「与那国海底遺跡」①

 青い世界の中を、神原(かんばら)悠(ゆう)は漂っていた。こぽこぽと音を立て、レギュレーターから気泡がゆらゆらと立ち昇る。紺碧を漂うシャボン玉のように、じゃれ合いながら飛んでゆく。


 ここは、水深二五m。海の中だ。


 彼はウェットスーツに包まれた、十五歳にしては小さな体の力を全て抜き、ただ波に任せて揺られている。体を少し丸める。と、背中にちょっとだけ違和感が生じた。


 それは悠の背中に刻まれた“勇気”、あるいは“愛情”の証なのだが……今では、悠の心を苦しめる、元凶にまで堕ちていた。そうさせているのは、他ならぬ“自分自身”だ。


 悠の周りには、色とりどりの魚たちが、戯れるように泳いでいた。人間たちのしがらみなど関係なく、自由気ままに泳ぐ魚たちを眺めながら、悠は思う。


(『この世界は、九千年ごとに滅ぶのだ』、か……。はは。本当にそうなら、それはいつなんだろう? どうせなら……今、すぐにでも……)


 そこまで考え、首を振る。背中にずき、と鈍痛が走った。


(だめだ。やっぱり、それはだめ、だ……)


 鮮やかな色をまとう小さな魚たちが悠の周りを周遊する。それは悠に「どうしたの?」「何を悩んでいるの?」と尋ねているようにも見えた。


 学校ではかわいいとも貧弱ともからかわれて……いや、“虐められて”いる悠は、魚にすら警戒感を抱かせないのか。魚が人に馴れているのか。あるいは、その両方か……。


 ここは沖縄、八重山諸島。その中でも、もはや本島よりも台湾に近い、日本最西端に位置する与那国島だ。悠はこの島の有名なダイビングスポットである《与那国海底遺跡》にいた。


『悠ちゃん。悠ちゃーんっ』


 波間から差すレンブラント光線(エンジェル・ラダー)にも似た神々しい光を、水中からぼーっと見上げていた悠に、宝生(ほうしょう)美羽(みはね)からの無線通信が入った。


 ダイビング中のコミュニケーション手段がハンドサインだったことなど、もう昔の話だ。二〇二六年現在は、フルカバータイプのマスクに超小型の無線機が、標準で装備されている。仲間内で周波数を決めておけば、他のダイバー同士の会話を聞かされることもない。


「美羽? 何? どうかした?」


『今、どこにいるの? あたしはね、アッパーテラスの辺りにいるんだけど』


 アッパーテラス。与那国海底遺跡のほぼ中央にある幅七mほどの小広場だ。この与那国海底遺跡とは、太古の昔に沈んだ都市ではないかと言われている所だ。巨大な一枚岩で出来たこの海底遺跡には、人の手で造られたような城門跡やテラス、階段と思しき構造があるが、自然に出来たという説もあり、まだ論議が続いている。実際に潜って見てみれば、自然物にしては出来すぎている感があり、その神秘的な雰囲気から、絶好のダイビングスポットとなっている。


「僕は……ああ、星形の岩があるな。《亀のモニュメント》のとこみたいだ」


 まるで星のような形に浮き出している岩に、悠はマスクを向けた。浮き出しているというよりは人工的に“切り出された”と言ったほうがいいような、大きな岩だ。


『えー? 遺跡の端っこじゃない、そこー。ま、いいか。急いで来てよ。あたし、きれいなお魚見つけたんだよー』


 宝生美羽は今年一緒に海星学園高等部に入学した悠の幼馴染みだ。家が隣同士でお互いの両親も四人ともが同級生。自然と仲が良くなって、家族ぐるみで付き合っている。毎年両家合同での旅行が恒例となっていて、今年はこの与那国島へと来ているのだった。


 悠は内心「めんどくさいなぁ」と思いながらも、「分かったよ」と返事をし、アッパーテラスへと向かって、フィンで水中を蹴った。


 しかし、それは一回で終わった。


(何だ、あれ? さっきはあんなの無かったと思うけど)


 悠が“それ”を見つけたからだ。


 星の形をした《亀のモニュメント》の中心が、薄っすらと青い光を放っている。


 ここは透明度の高いスポットだが、いくら太陽光を受けたところで、これほど光ることはない。悠はそう思った。


 しかも。


 その光は、おぼろげながらも“手の形”をしていた。


 まるで「ここに手を置け」といわんばかりに手を広げた形に光っている。


(なんかの認証装置みたいだな)


 いつか観たSF映画に登場した機械にも似ている。悠は不思議に思い ながら、吸い寄せられるように手形へと進んだ。誰かがダイビンググローブの夜間発光装置をうっかり作動させてしまい、それがここに反射しているのかも知れない。そんな推測までしていた。


(反射なら、自分の手を上にかざせば影が重なる)


 軽い気持ちだった。ただ、自分の推理を証明したい。悠はそれぐらいの気持ちで――手を、重ねた。


 影は、出来ない。手形は光を維持していた。


「なっ!」


 大声を発したせいで、悠のレギュレーターからゴボボボボと大量の気泡が溢れた。


 驚き大きく見開かれた悠の黒い瞳は、亀のモニュメントの傍らに屹立する固い岩が、ゴゴゴゴゴと音を立てて開いてゆく様子を映していた。高さは一〇m、幅もそれぐらいはあるだろう岩が、軋みながら開いてゆく。水中に砂塵が舞い、視界はどんどん悪くなった。


『これは、扉?』


 回遊していた様ざまな魚たちが、素早くそこから逃げてゆく。対して、悠は動けない。体がその場に固定されてしまっていた。もうもうとした水中には、雲間から差すような光が煌いている。そして、立ち昇る砂に煙る開ききった扉の中で、“何か”がのそりと動いた。


 扉の中には光が届いていない為、はっきりと見えないが、悠にはそれが何か分かった。周りとのコントラストで輪郭だけは把握出来たからだ。しかし、悠は首を振った。そういう風にしか見えないが、だからといって、それをすぐに肯定することは出来なかった。


「そんなバカな……」


 それは人の形をしていた。

 そして、巨大だった。

 つまりは、巨人ということになる。


 こんな海底遺跡の岸壁から、人が出てくるはずがない。それが巨人だったなど、さらにあり得ないことだろう。

 

 巨人はずるり、ずるりと大きな岸壁の扉すら、狭そうにして這い出てくる。悠は目の前の光景を必死に否定する。これは夢だ。これは現実じゃない、と。そんな悠の努力も虚しく、巨人は光の当たる場所へとその姿を現した。


「えっ……?」


 はっきりとそれを目の当たりにし、悠の頭は、ますます混乱の度を深めた。


 遺跡のもっと深い所にまで伸びた足が、ずずん、と地響きを立てて海底に着いた。ぐん、と背筋を伸ばした巨人の頭は、海面すれすれにまで達している。全長、五〇mはあろうかという大きさだ。十階建てのビルくらいの高さがある。


 それだけでも驚異だが。


 ふわりと水に広がる銀色の髪。しなやかに伸びる四肢には華美な意匠の施された、薄い銀の装甲が嵌められている。人間と同じサイズにスケールダウンすれば、きっと華奢に映る体にも装甲がある。が、露出している肌の方が多そうだ。驚いた事に、その肌は柔らかそうで滑らかで、人間のものと同じに見えた。女性特有の胸の膨らみは控えめで、幼くも見える顔に吊り合っていた。


 それは、装甲を身につけた、巨大な――“少女”。


 人外の圧倒的存在感に当てられながら、悠に恐怖心は芽生えなかった。

 その大きさを無視すれば、この巨人少女は“かわいい”としか思えなかったからだ。

 巨人の少女は岸壁から外に出切ると、悠に真っ青な瞳を向けた。


 そして。


「――おかえりなさい、マスター。わたしは、ルヴァは、ずっと、ずぅーっと、マスターのお帰りを、お待ちしていましたぁ……」


 太陽のような笑顔で、そう言った。本当に普通に、しゃべっていた。

 水中にも関わらず、その嬉しそうな声は、クリアに、はっきりと発音されていた。

 悠は呆然として、ルヴァと名乗る巨人少女を見つめた。



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