第11話 酒の上の出来事
「いらっしゃい! よっ、毎度!」
うわんと反響する人声と食器の触れ合う音と共に、ビールのジョッキを運んでいた童顔の若い店員が声を張り上げた。
「珍しいな、女連れ?」
彼は、不思議そうに首を傾げた。
「先発隊が来てるだろう。店の方の」
「いや、来てないけど?」
緑川は慌ててスマートフォンを取り出すと、店の隅で電話をしたりメールを送り出した。その間、司は所在なく立っていた。
「うー、誰も出ねえ。やかましい店にいるってことかよ」
最初の店員が通りがかって、あきれたような目を向けてきた。
「 せっかく入って来たんだし、うちで飲んでったらいいだろう」
「そりゃまあ、どっちにしても申し訳ないけど、どう?」
問いかけられた司はうなずいた。いつもの固定した笑顔だったが、時任がいたら、仕方なさそうだと表現したかもしれない。
二人はカウンターの一番奥に通された。
「とりあえず、ビールでいい?」
司がうなずくと、緑川は中ジョッキを二つ注文した。すぐに届いたビールで、まずは乾杯した。
「夜勤明けだっていうし、大変だったな。腹減ってない?」
もちろん、寝ていたことは知っているのだ。メニューを見せながら緑川がそう言ってくれたが、司はすぐには返事ができなかった。
「種類が多くて迷うだろ? ここは俺のお勧めで頼んじゃっていいかな」
「はい」
じゃあ、と彼は店員を呼んだ。
「マグロのコロコロと、パーティースティック。それと、焼きむすびは二皿」
やがて運ばれて来たのは、まず、さいの目に切ったマグロの赤身とキュウリ、玉ねぎ、トマトを和えたもの。それから、トレイに大ぶりなグラスを三つと、ディップやハーブ塩の小皿を数種類載せたもので、グラスの中身はスティック野菜、グリッシーニ、細く巻いたチーズ入りの春巻きだった。
「ここは焼きむすびが美味いんだ。時間がかかるから、腹一杯になりすぎないように、加減して食べろよ」
マグロの一口目を食べて目を見張っていた司は、うんうんとうなずいた。
緑川は主に飲む方で、ビールの次に冷酒を頼んでいた。
機嫌良く飲みながら、一方的に話し続けていた彼は、司が箸を宙に浮かせたままで、動きを止めていることに気が付いた。
「どうした? 大丈夫?」
緑川は驚いたものの騒ぎ立てず、しばらく様子を見てからそっと訊ねた。そして、司が返事ができるようになるのを待った。
「突然すみません。私、耳が悪いんです」
「そうなのか」
ようやく箸を置いた司は、まず謝った。
「耳鳴りはいつものことなんですが、たまに工場の作業音レベルにうるさいことがあって。他の音が聞こえなくなるんです。すみませんでした」
「謝らなくていいよ。大変だろう」
緑川は眉をひそめた。
「そういうとき、他は大丈夫なのか? 頭が痛いとか、気持ち悪くなるとか」
「それはないんです。大丈夫です、引いたみたいですから。でも」
「でも、何?」
「ちょっとの間、お話が聞こえてませんでした。すみません」
「いいよ、いいよ。酒の席のくだらない話だから」
緑川は、励ますように笑いかけた。
「ところで、病院は行ってるのか?」
「はい。あの、<あおぞらクリニック>なんです」
「あー、あの変人三兄弟のとこか。俺、<千石クリニック>の担当なんだよ」
彼の言うクリニックは不眠外来の専門で<こもれび>とは紹介をしあう仲である。数年前に古いパーキングビルを壊して建てられた、五階建てのビルの最上階にある。完全予約制でネット予約も導入済みであり、評判も良いようだ。
同じビルに、アレルギー科をメインに耳鼻科の看板も掲げる<あおぞらクリニック>があるのだが、その院長が二男で<千石クリニック>の院長が三男だ。更には<千石泌尿器科医院>も同じビルにあり、これは年の離れた長男がやっているという。
三兄弟の父親が元の駐車場の経営者で、他に飲屋街のビルをいくつか持っていたが、数年前に亡くなったと聞いている。もう一人、紅一点の末っ子が眼科医で、同業者のところへ嫁いでいるらしい。
「四人の子供が全員医者になるなんて、どんな家系でしょうね」
「それな!」
緑川は力を込めて言った。
「うちの親父、亡くなった爺さんと顔見知りだったんだけど、子どもはみんなガリ勉で、本当につまらない奴らだって、いつも愚痴ってたらしいぜ」
「うわあ」
司はうつむいて、ぶるっと身震いした。
そこへ、年配の店員が近づいて来た。
「よう、リョクちゃん」
「あ、ご無沙汰っす」
緑川はにやりとして応じる。
「女連れだって聞いてよ。こりゃまた、真面目そうなお嬢さんだ。でも、あれかい。坊さんか、シーツかってやつか」
「シーツじゃなくてシーフっす。それと、こちらは職場の後輩です」
手で示された司は、小さく頭を下げた。
「いらっしゃい。そうか、生身で何よりだ」
司にちょっと片手を挙げてから、白髪頭の店員は緑川の背中を叩いた。
「参ったなあ」
ちっとも参ったようではないが、緑川は鼻の頭を掻いた。
「で、これからもご贔屓にってことで、お嬢さんにサービスだ。こんな奴だが、愛想を尽かさないでやってくれよ」
司は礼を言って小鉢を受け取った。
緑川は「ひでえな」と言いながら、小鉢をのぞき込んだ。
「お前さんには無しだ。ま、度々ごひいきに」
小鉢の中味は、豆鯵の南蛮漬けだった。
「たまにここでオフ会するんだけど、野郎ばっかだから、珍しいんだろ」
店員の後ろ姿に目をやって、緑川が言った。
「オフ会ですか」
「そ。レインボークリスタルを求めて集いし仲間たち」
「レインボークリスタル?」
「おやあ、意外にも食いついてきたな? まさかぁ?」
なぜだか期待に満ちた笑顔を向けて、緑川は先をうながした。
「私、一個ですが持ってます」
「やったあ、まさかの発言!」
緑川はテーブルを叩いて、はしゃいだ。
「そんなに意外ですか?」
「そりゃそうだ、って言ったら失礼だな、うん。望外の喜びでございますですよー」
「そんな、大げさな」
「あ、レオーニはだめ?」
司はわずかに目元を動かしたが、基本がいつもの表情なので、緑川には通じなかったらしい。
「えーと、どこ? どこで手に入れたんだ?」
「レインボークリスタルですか? えーっと、どこだっけ。結構高かったんですよ」
「高いの? やっぱりそうなのか」
緑川は大げさにショックを表した。
「ええ。一万はしなかったけど、七、八千はしたはずです」
「わっ、それじゃ無理だ。まだ貯めないと」
司はこてんと首を横に倒した。
「いや、いろいろ使っちゃって。まだ貯められるだろうって思ってたから。うん、ちょっとがんばるか」
司は何か言いたそうな顔をしたが、結局止めた。その手がつかんだビールジョッキを見て、緑川は指さした。
「完全に気が抜けてるだろ。あんま好きじゃないのな? 気が利かなくて悪かった」
気泡もすっかり消えたビールは、まだ半分近く残っている。
「他の頼めよ。女の子の好きそうなフルーツ系、いろいろあるはずだし」
ドリンクメニューを差し出されて、司はジョッキを引き寄せた。
「そんな。もったいないです」
「じゃあ」
緑川が太い腕を突き出すと、さすがの司もひるんだ。その隙に、彼は奪ったジョッキの中味を一息に飲んでしまった。
ああ、と惜し気な声をもらしたものの、司はウォッカの赤しそジュース割りだというドリンクを頼んだ。
「これまた渋いものを」
「赤しそジュースが好きなんです」
「ふうん、ならいいや。で、クリパレは何作目から?」
「え?」
司は微笑んだまま、疑問の声を発した。
「二十周年だから、初代からってのはないだろう。俺は、二作目もやったけどな、後から」
緑川は冷酒を一口飲んで続けた。
「小六で三作目を買ってもらったんだ。誕生日プレゼント。四で終わりかと思った後に、久々に五が出たときは嬉しかったなあ。つまらなくなったって声もあったけど、やっぱクリパレってだけでいいよなあ」
「え、何がですか?」
「いや、クリスタルパレスだけど?」
じわじわと緑川が妙な顔つきになった。
「ロンドン博のですか? なぜ今、その話ですか?」
「ロンドン博って?」
「いえ、万博の後に再建されたんですよね? 私だって知ってますし」
「何だ、再建って」
緑川は酒をぐっと飲み干し、追加注文するために片手を挙げた。
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