第32話 天文館の夜へ
緑川が、有村と陸斗と共に玄関脇の部屋に引っ込んでから、司が由美子を手伝って洗い物を始めた。
絹子はそんなことはしなくていいと言ったのだが、さすがに由美子が強く言い切ったのだ。
「先生。もしかして、いつも見ていたお家って? ワンちゃんの」
「そう、有村のお兄ちゃんの家」
由美子が食器を洗い、司がすすぎながら、並んで笑い合った。
「他にも見に行く犬はいたけど、あそこのポニーが一番かわいかったわ。耳が垂れた雑種で、とっても優しい目をしていて」
「まさか、それが緑川さん?」
「だったら、お兄ちゃんが気にかけるのも、もっともね」
由美子は思い出し笑いをした。
「あそこのおばさん、働いていたから、子どもたちで世話をするって約束だったのよ。年の離れたお姉さんが遅くなるときは、お兄ちゃんがえさをあげなきゃいけなかったのに忘れたり、散歩を忘れて遊びに行ったり。おなかをすかせているときは、こんなになってべたーっとしてたから、私が給食のパンを持っていったりしたわ」
「給食のパン? ですか?」
「ああ、私たちのころは、食べ残したパンは持ち帰っていたの」
「そうだったんですか。その恩を忘れていないんでしょうか」
司もくすくす笑った。
洗い物を終えた二人が仏間に戻ると、絹子は縁側の籐椅子に座ってうとうとしていた。
先に部屋に入った司が、びくりと体を震わせて立ち止まったので、急いで前に出た由美子は安心しなさいというように笑いかけた。
「大丈夫。居眠りしているだけよ」
ほっと胸をなで下ろす司に、彼女は更に言う。
「夢を見るって言ったのは余計だったわ。本人がそう思っているだけなんだから。普通にしているときに突然、って言わなかったかしら?」
「はい、うかがっていました。すみません、慌ててしまって。…あ、でも、そうなると」
司は顎に指を当てて考え込む。
「どうしたの?」
「私が読んで知った範囲では、憑依状態になったとき、その人はその間の記憶がないということでした。お母様は、夢を見たとおっしゃるんですよね? では、見た内容を覚えていらっしゃるということでしょうか?」
「ええ、そうなの。ぼんやりとだけど、覚えているみたいよ。でも、それを聞いたのは、私が目の前にいたときだけ。場を繕うために、作り話をしただけかもしれない。父からも兄からも、誰からも聞いたことがないから、本当のところはわからないけど」
二人は話しながら絹子の様子を見ていた。
かすかないびきをかいて、ときどきこっくりしている。
「黙って行きたいところだけど、さすがにそれはだめでしょうね」
由美子はそう言うと、そばに寄ってそっと肩をたたいた。
「お母さん、私たち、出かけるから」
「…うん? ああ、寝ちょったか。うん、帰りは遅かどが、みんなで来たらよか。みんなで泊まれ。あたいは早う寝っで、自分たちで布団を敷きやい。陽ちゃんにも、来いち言うてな」
絹子は、まだ眠そうにあくびをした。
「まちっと、びんたのぼーっとすっが」
「いいわよ、寝てなさい。じゃあね」
「うん」
絹子はまた、まぶたを閉じた。
「行きましょう」
苦笑いのような表情で声をかけた由美子に、司は「はい」とうなずくにとどめた。
定期観光バスに乗ったという司の話を聞いていた由美子は、本当に観光に行くつもりではなかったようだ。
白男川家の近くからバスで市街地に出ると、タクシーに乗り換えて真っ直ぐ城山展望台に向かった。
この日雨は降っていなかったが、梅雨時の金曜の午後、人の姿は少なかった。
遊歩道を少しばかり歩くと、すぐに展望台に着く。
雲がかかっていたものの、どっしりしたすそ野を眺めるだけでも桜島は見ごたえがある。
「昨日は、もうちょっとよく見えたでしょう」
「そうですね。でも、桜島は見飽きないです」
「ずっと住んでいると、灰のこと以外気に留めなくなるけどね」
二人はぶらぶらと歩いてから、人のいないベンチに腰を掛けた。
「この辺りには、昔よく猫がいたものだけど、いないわね」
ぐるりを見回した由美子は、残念そうだ。
「猫もお好きですか?」
「動物はなんでも好き。有村のお兄ちゃんのところには、いっとき猫も居着いていたわねえ。えさもやっていたようだけど、いつの間にかいなくなっちゃった」
「今は、飼おうと思われないんですか?」
「そうねえ」
彼女はふうっとため息をついた。
「若いころは、一人暮らしで動物を飼う勇気が出なかった。今になると、自分が死んだ後のことを考えて、手が出せないのよ」
「先生は、まだお若いのに」
「犬でも猫でも、二十年生きることを考えなくちゃ。私も連れ合いも六十代なんだから、もう無理はできないわ。体力のこともあるしね」
少しばかりしんみりした空気が流れた。
「それにしても、有村さんには驚きました」
司が、それを思い切って口に出すまでには、しばらくかかった。
「ええ。私も思ってもみなかったわ」
「きっとお忙しい方でしょうし、東京からということは、前から予定されていたんでしょうね。本当に」
「そうね。私たちは、機をとらえることができたのかしら。予定外の人だけど」
「あの…、子どものころ、いじめられたりしたんですか?」
「私?」
おずおずと訊いた司に、由美子はびっくりした顔を向けた。
「そうねえ。いじめられてたっていうと、違う気もするけど。私、おてんばだったって言ったでしょ? だからか、男の子並みに乱暴に扱われていたの」
「でも、ちょっと苦手なんですね?」
「やっぱり、そう見えた?」
由美子は苦笑いをした。
「うるさいんだもの。デリカシーが無いの。会ったのは何十年ぶりだけど、変わらないわねえ」
二人はそれから時間まで、有村や由美子の幼いころの話などをしてから、待ち合わせ場所に向かった。
有村が指定したのは、ごく一般的な全国チェーンの居酒屋だった。
金曜の夜だが、キャンセルがあったとかで個室を予約できたという。
未成年の陸斗を気遣ったのだろうが、有村もたばこの臭いがしないほうが助かると言った。
彼らと行動を共にしていた緑川は、もうすっかり馴染んだようだ。
口数の少ない陸斗も、緊張が見られなくなっていた。
酒を飲まない彼は、有村が頼む料理を遠慮なく口に放り込んでいた。
「ねえ、リク。お婆ちゃんの料理に飽きてるんじゃない?」
由美子はそんなふうに訊ねた。
「いや、お母さんの料理よりおいしい。ただ、外食は久しぶりだから」
「だろうな。今度から、こっちに来たら、外に連れ出してやるよ」
外見通りにぐいぐい飲み食いしている有村が、胸を叩いて請け合った。
「そうしてもらうといいわ。それと、お婆ちゃんの具合はどう? 悪いところはないのかしら」
「大丈夫。たまに整形外科に行ってるけど、しゃべりに行ってる感じ」
「由美ちゃんよ。心配なら、たまには自分で訪ねてきたらいいじゃないか」
有村は大きな声で言った。
「今日だって、お客さん連れじゃなかったら、帰ってこなかったんだろうが。何年帰らなかったんだ?」
「あっちが喜ばないのよ」
由美子は、つんと顎をそらした。
「まあ、おばあちゃんは口が悪いからなあ。旦那のことも気に入らないかもしれない。だとしても、まあ、年も年だからな。武志も武志だ。ちっとも来ないだろう、リク」
「来ないほうがいい」
「おう、それはそうか。まあ、今のところはこのままでいいってか。よそ様の家のことだから、黙りますよ、はい」
有村は、口にチャックをする真似をした。
「完全に黙られても困るんだけど」
由美子は、やや高飛車に言った。
「ん、何だ?」
「はっきり言って、お母さんとゲームの仕事をしている理由が気になるの。親孝行の真似事?」
「こりゃまた、はっきりすぎるねえ」
有村は大袈裟にのけぞってみせた。
「じゃあ、こっちもはっきり言おう。ゲームのネタをもらっているからだ」
「ゲームのネタ?」
由美子が眉をひそめる。
司と緑川も、目を見合わせた。
「由美ちゃんは、おばちゃんの<夢の帳面>を知ってるか?」
「え、何よ、それ?」
「妙な夢を見たとき、内容を書き留めてるノートのことだ。走り書き程度のもんだけどな。ああ、夢っていっても、夜寝て見るやつじゃないぞ。昼間に見るやつだ」
由美子の顔色が、驚きのあまり青くなった。
司のいつもの微笑みも、拭い去ったように消えた。
陸斗は、訴えかけるような緑川の視線から、気まずそうに体ごと顔をそらしている。
店のBGMが、妙に響いた。
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