第16話 知るべきことは

 司は奥のフロントの近くの、ついたてで仕切られたスペースに、白男川を案内した。

 周辺には飾り用の低い棚などを配置して、客の足を遠ざける工夫をしてある。休憩用のテーブルと自動販売機も、離れるた場所に設置し直したのだ。

「秘密の話ができるほどではないですけど」

「告解室のこと?」

 白男川は、いたずらっぽく笑った。

「うちの大学、カトリック系なのよ。森脇さんには通じなかったわねえ」

「では、チャペルもあるんですね」

「そうなの。ステンドグラスが自慢でね。クリスマスのミサには外部の方も入れるから、良かったらどうぞ」

「ありがとうございます」

 大学の話などをしていると、所長夫人がコーヒーを二つ持ってきた。司は恐縮し、白男川は「所長さんが持ってくると思ったわ」と笑った。

「森脇は、事務室に留めておきますから。どうぞ、ごゆっくり」

 夫人はそう言って、にこやかに去っていった。


「さて、どこまで話したかしら?」

「緑川さんは、忠犬だというところです」


 いつもの笑顔で生真面目に答えた司に、白男川はうなずいた。


「彼に、あなたのことを訊ねたって言ったかしらね。そのことで、気を悪くしないでほしいんだけど」

「大丈夫です」

「おとなしくて真面目。でも、感情を表さない人だって言う人もいるって、緑川君が言っていたの。ああ、彼は全力で否定していたわよ。そんなことありませんって。私も、あなたは感情豊かだと思う。表現方法は人それぞれだもの」

 司が頭を下げるのを見つつ、彼女は話を続ける。

「そもそも緑川君のことだって、知り合って間もないころは苦手だったのよ、私。あの人、すぐに私のことを持ち上げるようになったけど、どこを美化しているのか解らなくて。裏があるんじゃないかって、気味が悪かったの。ほら、彼って人を誤解させるようなとこ、あるじゃない?」

「私は、勝手に怖がっていました」

「あの見た目だもの、仕方がないわ」

 内緒話のような小声になった司に、白男川は肩をすくめて見せた。

「でも、今では彼のこと、忠実なワンちゃんみたいに思ってるわけ。ところで、ねえ、さっきの話と矛盾するようだけど。人のそばで暮らして、人とはどういうものかをよく知っているペットなら、人に生まれ変わることがあるんですって」

「もしかして、犬を飼ってらっしゃいましたか?」

 司は、笑みを深めて訊ねた。

「欲しかったけど、飼えなかったのよ。母が嫌っていてね。だから、近所の犬を見て回るのが楽しみだったの。昔はだいたい、犬小屋につながれていたものよ。ほとんど放置されてるような子もいたし。そういう子は、向こうも私が声をかけるのを待っていてくれるように思っていたわ」

「そういうワンちゃんのどれかが、緑川さんに?」

「だったらいいなって、思わない? 緑川君のことも、ないがしろにしちゃいけないって思えるし」

 二人はとうとう、声を上げて笑い合った。


「緑川君が、私を探して生まれ変わった犬だったらいいな。犬の愛は、無償の愛だもの」

「そうですね」

 すっと笑いを収めた白男川は、ふうっとため息をついて続ける。

「私、このところ、ちょっとした決断を迫られていることがあってね。いえ、違う、迫られてはいないわ。決めるのは自分自身だから」

「そうなんですね」

「今日、あなたの顔を見た瞬間に、そのお話をしようと決めたの。でも、長々とおしゃべりをしてしまったわね」

「私…」

 勢いをつけて言いかけたものの、司はぐっと息をのんだ。しかし、なんとか言葉を絞り出す。

「私の何かが、先生の気に障っているのを、ずっと気にして」

「いいえ、いいえ、それは違うわ」

 言葉を強くさえぎって、白男川は身を乗り出した。

「はっきり言わなかった私が悪いの。あなたじゃなく、あなたのすぐそばの話をします」

 

 司は目を見開いて、きゅっと唇を結んだ。


「あなた、誰かに見られているような感じがすることってない?」

 ほんのわずか、司が身じろぎをしたと同時に、白男川が問う。

「…それは、ストーカーのようなものでしょうか? それとも?」

「ああ、ああ。そうね」

 白男川は、ぴしゃんと自分の額を叩き、素早く辺りを見回してから息を吐いた。


「ずいぶん落ち着いていること」

「いえ、それなりに驚いていますが」

「そう? そんな風に見えないわ。おかげでほっとしたような、妙な気持ちよ」

「がっかりしたのではないですか?」

「あなたに? とんでもない。さあ、回りくどいことは止めなくちゃ」

 白男川は、ぺしぺしと自らの頬を両手で叩いた。


「あなたの顔の左横、ちょっと上の辺りに、空間のゆがみが見えます」


「…はい?」


「私は、他の人に見えないものが見えるたちなの」


 ぎぎぎ、と錆びついたロボットが動くようなぎくしゃくした動きでゆっくりと、司は自分の左横を向いた。

 瞳を動かしてみる。更に横、更に上を見てみる。何もない。いつもの空間。

 司の動きを、白男川は黙って目で追っていた。


 司は目を閉じた。更に強く閉じた。そのまま動かない。すうっと、頬の色が引いてゆく。


「わかった。わかったから」

 常の司にはない、打ちのめされた声がもれた。


「どうしたの?」

 目を開いた司は、心配そうにのぞき込む白男川の顔を見たようだったが、焦点が合っていない。

「声が、私に」

「何か聞こえたの?」

「いつもの。また、あんなことを」

「姿の見えないものに、返事をしてはいけないわ。何て言われたの?」

「結び目を解いて、中に入れ」

 

 白男川は腕組みをして、しばらくその言葉を咀嚼しているようだった。


「今までにも、そう言われたことが?」

「何度か」

「心当たりは?」

「ありません。でも、シルクロードさんの動画で」

 ようようはっきりしてきたように、司は頭を振った。

「ああ、緑川さんが教えてくれたんです。ゲームの中のセリフと同じだって。それで調べようとしてたとき、寺田君がシルクロードさんのことを教えてくれて」

「そうだったの。それで、見たの?」

「はい。全く見たことのない、ゲームの一場面でした。それなりに重要な場面だったみたいです」

「今も、そのセリフが聞こえたのね?」

「はい。それで、今、今までにない状況になりました」

 白男川は、問いかけるように首を傾げた。

「両耳が、詰まってしまいました。先生のお声も、水の底で聞いているみたいです。帰りに、耳鼻科に行かなくては」

「気分は悪くないの? 変な話のストレスが…、それとも、聞くなっていう…」

 白男川は、胸に手を当てて続けるべき言葉を探しているらしい。

「いえ、他は大丈夫です。あ、そうじゃないかも。幻聴の原因は…」

「頭がおかしくなったって考えているのなら、それは違うわ」

 白男川は、断言した。

「先生が見ているもののせい、ですか?」

「そう」

「先生には、何が見えているのですか?」


「空間のゆがみと言ったけれど、それはイメージを言葉にしただけで、私も初めて見るものなの。知っているものの中では、陽炎が一番近いかしら。それとも水蒸気かしら。沸騰しているやかんの、湯気のそばの透明なところ。そんな透明な、光の屈折が周囲と違っている部分。それが、アメーバみたいに固まって、宙にあって」

 白男川は、もどかしそうに手を動かしながら説明していたが、突然腰を浮かせて右腕を突き出した。司の顔の左横、見えると言っているその辺りへ。


「あっ」

 白男川は、すとんと腰を下ろして手も戻した。


「触れたんですか?」

「いいえ、何も。でも、光った」

「光った?」

「カメラの絞りっていうの? それとも、つむじ風? きゅっとすぼまって消えたんだけど」

 空中で手をぐるぐる回しながら説明しようとした彼女は、司の顔が硬直していることに気付いた。


「先生。他にもその光を見た人がいます。寺田君と、もう一人」

「え?」

「最初は、お泊まりのお客様でした。カメラの絞りのようなという表現をなさいました。霊感があって、夜が辛いというお話をされた方です。それから寺田君。寺田君も、泊まりのときに、一度だけ。光のつむじ風のようなと言ったと」


 司が言葉を切ってから、二人は黙って見つめ合った。


「最近、続けて起こる物事はないかしら」

 しばらくして、白男川がそう言った。

「あ、はい。ゲーム、ですね。ゲームに関することが続くなあって、感じてました」

 司は、すぐにそう答えた。

「そう、ゲーム。リクのこともそうなのね」

「そう思います」

「負の連鎖と言う言葉があるけれど、良い方向にも、とんとん拍子にっていう表現があるわ」

「はい」

「そういうときには、流れに乗るべきだと、私は思う。時機をとらえて流れに乗らなければ、もう二度と近づくことはできなくなるものよ」

「はい」

「流れに乗りなさい」

 白男川は、きっぱりと言い放った。

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