介した時にある意味で私の中に衝撃が走った。それは皆んな誰しもが予想もしなかった彼の自己紹介。運営してしている会社の人から自己紹介をするように言われた時の彼の発言…

「あー、僕の名前は純正。みんなはJUNTAと呼んでます。所属事務所はジャパニーズ事務所。光平家とか、スナップとか最近だとGATーTENとかが所属する会社で、自分以外はアイドルグループばっかのとこっす。今回、別に映画に使われなくても良いです。自分が楽しければそれでいいって感じです。監督の事は知りませんし、作品も観てないです。あんまり、演技には興味はないです。自分は好きな音楽やってます。楽しければそれでいい感じです。まぁ、ある意味でテキトーな人間です。尊敬する人は高田純次さんとか、蛭子さん!そうあの漫画家の。何つーかテキトーな感じがいいんすよ。で、嫌いな女性は媚を売る女の子。好きな女性のタイプは沢尻エリカさんです」皆んなは精一杯、役をもらおうと必死な時にこんな発言!ありえないと思った。でもその時、監督がこの日初めて身を前に乗り出すように彼に質問した。私たち総勢五十人以上、自己紹介するなかでその日、初めて監督自ら、発言した。完全に彼に惹かれているのがわかった。

「君、面白いねぇ。僕の事知らずにここに来たの?」

「はい、全く知らないっす」全く悪びれもしない彼。

「じゃあ、何でここに来たの?」

「何となくつーか、事務所が行けっていうから」

「へぇー事務所か。じゃあ今回の映画は出れなくても構わないんだぁ…」

「はい、別に」完全に舐めきっている。私は心底苛つきが始まっていた。何だこの人は!と思った。こんな最低な人を見たことなどない。

「じゃあ、主役やるか!」監督がとんでもない発言をしている。廻りがざわめき始めている。二日に渡ったこのワークショップの中から良い素材を見つけ出し、配役が決まるというのが条件であった。

そんなことが許されるのであろうか…

まだ、演技すらも観ていないのに主役が決まってしまう。しかも、こんな非常識な最低な男が?嘘でしょ…きっと冗談だ。冗談に決まっている。そう信じたかった。

私たちの努力は?希望は?何なのこれは。こんなのあり得ない!そう思ったその時、彼がまたとんでもないことを言った。

「いや、別にいいっすよ。自分、ちょい役で。つーか、主役だと疲れますよねー、たくさんセリフ覚えなきゃなんねぇーし。なんで、脇でチョロっと使ってください」

彼は平然と笑っている。廻りの緊張感すら無視して。というより、廻りすら見ていない、完全に相手にしていない様子だった。私たちがいないかのように…

「いや、君でいくから!決定な主役。頼むぞ!チャラ男」

「いや、俺、チャラ男じゃないですよぉ…」

ヘラヘラしているこの男が主役?あり得ない!全身に虫酸走った。

完全に監督と彼、二人だけの世界が出来上がってしまっている。そこには誰もいないかの様に。

これが、芸能界か…努力や情熱など一切通用しない世界。

正直、全身の疲れがどっと押し寄せてきた。何だったんだろう、私の努力って…

国民的女性アイドルグループのメンバーが言っていた。「努力は必ず報われる」なんて嘘だと思った。

まだ、ワークショップすら始まってないのに、配役が決まってしまうこの現実。

私の貴重な時間とお金を返して欲しい本当に…

私たち、そこにいた全員がきっと同じ気持ちだったと思う。

そんなことが許されて良いものなのか?その時の私はその後に魅せられる彼の才能に全く気づくことなどできるはずなどなかった。

まして、そんな人をこうして好きになるなんて…



純正に手を引かれ歩く私…

こんな幸福な気持ちになれるのは何年ぶりだっただろう…

正直、今の生活に不満はなかった。どこにもいる極々、平凡な暮らし。

決して、裕福ではないけれど、「正社員」で私のわがままを全て受け入れてくれる優しい夫。彼は休日も必ずといっていい程、疲れているのにも拘らず家事すらも代わってくれている。

子供好きの彼は、子供をすごく可愛がってくれる。過保護な程に…

多くはないけれど、多少のお小遣いまでくれる。

彼、そう、純正に会うまでは、この生活に満足していた。

でも、何かまるでジグソーパズルの一つが埋まらない気持ちであったのは確かだった。どこか満足していてもどこか、淋しい気持ち…

きっと、男性にはわかってもらえないと思う。

女性特有の感情なんだろうって都合のいいように私は解釈している。

でも、純正とこうして会っている今、私は全てを捨ててでも、この人と一緒に居たかった。ずっと、ずっと離れたくなかった。一緒に目覚め、一緒に食事をして、彼の胸の中で眠ること。これ程、私を幸福にする人はいなかった。でも、私は全ての生活を捨てきれないずるい女だ。このなんとも言えない心をきっと純正は気付いていない。

正直言って、純正の仕事に保証などない。今はトップスターであっても、いつ売れなくなるかもわからない。明日が保証されてはいないのだ。

だから私は、夫を捨てられない。子供を捨てられない。今の生活を捨ててまでも純正とは一緒にはなれない。私は自分の矛盾している心を隠しながら、純正を騙している悪い女だと思う。

でも、純正の暖かい左手に包まれながら、幸せだな…と思う。

離れたくない…このままずっと一緒にいられたら、どれだけ幸せなんだろう。

ねぇ、純正。私を彼から奪って…

そして誰も知らない街で暮らしたい…

愛してる純正…

私の心が強く痛んだ。


私の知らない街、博多の街がより一層、華やいで見えた。





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